第20話
彼女の言い分はこうだった。
勉強は重要だ。
学力なんて社会に出てからなんの役にも立たないと思うかもしれないけれど、将来の選択肢を広げることには必ず役に立つだろう。選択肢が広がれば、視野も広がる。そうなれば、未来を想像することも比較的しやすくなるに違いない。
なにより、勉強は簡単で手っ取り早いじゃないか、と。
「いやいや、勉強が簡単なら誰も苦労はしませんよ」
と僕は反論したが、
「君のあるかどうかもわからない才能を奥底から引っ張り当てるより、よっぽど簡単で手っ取り早いだろう?」と返されると僕は黙るしかなかった。
さらにトドメとして「それに君、前回のテスト数学は赤点ギリギリだったじゃないか」と続けられ、僕は完全に沈黙する。
夕星さんや小箒さんが難色を示してくれれば、まだ却下できる目もあったのだけれど、むしろ二人とも乗り気で――勉強会の開催は決定事項となってしまった。
まあ、それはこの際仕方ない。
だけど――
「どうして僕の部屋でやる必要があるんですかっ⁉」
僕の部屋に入り込んでくる四人を見て、改めて僕はそう叫ばざるを得なかった。
「え、面白いからだけど?」
他に何かある? とばかりに暁さんは言う。
このぐう畜生め……。
「あれー見つからないなぁ」
「そして、なんで早速、ベッドの下をまさぐってるんですかッ⁉」
「いやー、二人にも見せてあげようと思って」
「アルバム感覚で見せびらかせようとしないでくれます⁉」
『なに探してるの?』
「な、なんでもないよ! 小箒さんはここに座って。夕星さんはこっちに。それと……」
「お兄さん! わたしは何処に座ればいいですか?」
明里ちゃん。なんで君までいるの?
「いや、ごめん。なんか着いて行くって聞かなくて……」と夕星さん。
「あ、あはは……じゃあ、明里ちゃんはこっちに」
「はい‼」
随分と元気がいい返事だった。その元気を僕に少し分けてくれないだろうか……。
僕はもう精神的にボロボロである。
『これ、リング系の新作。おー』
「ちょっと、明里。大人しくしてる約束だったじゃん。なに他人の家で勝手に漫画読んでんの!」
「でもお姉ちゃん! ここで読まなきゃ、もう二度と読めませんよ‼」
「むぅ、やっぱりない。隠し場所を変えてきたみたいだね。なら次は本棚の裏を……」
「早く勉強始めませんかッ⁉」
ここまで勉強を早く始めたいと思うことは生まれて初めてのことだった。
◇
ようやく騒ぎが落ち着き、みんなが勉強に取り組み始めると、それは想像していた勉強会とはだいぶ異なる形となった。
互いの苦手分野を教え合う――というのが僕の勉強会に対する勝手なイメージだったのだけど(もちろん経験したことはない)、実際は三人が僕に勉強を教え込む会となっていたのである。
だが、考えてみればそれも当然だった。
小箒さんは言うまでもなく、夕星さんは日頃から勉強に熱心だし、聞くところによると学年十位以内の常連。暁さんはひとつ上の学年だけど、彼女にしても学年トップ争いをしている学年上位者らしい。下から数えた方が圧倒的に早い僕のような人間に、彼女たちへ教えられることなど何一つとしてなかったのである。
そうして、三人に包囲され二時間弱ほど頭に知識を詰め込まれていると、下の階から物音が聞こえてきた。
ドンドンドンドンと足音が階段を上がってくる。
そして、まっすぐ僕の部屋の前まで足音がくると、ノックもなく扉が開け放たれた。
「お兄、お昼作ってよ。お腹減った――……」
入ってきたのは中学のジャージを着込んだ妹だった。部活終わりのためか、気怠そうにしている。だが、その物臭な表情は部屋の中を一望し、一瞬で驚愕に染まった。
次いで、順繰りと時計回りで視線が部屋の中を動いていって、最後に未だ漫画を読み耽っていた明里ちゃんに目がとまると、
「こんな小さい子まで⁉」
素っ頓狂な声を上げる。
お前は僕をなんだと思ってるの?
