第18話
それから程なくして、小箒さんの母親が既に転校手続きを始めようとしているという一報が、先輩からもたらされた。こうなることは事前に予想していたけれど、思った以上に早い相手の動きに、僕らは進めていた準備を一層加速させる必要があった。
ただ、いずれにしても、僕らの狙いに変わりはない。
転校経験だけは豊富な僕は知っているのである。転校するためには在学証明書の発行が必要で、その発行手続きには学校を訪れる必要があるのだと。
僕らが狙うべきはその一点のみだった。
そうして、準備を続けること数日。
小箒さんが母親に連れられ、学校へと登校してきたのは、クリスマスを翌日に控えたその日の朝だった。
先輩からメッセージで連絡が入り、僕らはあらかじめ立てておいた計画通りに所定の場所で落ちあった。
――所定の場所。
職員室から目と鼻の先にある恐らくは最も一般生徒が近づきたくないであろう、この生徒指導室の前に、僕らは集まった。
既に一時限目が始まった時間帯である。廊下には僕と夕星さん、そして暁さんの三人以外には誰もおらず、閑散とした空気はどこか張り詰めているようにも感じる。授業を無断で欠席しているという事実も、緊張を増す要因になっているかもしれなかった。
ただ――なにより、なによりも僕に緊張を強いてくるのは、これから起きることに次はなく、そしてそれが小箒さんと僕らにとって、決定的で致命的な決別に繋がりうるという、その事実だった。
唾を飲み込む音がした。寒くもないのに手足が小刻みに震える。
忌々しいことに、普段は緩慢で怠け者の僕の脳は、こんな時だけ最悪の結末を鮮やかにシミュレートしてのける。
怖い。恐ろしい。逃げ出したい。
僕の頭の中はそんな感情で満ち満ちて、下を向きそうになってしまう。
ただそれでも――僕は決めたのだ。
これだけは譲れないのだと。
正義なんて曖昧なものにではなく、僕の、僕自身の、この矮小で傲慢なエゴに誓って、やり遂げてみせるのだと――そう決めたのだ。
「大丈夫そうかな?」
先輩が言う。
僕ら三人は互いに目を合わせ、そして同時に頷いた。
「では、行こう――!」
暁さんは振り返り扉へと向かう。
余裕さえ感じさせるその背中はひどく頼もしかった。
いよいよだ――。
心臓の鼓動が高鳴る中、前を行く先輩へと続く。
先輩はその勢いのままに引き手に手をかけると、扉をがらっと開放した。
そして――
「異議ありッ――――――‼」
と。
某弁護士ばりに声を室内へ轟かせた。
……。
…………。
シリアスシーンが台無しだった。
隣を見ると、夕星さんも頭を抱えている。
果たして僕はこの人のどこに頼もしさを感じていたのだろう。今となっては全くわからなかった。
さて、幸いなこと? に、呆気に取られていたのは僕らだけではなかった。当たり前だろう。身構えていた僕らですら、数秒頭が理解を拒んだくらいだ。誰かが入ってくるなんて微塵も思っていなかったであろう中の人間にとっては、まさに青天の霹靂である。
結果として、部屋の中は時間が止まったかのように静まり返っていた。
手前側に座っていた教頭先生も、二組の(小箒さんの担任でもある)石田先生も、奥側に座っていた小箒さんやその母親も、皆一様に唖然として先輩を見つめている。
しかし、そんな『なにやってんだ、こいつ』という空気を物ともせず、どこ吹く風といった様子で先輩は言った。
「その転校、待ってもらおう!」
さすがに二言目というのもあって、止まっていた室内の時間も進み始める。まず正気に戻ったのは石田先生だった。二組の担任にして、体育の教師。熊のように大きな体躯に太くて大きい声。どんな先生かと問われても僕は答えられるほど親しくはないけれど、見た目に限って言えば体育会系を体現したかのような先生だった。
「お、お前ら早く出ていけ! 何の用かは知らないが、今は取り込み中――」
「要件はもう伝えさせてもらったけどね」
「げぇっ、て、天道っ……!」
混乱して相手が誰だかわかっていなかったのだろう。相手を認識する否や、石田先生は驚愕をあらわにした。
というか、滅茶苦茶怯んでいた。
熊のような大人が、銅鑼の音と共に思わぬ強敵が出てきた時のように怯んでいた。
その様子は、いやはや、大人としてはやや情けないものではあったけれど、先生の名誉のために言っておくと、石田先生が臆病なわけではなく、暁さんが異常なのである。
