第23話


 一も二もなく、勿論四の五のも言わずに、僕は先輩の依頼を受け入れた。

 これまでに何度も相談に乗ってもらっている身としては、恩返しができる機会はむしろありがたかった。


 僕も鶴に負けてはいられない。機織りはできないけれど、愚痴なり悩みなりを吐き出すための床屋の穴くらいの役には立ってみせよう。


 そんな意気込みではあったけれど、その場で話し続けるには、やや場所が良くなかった。

 市民会館にはそれなりに人がいるし、またその中には彼女の知人も含まれている。相談というからには、出来れば他に人のいないところで――と思うのは自然なことだ。


 そして幸いなことに『他に人のいない話しやすい場所』に僕たちは心当たりがあった。


「来てくれたんだね。改めてありがとう、優人くん」


 あの古びた神社へと辿り着くと、彼女は既にベンチに座っていた。自身が座っている横へと僕を促しつつ、謝意を述べてくる。


「いえ、こんなことくらいは全然」


 僕は彼女の隣に腰を下ろしながら、そう言った。


「とは言っても、ここは君の家からはそこそこ遠いだろう? 大丈夫なのかい?」


「大丈夫ですよ。歩くのは好きな方なので」


「やや遅い時間にもなってしまったが……」


「そっちも大丈夫です。うちは結構放任主義なので」


 さすがに午後も十時を回ってくると、小言のひとつくらいは覚悟しなければならないけれど、今はまだ午後五時を回った程度。一、二時間なら問題にもならないだろう。


「そうか……」


 彼女は呟くと、その先を躊躇うようにして空を見上げた。

 沈黙がしんしんと降ってくる。

 それはなかなか治る気配を見せなかった。

 僕はあまり気の利いた人間とは言えないけれど、それでも彼女がその先の言葉を、胸に抱えたその思いを、口に出しづらいのだと察するくらいのことはできたし、その気持ちは痛いほどわかった。


 僕が初めて彼女に相談を持ちかけた時もそうだ。純粋な自分の問題を他人に明かし、なおかつ助言を求めるというのは結構ハードルの高いことだった。


 ここはひとつ僕が気を利かせるべきだろう。そう思って、


「それで、えっと……先輩の相談したいことってなんなんですか?」


 僕が努めて自然な感じを装って声を上げると、先輩もちょうど心の整理ができたのだろう。固く閉ざされていたその口をゆっくりと開き始めた。


「……それ、なんだけどね。わざわざ君を呼び出しておいて申し訳ないんだけれど、実を言うと大した話ではないんだ」


「えっ、そうなんですか?」


 意外だ。先輩のことだから、僕では及びもつかないスケールの大きい悩みを持っているのだろうと思っていたのに。


「ああ。なんと言うべきか……そうだね。君は私が哲学に興味を持っていることを知っているだろう?」


「えっと、はい」


「君に尋ねたいことはそれに関わることだ。私個人の悩みというより、私がどう考えるべきか迷っている哲学上の難題について、君の意見を聞いてみようと思ったんだよ」


 これはまた想像のつかない話だった。

 相談なんてこれまでの人生で一度も受けたことはなかったけれど、相談と称して哲学の議論をしだす人はまずいないだろう。やっぱり暁さんは変わった人である。


「どんな問題なんです?」


「なにから説明すればわかりやすいかな? ううん。……ああ、そうだ。君はラプラスの悪魔という言葉に聞き覚えはあるかい?」


「ラプラスの悪魔? えっと……漫画とかアニメとかで聞いたことはありますけど。なんでしたっけ? 『未来を予知する悪魔』でしたっけ?」


「まあ、概ねその認識で合っているよ。ラプラスの悪魔は――端的にいえば、この世の全ての情報とそれを物理法則に則って処理する頭脳があれば、未来の結果も予知できるという考えから生まれた空想の存在だ」


 たしかにそんな説明が漫画でもされていた気がする。未来予知って、作品によっては最強格だったり、ちょっと便利くらいの能力だったり、扱いが結構まちまちなんだよな。

 にしても、それがどう関わってくるんだろう?

 哲学ってことは悪魔は存在するのか、みたいな話だろうか。


「悪魔なんて存在のままだと現実味に欠けるかな? ……そうだね。仮にだけれど、この悪魔と同等の能力を持つスーパーコンピューターがあるとして、そのコンピューターが弾き出す結果は未来をどれくらい正確に予知できると思う?」


「この世の全ての情報がある前提でってことですよね?」


「ああ、勿論」


「この世全ての情報を持っていて、それを物理法則に従って計算できる能力も持っているわけですよね。なら、完璧に予測できるんじゃないですか?」


「……そうだね。まさにラプラスの悪魔とはそういう存在として規定されている。この世が因果律に則って存在している以上、悪魔の出した結論はわけだ」


 ところで――と言いながら、彼女は突然両手を僕の前へと差し出した。その手はどちらも握りしめられている。


「片方の手の中には百円玉が入っている。右と左どちらの手に入っていると思う?」


「え?」


 なんかの心理テストかな? それにしても唐突だ。


「えっと……じゃあ右で」


 考えたところで分かるものでもないので、僕は適当に右を選んだ。しかし、僕の答えを受けて彼女が右手を広げると、中にはなにも入っていなかった。その後広げられた左手には百円玉が入っていたところを見るに、純粋に二分の一を外したようだ。