「今日、部屋に友達呼んで勉強会するって言っただろ?」
「え、あれ本当だったの? 友達とか絶対嘘だと思ってた」
お前な……。
「やあ、美春ちゃん。お邪魔しているよ」
「あ、お兄の彼女さん! どうもどうも、不束者の兄がお世話になってます」
「その格好、部活帰りかい?」
「え? あ、はい。そうなんですよ。すみません。小汚い格好で……」
「いやいや構わないよ。それより、部活終わりならお腹もだいぶ減っているだろう。私たちもそろそろ休憩をしたい頃合いだ。ちょうどいいし、一度みんなで昼休憩を挟もうか!」
言われて時計を見てみると、もうすっかりお昼時の時間帯だった。胃の中身も頃合いに空いていて、しきりに体を動かす燃料をせがんでくる。
確かにちょうどいいタイミングだった。
「じゃあ、一階に行きましょう」
一応家主でもある僕が先導し、一階のリビングへと全員で移動をし始める。
階段を降りている途中。
「そういや、昼食ってどうすんの? 弁当はいらないって言ってたけど……?」
そう訊いてきた夕星さんに僕は簡潔に答えた。
「実はもう作ってあるんだ」
「え? もう昼食の準備できてんの?」
「うん。みんなが来ることはわかってたし、結構人数がいるからさ。いざ食べようってなってから準備すると時間がかかっちゃうかなって。まあ、作ったといっても大したものじゃないんだけどね」
「へー、あんたって料理できたんだ」
「まあ、料理って言っても、ただのカレーライスなんだけど……」
量も作れて作り置きもしやすく、そして美味しい。カレーはこういう時、非常に便利だ。
僕は言いながら一人キッチンへと向かい、今朝作ったカレーに火を入れた。
「あ、席は人数分用意しておいたんで、適当に座っておいてください」
そう促して、僕は皿を出したり、人数分の飲み物を準備したりと動く。夕星さんは「なんか手伝うことある?」と気を回してくれたけれど、そこまでやることもないので、麦茶を入れたコップだけリビングへと運んでもらった。
そのうちに僕はせっせと鍋をかき混ぜる。そうして、数分が経ち、ぷくぷくとカレーが煮立ってきた頃。気がつくとリビングの方がにわかに盛り上がりをみせていた。
話の中心にいるのは美春のようだ。僕は気になって聞き耳を立ててみる。すると早速、小箒さんの言葉を耳が拾った。どうやら料理についての話題のようだった。
『――夕飯は優人がいつも作ってるの?』
「そうなんですよ。母と比べるとさすがにレパートリーとか少ないんですけど、お兄もそこそこ上手いし、休日とかは結構凝ったものも作ってくれたりします」
「ほう。それは主夫としては申し分ないね」
「ですです。オススメですよー。今なら大特価でお譲りしちゃいます! 開始価格はプライスレスです!」
……しれっと兄を売ろうとしないでくれる? あと、プライスレスは無料って意味じゃないからね?
身内のお馬鹿な発言に羞恥心を感じていると、美春のふざけた言葉に呼応して、先輩はまるで競りでもするかのように一本指を掲げる。
「なら、私は一〇〇円で買おう!」
……僕の価値はワンコインだった。まあ、無料よりはマシだけれど。
「お、暁さんから一〇〇円が出ました! 残りのお二方はどうします?」
美春はオークショナーのように競りを促す。マイクを持っているかのように丸く握って、手を二人に向けているあたり、この妹、兄を売り飛ばすのにノリノリである。
次に二本指を掲げたのは小箒さんだった。
『二〇〇〇コロンビア・ペソ!』
「わお! 一気に数字が二十倍! これは決着ですかね?」
なぜにコロンビア・ペソ⁉
ってか、これで決着はないでしょ。せめてもう少し高値で売りつけてよ!
