第28話


 声につられて視線を向けると、いつもの如く不敵な笑みを浮かべた暁さんが、ちょうど石段を登り切ったところに立っていた。


 先輩と会長。

 二人が並び立つと、いよいよ頭がバグってしまったかと思うほどよく似ている。けれど、それぞれが放つ雰囲気はまったくの真逆で、今であれば僕も見違えることはないだろうと確信できるほどに、その違いは明白だった。


「姉さん……」


 悠月会長が忌々しげに呟く。

 対する先輩は「悠月がいつまで経っても戻ってこないものだから、心配で探しに来てしまったよ」などと飄々と言ってのける。

 二人の間には隔絶する壁があるかのようだった。


「それで、どうなのかな、悠月? それは悠月のやりたいことなのかい?」


 先輩が再度問うと、


「姉さんが――貴方がそれを言うの? よりにもよって、全てを投げ出した貴方がッ‼」


 腹に据えかねるとばかりに会長は声を荒げる。


「どうしてそんなに簡単に捨てられるのよっ‼ みんなの願いや応援を……どうして‼」


「悠月。私は自らの責任を放り投げるつもりなんて決してないよ。……ただし、ね。なんでもかんでも抱え込むつもりも毛頭ない。ただそれだけのことさ。私は所詮、ただの人だ。出来ることには限りがある」


「姉さんなら出来るじゃない‼ 私なんかより簡単に、私なんかより完璧にっ‼」


「……前にも言ったじゃないか。善悪は社会に紐づくものだ。現代日本において自由は是とされているものだろう。まして、カビの生えた高貴なる者の務めノブレス・オブリージュなんて、犬も食わないさ」


「姉さんッ‼」


「悠月。間違えないことだ。それは父の受け持つべき責任だよ。君が背負うべきものでは端からない」


「……ッ。もう……いいわ」


 悠月会長は最後にそう言うと、石段を一人足早に降りていく。暁さんは会長の姿が暗がりに呑まれ見えなくなるまで、無言でその姿を見送っていた。


「さて――君もなにか言いたいことがあるようだね、優人くん?」


 会長の姿が見えなくなると、暁さんの視線が僕へと向けられる。

 その黒い瞳は全てを見透かしているようにすら感じられた。これまでのことも、これからのことも、彼女の中では計算され尽くしているのだろう。もしかすると、このまま彼女に流されたままである方が、結果として幸せな未来へと繋がっているのかもしれない。


 けれど――たとえそうだったとしても、そんなものは認められなかった。

 僕の中にある醜悪極まりない自己エゴが、積もり積もった憤りが、その捌け口を探してやまなかったのだ。


「暁さんは前に言ってましたよね? 自分の行動の一切には意味があるのだと」


 僕は努めて冷静な口調で切り出した。


「ああ、言ったね。あれは君と一緒に父に会いに行った時だったかな。それがどうかしたかい?」


「それは――本当ですか?」


「無論だよ。二言はないとも」


 躊躇なく彼女は言い切る。

 やっぱり彼女は……


「なら、今一度訊かせてくだざい」


 僕はそこで言葉を区切り、大きく息を吸って肺の中に空気を詰める。そして、胸の内につかえたもの諸共に、一気にすべてを吐き出した。


「貴方の行動のどこからどこまでが意図したもので、どこからどこまでが偶然だったんですか?」


 僕の口から発された振動は、それほど大きなものではなかっただろう。声量だけで言えば、部室で世間話でもしている方がよほど大きかったはずだ。

 けれど、そこに込められた意味は確実に彼女へと打撃を与えていた。


 一筋の亀裂が入る。

 ピシピシ、ピシピシ――と、その亀裂は広がっていき、遂には彼女の顔に大きく歪んだ弧が浮かんだ。


「へー、まさか君がそこまで気づくとは――思っても見なかったよ。まったく、要らないところで妙に賢しいね、君は」


「……質問に答えてくれませんか?」


「概ね君の想像通りだと思うよ? まあしかし、せっかく君が質問をしてくれたんだ。しっかりと答えてあげるべきかな?」


 そうして彼女は、まるで理を説く説教者のように滔々と語り始めた。


「君をどうして自由部へ入れようとしたか。まずはそこから話そうか。君も知っての通り、あの時は部員不足でね。少々困っていたんだ。愛美はああいう性格だしね。下手な人間を入れるわけにもいかなかった。それにつけ、君という人間はもってこいの人材だったわけだ。学校に蔓延した愛美に対する噂を知らず、そしてなにより愛美の妹ちゃんを助けたことのある人間。これ以上はない人選だろう?」


