第21話
先輩から突然呼び出しを受けたのは、勉強会の翌週のことだった。
自由部の部員で構成されているグループチャット――ではなく、僕個人に対しての呼び出し。しかも、『午前十時に駅前へ集合』という意図の汲み取れない簡素なメッセージだ。
気が進まないことこの上なかったのだけれど、僕は自分でも意外に思うほど律儀に、集合場所へとやってきていた。
まず確実に面倒ごとに巻き込まれるのだろう。どのような無茶振りがくるのか、想像することさえ憂鬱だ。どんよりとした今にも降り出しそうな曇り空は、まさに僕の心情を表しているかのようですらあった。
なら、どうして僕はここへと来てしまったのか?
疑問が浮かび自問してみると、答えは思った以上にするりと出てくる。
僕は――きっと期待しているんだ。
今までがそうであったように、また今度も彼女が忌々しいこの停滞を打ち払ってくれるんじゃないか、と。
進路希望調査票の提出期限は着々と迫ってきていて、いつまでも空白のままにしておくわけにはいかない。けれど、それを考えようとするたびに、僕は恐ろしくなってしまう。前も後ろも、どころか自分の掌さえ見えない暗闇に閉じ込められたみたいに、不安と恐怖で体が震える。このままではいけないと思ってはいるものの、考えること自体を身体が拒否してしまっていて、思うように考えが進まなかった。
だから僕は――それが本当はいけないことだと思っていても、期待してしまう。
彼女がまた変化をもたらしてくれることに。
それがどこまでも他力本願で、身勝手な話でしかないとわかっていても――
「やあ、待たせてしまったね」
声をかけられて、僕ははっと頭を上げた。
赤いハーフコートに黒いマフラー。駅前の濁流の如き喧騒の中でも、先輩の姿は一際きわだっていて、僕は不覚にも息を呑んだ。
勉強会の時のカジュアルな服装とは異なり、ややフォーマル寄りの服装。それが彼女の端正な容姿とよくマッチしていて、まるで雑誌の表紙からそのまま出てきたかのようだった。
「あ、えっと、おはようございます、先輩」
「ああ。おはよう、優人くん。……って、どうしたんだい? 急にそんな目を逸らして?」
「いえ、なんでもないです……」
一瞬とはいえ見惚れてしまったことに、葛藤を覚える。いや、確かに彼女の容姿は優れているし、服装もとても良く似合っているのだけれど、相手はあの暁さんなのだ。なんというか、それはあまり抱いてはいけない感情のような気がした。
「ふむ……」
彼女の訝しむような視線が突き刺さる。僕は黙秘を貫くしかなかった。
「……まあ、いい。あまり時間もないし、早速目的地へ向かうとしよう!」
そう言って暁さんは歩き始め、僕は気づかれないように小さく息を吐く。
「ところで目的地ってどこに行くんですか?」
「ふふっ、それは着いてからのお楽しみだよ」
鬼が出るか蛇が出るか――
恐ろしさ半分、期待半分ほどの心持ちで、僕はその背を追いかけた。
◇
駅前は予想の三倍は混んでいた。
平日であれば広さに十分なゆとりがあるペデストリアンデッキにも人がごった返していて、さながら波のように蠢いている。あちこちから聞こえる話し声に至っては、もはやひとつひとつは判別が不可能なほどだし、そこにエンジン音やクラクション、宣伝カーの爆音が相まって、僕は早くもげんなりしていた。
暁さんの背中だけは見失わないよう、距離をあけずに着いていく。階段を降り、アーケードを横切って、混雑地帯を抜ける。
そうして、さらに十分ほど歩いたところで、ようやく彼女の足が止まった。
「着いたよ。ここが目的地だ!」
僕は目の前の建物を見上げる。
正直言ってまったくの予想外だった。
暁さんがいくら変わり者とはいえ、彼女だって学生だ。休日に出かけられる場所なんて限られているし、僕自身そこに目新しさを求めてなんていなかった。
でも、これは――
「ここって市民会館、ですよね……?」
目の錯覚……じゃないよな?