「残念。ハズレだね」


「……なんですか、急に」


「君が百円玉の入っている方を当てられる確率はどれだけあったと思う?」


「それは五十パーセントでしょう?」


「なら、悪魔ならどうだろう。ラプラスの悪魔はどれだけの確率で正解を当てられたと思う?」


「えっと……百パーセントですか?」


「そう。その通りだ。ただし、悪魔の場合は君とは条件が大きく異なる。君は今この瞬間に私の質問を受けて回答をしたわけだけれど、悪魔の場合、たとえ地球が生まれる遥か前からでも、今この瞬間に私が君に質問をし、私が左手に百円玉を握り込んでいることを予知することができただろう」


「地球が生まれるより前の時点での全ての情報があって、それを計算し続ければってことですか? ……まあ、できるかもしれないですけど、空想の存在の話ですよね? この問答になんの意味があるんです?」


 僕が問うと、彼女は肩をすくめて見せる。


「たしかにラプラスの悪魔は空想上の存在だ。その存在にも、それが予知できるであろう未来にも、本質的に意味はない。なにせ、実際には存在しないわけだからね。君のいう通りさ」


 でも――と、彼女は続ける。


「私たちがその存在の有り様を認めてしまえることには、やはり問題があるんだよ」


 ぼんやりと手元にある百円玉を眺めながら彼女は言った。いつもの覇気のある表情とはまるで違う。熱を感じさせないその視線に、僕は体温を奪われていくような感じさえした。


「……ど、どういうことですか?」


「ラプラスの悪魔という言葉が一人歩きしてしまっているけれど、それは本来、とある学説から生まれた存在なんだ」


「学説?」


「そう。因果的決定論と呼ばれる説さ。言っていることはラプラスの悪魔と大差はないが、この説で問題とされているのは――私たちの未来はひとつしかなく、それは既に決定されているというところなんだよ」


 ――君も認めていただろう?

 彼女はニヒルに笑う。


「この世全ての情報があり、それを処理する能力があれば未来が正確に予知できる。この考えを認めてしまえるというのは、詰まるところ――私たちの意志ですら物理法則の範疇でしかないと――そう言っているようなものなのさ」


 言われた瞬間は意味がわからなかった。

 僕の意志が物理法則でしかない?

 そんなわけないだろうと、反射的な否定が湧き出てくる。けれど、考えてみればみるほどに、その言葉は否定できないものだった。なにせ、彼女も言った通り、僕は認めてしまっているんだ。


 ――未来を完璧に予知できる。


 この考え方自体が、人間の意志を、僕の意志を、完全に否定してしまっているんだから。


「その感じ、君にも上手く伝わったようだね。――未来が完璧に予知できる。それはつまり、未来が一通りしか存在しないのだと認めるに等しい。そして、未来が一通りしかないのなら、私たちの意志も、それによる選択も、所詮は私たちの思い違いでしかないことになる。なにせそれは、初めから決まっていることなんだから」


 ふと寒気がした。

 体が鋼鉄の塊でできているみたいに冷たく感じる。僕はそれを認めたくない一心で、すがるように言った。


「で、でも、説ってことは、否定する意見もあるってことですよね?」


 予感があったわけじゃない。理屈があったわけじゃない。それはただ衝動的に言ったことだったけれど、先輩は悪戯のばれた子供みたいに笑った。


「ふふっ、案外と鋭いね。実を言うと、因果的決定論は既に否定されているんだよ。君も量子力学という言葉には聞き覚えがあるんじゃないかな? シュレディンガーの猫とかね」


「ああ、はい。聞いたことはあります。なにを言ってるのかはよくわかんないですけど」


「不思議だよね。正直、私もはっきりと理解できているわけじゃないけれど、ミクロの、非常に小さい世界では、確率的にしか物事が決まらないことがあるらしい。観測するまでは未来は確定しないってやつだね。そして、当然これは未来は既に決定しているという決定論の主張に反している。量子力学を否定的にみる向きは少ないから、間接的に決定論は否定されたとみてもいいだろう」


「な、なんだ、そうなんですね……」


 僕は安堵して、小さく息を吐いた。

 けれど、僕の吐いた息の合間に、彼女は間髪入れず差し込んでくる。


「――でもね。量子力学は人の意志を認めてくれるわけじゃないんだよ」


「えっ?」


「そもそも量子力学は非常に小さな世界の話だ。私たちが通常認識できるほど世界に影響を及ぼせはしない。それにね。仮に、量子力学が私たちの未来に複数の選択肢を与えてくれたとしても、そんなものに意味はないんだ」


「な、なんでですか? 未来が決まってしまうわけじゃないんでしょう?」


「たしかに量子力学では未来は決まっていない。でも、それは言ってしまえば、選択肢はあるが、選択は確率で決まるってことに過ぎない。ゲームで言うと、いくつかの選択肢が出てきても、どれが選択されるかは自動的に確率で決まりますよって状態だ。そこに人の意志が挟まる余地なんてないんだよ」


 彼女はそこまで言うと、居住まいを正し、僕に向き直った。


「だいぶ長くなってしまったね。申し訳ない。回りくどくなってしまったが、結局私が君に訊きたいことはひとつだけだ」



 君は――



「――?」



 壊れた人形みたいな微笑みが僕を見つめていた。








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