「なんでそれを――僕が明里ちゃんを助けたことがあるってことを知ってたんですか?」


「ははっ、それは偶然だよ。むしろそこが始まりと言っていいかな。君があの子を助けたからこそ、私は君を部へと勧誘した。今なら君もわかるんじゃないかな? 愛美はあれで、身内にはとことん甘いからね。彼女に心を開かさせるのに身内への親身な行動というのは最適解なのさ」


 たしかに、僕が明里ちゃんを曲がりなりにも助けたことがあるという事実は、夕星さんの警戒心を大きく削いでいたように思う。


「そこから先は君の方が詳しいかな。私は意図的に君と愛美が二人きりになる状況を作り出し、状況が煮詰まるのを待った。そして、いい感じに場が整ったところで、妹ちゃんという切り札をきったわけだ」


「いや、切り札って……あれこそ偶然じゃないんですか?」


「ん? いいや、切り札であっているよ。なにせ、あの子の好きな飴を三袋ほどで、手を打ってもらったんだからね」


 いや明里ちゃん、買収されてたんかいっ! 思い返してみたら、めっちゃコロコロ飴玉舐めてたし。それにそういえば、家に連れ込まれてから妙な間があった。そもそもの目的が助けてもらったことへの御礼じゃなくて、夕星さんに合わせることだったのか……。

 どおりでぎこちなかったわけだよ‼


 ん? ……いや、ちょっと待てよ。


「ちょっと待ってください。どうして僕の居場所がわかったんですか?」


 たしかあの時、僕は散歩に出ていた。そりゃある程度予測することはできるかもしれないけれど、そんな都合よく僕を見つけることができるのか?


「それは君、今時小型発信機のひとつやふたつ。簡単に手に入れられるからね」


「それは犯罪でしょうが――ッ⁉」


「なにを言う。悪というのは他人を不安にさせることで初めて成り立つものだよ」


「絶賛、僕が不安にさせられてますよっ⁉」


「そうせせこましいことを気にしているとモテないぞ。発信機や盗聴器のひとつやふたつ。気にしない度量を見せなければ」


「盗聴器もあるのッ⁉」


 あとで見つけ出して絶対に破壊してやる。僕はそう心に誓った。


「さて、他にもいろいろとしたね。君と悠月に面識を持たせようと、悩み事があったらここに来るよう君に言ってみたり、君がスイと話したそうにしていたから愛美と一緒に部を休んでみたり。いずれにしても、私はその時々において、自らの目的のためにあらゆる行動をしてきた。ただそれだけだよ。どうだろう? 君の予想通りだったんじゃないかな?」


 彼女のいう通り、概ねは予想通りだった。

 細い事情や、実行した手段は予想がついていなかったけれど、彼女が自らの目的のため状況を分析し、その状況に合わせてあらゆる行動を取ってきていたのは僕の想定していた通りである。


 簡潔にまとめるならば、彼女は偶然をすら嫌っていたのだ。運命を認めない彼女は、偶然を認めながらもそれに頼り切ることを良しとしなかった。自らの望みを自らで勝ち取る。彼女にとって、それはなによりも優先すべき事柄なのだろう。


 そのためになら、計略。権謀。機略縦横。

 彼女は正にあらゆることをしてきたわけである。


 だから結果として、僕は彼女の掌の上で踊らされていたのだろうけれど、そこに憤りは感じない。そもそも目的のために考え、行動することは誰しもが少なからずしていることだろう。その精度や頻度が普通の人と比べ物もないほどに高いものだったとしても、それを咎めようとは思わない。


 ただ――


「……小箒さんの母親の件も意図的に起こした、そういうことですよね?」


 これだけは許せることではかった。

 あの時の小箒さんの生気のない蒼白い顔は、今でも僕の頭の中にこびりついている。彼女の絶望がいかほどのであったか、想像することもできない。


 辛かったはずだ。

 恐ろしかったはずだ。

 寂しかったはずだ。


 たとえ最終的には彼女を救うつもりであったのだとしても、友人を絶望の淵に叩き落とすような決断をどうしてできるというのだろう。僕には決してできないし、したいとも思わない。