「うん、そうだよ? 目の前にしっかり書いてあるじゃないか?」
「……ですよね」
休日の真っ昼間にふらりと市民会館を訪れる学生。なんて奇天烈な存在なんだろうか。
そんな存在が実在したことに僕は開いた口が塞がらない思いだった。
「あれ、優人くんはあまり来ないのかい? 市民会館」
「実はよく来るんです――なんて言う学生がいるかっ‼」
「ははっ、違いない。ほら、中に入るよ。もうすぐ時間だ」
躊躇なく入っていく暁さんに連れられ、僕も中へと入っていく。
当然だけど初めて入る場所だ。しかも、制服でこそないけれど、僕らが学生であることは周囲から見て一目瞭然。大人びた格好をしている暁さんならばともかく、僕みたいな野暮ったさの塊のような人間が踏み入れていい場所ではない気がした。
端的にいえば、もの凄い場違いさを感じる。
実際、入ってすぐのフロントエリアには、一世代から二世代は上の大人しか見受けられなかった。
「……というか、意外と人がいるんですね。もっと閑散としているかと思いました」
僕が小声で言うと、
「確かに、普段はこれほど人はいないだろうね。だけど……ほら、あれの影響さ」
暁さんはそう言って前の方を指差した。
指の先を目で追うと『××市長選挙 公開討論会』と書かれた案内板が目に入る。そしてその横には、各立候補者の選挙ポスターがずらりと並んでいた。
「選挙……ですか」
「興味はあるかい?」
「逆にあると思います?」
僕が問うと、彼女は肩をすくめて見せた。
「さてね。ないとは思うけれど、意外な一面がないとも言い切れない」
「いや、ないですよ。高校生で政治に関心のある人なんて、そういないでしょ?」
「そうでもないさ。実際、私の身近にも一人いる。まあ、あれは関心があるってわけじゃないんだろうけれど。それだけに――」
先輩は不自然に口を閉ざした。表情は見たこともないほどに悩まし気に歪んでいる。
「先輩?」
僕が呼びかけると、
「……ああ、すまない。少しばかり考えに耽ってしまったよ」
拙い返しだった。見るからに先輩は、なにかしら悩みを抱えているようである。
正直、意外極まる話だった。
何事にも即断即決の彼女のことだ。大抵のことは、即座に解決できてしまうだろうに、なにに悩んでいるというのだろう?
疑問はある。手助けしたいという気持ちもある。けれど、その先に踏み込む勇気は僕にはなかった。
「あら、暁ちゃんじゃない⁉」と、そこに横合いから声をかけられる。
「ああ、宮本さん、お久しぶりです」
声をかけてきたのは優しい笑みが印象的な老齢の女性だった。
「ほんとに久しぶりね。前はよくお父さんに着いて歩いてたのに。最近はめっきり見なくなっちゃったから心配してたのよ?」
「もう私も高校生ですからね。あ、それより父はもう?」
「ええ。ちょうど終わったところだから、裏に行けば会えると思うわ」
「ありがとうございます。ああ、それと――」
先輩は宮本さんに近づいてなにかを耳打ちする。
「え? ええ。いるわよ。今は多分、佐藤さん達といるんじゃないかしら? なにか伝言しておいた方がいい?」
「いえ、大丈夫です。あとで直接伝えますので」
「そう? わかったわ」
宮本さんがちらっと僕の方を見る。
「それじゃ、あまりお邪魔をしても良くないし、私は帰らせてもらうわね」
「はい。お気をつけて」
僕はずっと蚊帳の外だった。なんの話をしていたのかもよくわからない。
聞き取れたところから推測できたことは、宮本さんは暁さんと親戚のような間柄であることと、暁さんの父親が近くにいるらしい――ということくらいだった。
「お父さんがここで働いているんですか?」
僕がそう訊くと、暁さんは驚きの表情を浮かべて言った。
「まだ気づいていなかったのかい⁉」
「え、気づくって……なにに?」
「まったく君は……察しが悪い時はとことん悪いね」
やれやれとばかりに頭を振り、彼女は無言でそれを指さす。指の先を追ってみると、その先にあったのは、さっきも見た選挙ポスターだ。
「このポスターがなんなんですか? 勿体ぶらないでくださいよ」
僕がそう言ってもなお、彼女は無言で指をさし続ける。
……なんなんだいったい。このポスターのどこを見ろって言うんだ?
全部が全部、同じような構図で出来たポスター。中央に候補者らしい大人の顔がデカデカとあって、その横にこれまた大きく名前が書かれている。時々、道端で見かけるものと大差はないザ・選挙ポスター的な見た目だった。
特別見るものなんて、なにも……――
と、端の方にあったソレに目を移した時、僕はようやく気づいた。
その間違え探しみたいなポスター群の中に、ほんの少しだけ見覚えのあるものが混じっていることに。確か、どこかの倉庫に貼られているのを見たことがある。それがどこだったのかは思い出せないけれど、今重要なことはそのポスターに書かれた名前の方だった。
『天道 樹』
暁さんの名字と同じ『天道』。そして、近くにいるという彼女の父親。これがまったくの偶然であるはずがないだろう。
しかも、そのポスターにはこれまた強調されて『現職』と記載されている。
つまり、彼女の父親は――
「そう。君の考えている通りだよ。私の父はこの市の市長を勤めているんだ。まあ、役職こそ大層なものだけど、実際はただの石頭の中年さ。気にかけることでもない」
「気にかけますよ⁉ というか、もしかしてこれから会いにいくってことですか⁉」
「勿論だとも!」
「いや、なんでっ⁉」
「なんでもなにも、女が意中の男性を父親に紹介するんだよ? 理由なんて言わなくてもわかるだろう」
意中のって……。いや、度々そういう話が上がっていたのは確かだけれど、婚約者だとか彼氏だとか――あれを本気にしろって言うのか?