「じゃあ、あたしは三〇〇〇〇〇〇〇〇〇ジンバブエ・ドルで」
「なんと……‼ すごい勢いで値段が上がっちゃいました!」
驚愕の値が出たみたいに驚く美春。
いや、あの……順調に下がってるんだけど?
ジンバブエ・ドルってもう流通してないから、実質価値なしってことですよね? ってか、なんでそんなスルスル他国の通貨が出てくるの?
「ちなみに、もっとアピールポイントはないのかい? それによっては、値を上げるのもやぶさかじゃないよ。彼の恥ずかしい話でも可だ!」
可じゃないが?
「兄のアピールポイントですか……。まあ、良くも悪くも普通なところですかね? 変に気疲れしないっていうか、身構える必要がないっていうか。あとは、家事全般はできますし、放っておくと勝手にやってくれるんで便利ですよ。万能家電みたいで。ただ、まあ――ちょっとマザコンっぽいところが玉に瑕ですけど……」
「ちょ、美春っ――⁉ デタラメ言うなよっ⁉」
僕はいよいよ堪らなくなって、いったん火を止め、大急ぎでみんなの下に駆け寄った。
「えー、お兄は絶対マザコンだって。夕飯作り出したのも、ママが忙しい忙しいってボヤいてたからでしょ?」
「いやまあ、それはそうだけど……」
「掃除とか洗濯とかも手伝ったりしてるし」
「いや、それは……そのくらいしかできることがないってだけで」
「できるのとやるのとは別問題でしょ。わたしはできるけど全く手伝ってないし!」
自慢気に言うんじゃねぇよ。このぐうたら妹め。普段のお前の芋虫っぷりを知り合いに拡散させてやろうか? と、恨み節は浮かんでくるけれど、どうにも返す言葉は浮かんでこなくて。
そうこう手をこまねいている内に、
「ま、あんたらしいよね」
『うん、優人らしい』
と、二人は勝手に納得してしまった。僕は頭を抱える。
どうにか逆転の一手を――と、考えてもみたのだけれど、良案は一つもなく。僕はすごすごとキッチンへと敗走する他なかった。
しかし、その道中――
「料理が得意で母親思い、か――」
今度は暁さんが、物思いに耽るようにして、そう呟いた。
そのまま無視して行ってしまおうかとも思ったのだけど、いつもと違う先輩の声音に後ろ髪を引かれて、僕は結局足を止めた。
「……なんですか?」
「いや、悠月に似ているなと思ってね」
「悠月?」
誰だっけ? 聞いたことはある名前だ。
「あ、元部員の人でしたっけ?」
「ふふっ、そうだよ。君はまだ実際には会っていないんだったね」
と、少し笑いながら言う先輩。だがこれに、夕星さんが驚きの声を上げる。
「え、マジ⁉ あんた悠月のこと知らなかったの?」
「う、うん。そうだけど……有名な人なの?」
「有名人ってか……――」
「いいじゃないか、そんなことは。どうせ、遅かれ早かれ、嫌でも会うことになる相手だ。なにせ――我が校の生徒会長だからね」
暁さんは夕星さんの言葉を遮り、そう言うと、「そんなことより、早くご飯にしよう! 美味しそうな匂いに私もお腹が減ってしまったよ」と強引に話を終わらせる。
夕星さんは少し不服そうだった。
――元自由部部員の生徒会長。
僕も気にならないと言えば嘘になる。
どんな人なのか? どうして部を辞めたのか? 関心は尽きない。
ここで暁さんに、その悠月会長とはどんな人なのかと訊いてみたい気持ちも勿論あった。
けれど今は――昼食の準備を最優先にしなければならなかった。ついに鳴き出してしまった妹の腹の虫を、放っておくことは僕にはできなかったのである。
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