 ――否定してほしかった。


 あれは偶然で、先輩にとっても不慮の事故だったのだと。

 そうであれば僕の勘違いで済む。僕の少し恥ずかしい先走りだったのだと笑って済ませられる。


 だけど――


「そうだよ? だからどうしたんだい?」


 暁さんはあっけらかんとそう言い切った。


「……ッ。どうして……どうしてっ、そんなことが出来るんですかっ⁉」


 僕は激情に任せて彼女に詰め寄る。正面に立って、彼女の目を睨め付ける。

 しかしそれでも、彼女は眉ひとつ動かさなかった。


「どうして……か、ここはスイのためというのが無難なのかもしれないけれど、あえて言おう! ――私の自由のためさ!」


「先輩はッ――――‼」


「君も既に知っているだろう? この世に自由はありふれてなんていないんだ。むしろそれは途方もなく希少なものだよ。それこそ、あるかどうかもわからないほどに、ね」


「そんなくだらないもののために、小箒さんにあれを強いたっていうんですかっ!」


「くだらない? いいや、それが全てさ」


 この期に及んでふざけてるのか? 僕はいよいよ我慢の限界に近づきつつあった。


「いいかい? そこに自由がないのであれば、それはただの物理現象の行き着く果てに過ぎない。意志も感情も、無為に堕してしまうんだよ」


「……理解できません。なら、先輩のいう自由って一体なんなんですか?」


 僕がそう問うと「よくぞ訊いてくれたね!」と彼女は笑みを深める。


「私の考える自由――それにはまず第一に、確固たる主体を、物語を持った人間でなければならない。誰が自由であるのか。それがわからなければ話にもならないだろう。そして次に、その物語や欲求に対し、妥協してはならない。場合によっては考えを改めることもあるだろうけれど、妥協し諦めるなどあってはならない。そして最後――その望みを自らの手で叶えることだ。自分の取りうるあらゆる手段を用い、あらゆる考慮を行って叶える。偶然に頼るのではなく、自らの意志で成し遂げる。それでこそ、自由といえるものだろう」


 ストイックという言葉が真っ先に頭に浮かんだ。一流のアスリートとか、そういう人達が持っていそうな考え方だ。

 ひとつの物事に妥協なく、一意専心して励み、臨む。それができること自体凄いことではあると思うけれど、しかしそれでも、僕が想定していた答えよりも意外と普通だった。


「ふふっ、意外に普通だと思ったかい?」


 ……だからなんでわかるんだよ。


「だが考えてもみたまえ、この世に不自由な人間のなんと多いことか。ダイエットをすると宣いながら、間食をする人間。勉強をしようと思いながら、ゲームをし始める人間。あれをしようこれをしようと考えつつも、惰眠を貪る人間。誰も彼もが、自分の意志よりも脳内に発せられる快不快に抗うことのできない不自由な人間ばかりだ」


 まるで自分のことを言われているみたいで、僕は反射的に反発してしまう。


「別にそれは不自由ってわけじゃないでしょ。まあ、意志が弱いとか、そういう風には言われてしまうかもしれないですけど、別に悪いことでもない」


「ははっ、それはそうだよ。悪いだなんては言っていない。ただ、それは自由ではないと言っているんだ」


「……でも、ほら。ぼんやりとしていても、自由だなって感じられることはあるじゃないですか?」


「それは幸福感を感じていると言った方が正しいんじゃないかな。オキシトシンやドーパミンみたいな幸せホルモンがよく分泌されているんだろう。一応言っておくけれどね。私の言っている自由とは、肉体的な自由でも精神的な自由でもなく、意志の自由。自由意志と言われるもののことさ」


「いや、でもっ……」


「ふむ。まだ納得とはいかない感じかな? では、こう付け加えよう。快不快に流されて生きることを自由と定義する場合、私たちはいわゆる薬物中毒者を最も自由な存在として崇め奉らなければならないだろう。なにせ彼らは人為的に極度の快感を得る手段を持っていて、それを頻繁に行使しているわけだからね。それはそれは自由になれていることだろう」


 一瞬、納得しかけてしまう。

 彼女の言葉はなぜだか説得力があって、非難しようとしていたはずなのに、知らず知らずのうちに丸め込まれてしまいそうになる。


 けれど――今はそんなこと関係ないんだ。


 たとえ、彼女の言っていることが正しかろうと、それを認めることなんて僕にできはしないのだから。


「もし仮に……あの時、小箒さんの母親を止められず、彼女が転校することになっていたら? もう二度と会うことができなくなっていたら? 先輩はどうするつもりだったんですかっ‼」


 勝手に自由を謳歌するぶんには別に構わない。だけど、他人の自由を、他人の幸福を奪うことがどうして許されるっていうんだ?