さすがに無理があると思う。最初の頃は、もしかしたら本気なのかもしれないなんて僕も思っていたけれど、ここ数ヶ月一緒に過ごした感覚から言って、彼女が僕に恋愛感情を抱いているとはとても思えなかった。
だとしたら、この行動になんの意味があるって言うんだ?
うだうだと考えているうちに、僕はさらに奥へ奥へと引き摺り込まれる。
職員以外立入禁止と書かれた扉を抜け、細く長い通路を超える。そして、いくつかあったスチール製のドアの中に『天道 樹様 控え室』の表札を見つけると、彼女はその扉を躊躇なく開けた。
「失礼するよ、父上!」
「……暁か」
威厳のある低い声が僕たちを出迎えた。
ポスターでも見た五十代ほどの男性。深く刻まれた眉間の皺や総白髪は、苦労の多さを思わせる。自由奔放な暁さんとは真逆の謹厳実直なイメージの人だった。
「……なにをしに来た」
「なにをしにとは――娘に対して随分な言いようだね」
「時間もない。御託はいらん」
「まったく……相変わらずの石頭だね。要件は一つだよ。彼との顔合わせさ」
暁さんの父親。樹さんの視線が僕へと向けられる。鋭く、しかしそれでいて柔らかい。正反対のはずのそれらが奇妙なこと両立した眼差しだった。
「君が、例の……」
「あ、えっと……葉隠 優人です。よ、よろしくお願いします」
僕がどうにか挨拶を絞り出すと、
「不束者の娘がお世話になっております。私は暁たちの父で、天道 樹と申します。娘が度々ご面倒をおかけするかもしれませんが、どうかよろしくお願いしたい」
慇懃な返事と共に樹さんは頭を下げてくる。
「い、いえ、こちらこそ」
僕は慌ててお辞儀を返した。深々下げた頭を戻すと、樹さんと目が合う。その目は初孫を見るお爺さんのように、優しげに細められた。
「……娘の相手は大変でしょう? 私どもも常々手を焼かされておりましてな。思いつきをすぐに実行する悪癖があるのです」
……すごく身に覚えのある話だ。
「昔は大人しい子供だったのですが、なにがどうしてこうなったのやら……」
「昔の暁さんはどんな感じだったんですか?」
気になって訊いてみる。
「一言でいえば、優等生――でしたな。手のかからない子で、今とは違い落ち着きもあった」
「想像できませんね……」
「ははは、でしょうな。今や嬉々として無意味なことばかりする、困った子供ですから」
「それは聞き捨てならないな。この私の行動に意味がないだって? むしろ逆だよ。私の行動の一切には意味があるのさ」
暁さんの反論を受け、樹さんは重々しく息を吐く。
「お前の突飛な行動のどこに意味があると言うんだ?」
「我が父ながら耄碌したね。残念でならないよ。意味とはすべて人が定めたものに過ぎないだろうに」
「……なにが言いたい?」
「言葉や数字さえ、本来意味を持たないものだ。であれば、自ら意味を定めることになんの問題もないはずだろう?」
「あの突飛な行動にも、お前なりに意味があると? そんな独りよがりな傲慢を誰が認めるというんだ」
「理解できないことを無意味と断じる。そちらの方こそ、よほど傲慢だろう?」
交錯する二人の視線から火花が飛び散っているように見えた。
親子仲は良好――とは言えないらしい。
――コンコン。
険悪な空気を切り裂くようにノックの音が響く。
「……入りたまえ」
「失礼します、市長。移動の準備が整いました」
「そうか」
樹さんが僕の方を向く。
「すみませんが、私の方はこれで失礼させていただきます。積もる話もありますが、それはまたいずれ我が家の方で」
「あ、はい……」
ん? ちょっと待って。今、暁さんの家に招かれることが確定しなかった?
樹さんは部屋を出ていく。僕が訂正する間もなかった。
「まったくあの石頭はどうにかならないのかな」
先輩も大概だと思いますよ? とは口に出さなかった。口は災いの元である。
「まあ、いいや。目的の半分は果たせたし」
「半分?」
「あ、いやなんでもないよ」
はぐらすかのように彼女は言う。
「時に君、ここで少しだけ待っていてくれないかな?」
「え? なんでですか?」
「少しお花摘みにね。それじゃ!」
彼女は一方的にそう言うと部屋を出ていった。
僕は部屋に一人取り残される。
初めて来た場所の、それも関係者以外立入禁止エリアの一角に。
……ひどく居た堪れなかった。
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