 どうしてそうも自分勝手にいられるんだっ‼


「ああ――なんだ、そんなことか」


「そんなことっ⁉」


「ん? ……ああ、いやすまない。スイのことを軽んじているわけではないよ。ただ――その質問に対する答えは初めから決まっているんだ」


「……どうするっていうんですか?」


「単純だよ――」


 彼女は至極当然のことを言うように、さらっと言った。


「――責任を取るだけさ」


 責任を取る?


「どうやってですか? 謝って許しでも乞う? それともお金で解決できるとでも?」


 どちらにしろふざけた話だ。偶然の出来事なら仕方ない。突発的な出来事なら、どうしようもないこともあるだろう。でも、彼女は計画的に小箒さんの人生を弄んだんだ。

 そんなことで許されるはずがないだろう。


「どうやって、か――」


 未だ収まりがつかない怒りが脳内でせっせと罵詈雑言を生み出し続ける。

 けれど、続く先輩の言葉に、彼女の覚悟が僕の予想の範疇には全くないことを僕は思い知ることになった。


「スイの望む全てを差し出すとも。私の命を含めた全てをね」


「えっ――?」


「謝罪をしろと言われれば、精一杯の謝罪をしよう。お金を払えと言われたら、少し時間はかかるかもしれないが、必ず言い値の額を用意しよう。そして、死ねと言われたならば――自らこの命を断って見せよう」


 唖然とする。


「……どうしてそこまで」


 気づくと言葉が口をついて出た。

 罪に重さがあるように、罰にも重さがあるだろう。小箒さんの人生を狂わせることは重い罪だとは思うけれど、それと彼女の命が釣り合うとまでは思えない。


 それに罰なんて普通値切るものじゃないか。どうして自分から吊り上げるような真似をするんだ? 不自然に傾いた天秤に僕は疑問を挟まざるを得なかった。


「勘違いしないでほしいんだが、私とて軽々しく自分の命を懸けるつもりはないよ? ただ今回はその価値があると思っているだけさ。それにね。責任とは背負ってこそ価値のあるものさ! 背負わされては意味がない。責任能力という言葉があるだろう? 自分で自分の行動をコントロールできない人間は責任を問われない。――つまり、自由でない人間には責任はないわけだ。わかるかな? これを逆説的に言えば、ということになる」


 ポカンと呆気に取られている僕に、彼女はこの世で一番幸せなのは自分だと宣言するように気持ちよく声を伸ばす。


「そうさ――! だからこそ私は責任を負うんだよ‼ それがどれだけ忌避すべき対価を求めてこようとも、責任だけがこの私に自由を保証してくれるのだからっ‼」


 ――狂っている。


 高らかに語る彼女の姿を見て、僕は真っ先にそう思った。ただ同時に、すとんと腑に落ちる感覚もあった。


 彼女はもう既に自分の生き方を決めているんだ。どうしようもないほどに自分がどんな人間なのかを理解している。


 そしてだからこそ、彼女は死を厭わないのだろう。その生き方を失うことは、自分を失って生きるということと同義だ。今の彼女を人間とするならば、それはさながら人形と成り果てるようなものだろう。それは下手をすれば死ぬよりも耐え難いものなのかもしれない。


 僕は知っていた。


 その感覚を。


 たった一回、ほんの一瞬だけとはいえ、決して忘れることのできない強烈な理解。それを失うことを考えることもできないような、自分の中心にある大きな柱。


 ――僕にはもう見えなくなってしまったもの。


 いつの間にやら僕の中から怒りは霧散し、強い羨望だけが未練がましく残った。


「どうやら理解してもらえたようだね」


 なにが、なにをは今更言う必要もない。そう言外に示しながら彼女は淡々と言った。



「では続けようか。この私の――物語をね」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る