ずけずけと相手の言葉に被せていくあたり、先輩も容赦がなかった。
「し、しかしだな、天道。待つたって、なにを待てばいいんだ?」
「それは勿論、在学証明書の発行をだよ」
「おい、冗談だろ? 発行の差し止めだぁ? んな無茶苦茶通るわけがないだろ! 正当な理由もなしに、そんなことしたら俺の首が飛んじまうよ!」
先生が言った。
それは諭すための言葉だったのだろう。聞き分けのない子供を諭すための正論。しかし、先輩はむしろこれ幸いとばかりに言い募った。
「では、正当な理由があればいいのかな?」
「な、なに?」
「私はね。そちらの小箒家の家庭環境に疑義を呈するつもりなんだよ。はっきり言ってしまうと――虐待だね」
「お、おい⁉ 言葉を慎めッ‼」
石田先生が慌てて声を荒げる。
先輩の言葉はそれほどに明確な宣戦布告だった。
戦争である。闘争である。合戦である。もはや平穏無事に済ませられる状態ではない。既に開戦の火蓋は切って落とされたのだから。
しかし、事ここに至っても、小箒さんの母親は不気味なほどに沈黙を貫いていた。
「調べた限りでも、小学校から合わせて転校のための近隣地区への引越しが五回。学校の生徒への暴言が五十回以上、教員や学校への苦情は百回を下らない。スイに対しての叱責、暴言に至っては、もう日常茶飯事だったそうだ。把握できる限りですら、これだけのことをしているのだから、普通のご家庭――とは言えないと、私は思うのだけどね」
「天道……、しかしだな……――」
「しかしもかかしもないよ。私の大切なスイが傷つけられようとしているんだ。なにふりなんて、初めから構うつもりもないさ。そうだろう、二人とも?」
「当然」
夕星さんが決然と言った。
「はい」
僕も敢然と言った。
言うまでもない事なんていうけれど、正しく今回がそれだった。
言うまでもない。言う必要もないほどに、当然のこと。至極当然。当然至極。
たとえ、語句の代わりに天地がひっくり返ったところで、それだけは変わらないであろうくらいに、僕らにとってそれは言うまでもないことだった。
「お前ら……」
石田先生は酷くばつの悪そうな顔をして、言葉を飲み込んだ。
もしかすると、先生自身、小箒さんのこの急な転校には思うところがあったのかもしれない。小箒さんの家庭事情もある程度知っていただろうし、それこそ苦情なんかも、日々受けていたのかもしれない。
ただ、いずれにしても。
石田先生が沈黙したことで、場は再び静まり返った。一番初め、僕らがこの部屋に入ってきた時と同じように。
僕らは振り出しに戻った。
けれどそれは、全て元通りというわけではない。教頭先生が日和見を決め込む中、大人として僕らの暴走を押し留めようとした石田先生は少なからず理解を示し、沈黙を選んだ。
二の丸は陥落したのだ。となれば、あとは本丸を残すのみだろう。
自然、僕らの視線はその人物に集まった。
未だこちらに目すら向けず、機械のように端座して、微動だにしないその人に。
鉄のようだった。
視線も、姿勢も、その声の抑揚さえも一切ぶれずに、その人は、小箒さんの母親は、
「――関係ありません」
ピシャリと言い放った。
「あなた達の言い分なんてどうでもいいんです。早く出ていきなさい」
心底どうでもいいと言わんばかりに、自分とは無関係だと言わんばかりに、その人は言った。
見向きもしない。相手にもされていない。
僕はようやっと理解した。
先輩のあの露骨な宣戦布告にすら反応しなかったのは、そもそも意に介してすらいなかったのだろう、と。
子供の戯言。聞くに値しない妄言。この人にとってはその程度の認識だったのだ。
「……そうはいきません」
僕は言った。
それから前にいた先輩の横を通り過ぎ、小箒さんの母親のすぐ隣まで突き進む。
そして、その人の目をじっと見つめて言った。
「貴方の好きにはさせません」
内心では動揺を隠すのに精一杯だった。
相手にガンをつけるなんてことは、僕には縁遠いフィクションのような行為だと思っていたけれど、実際にやってみると酷く難しい。そもそも、他人の目を見て喋ることすら覚束ない僕である。目を逸らない、それだけをとっても難易度はベリーハードだ。
ただ、そんな不慣れなことをしてでも、見させなければならないと――そう思った。
僕を。僕たちを。敵である僕たちを。
その瞬間、黒々とした目がギョロっと僕を捉える。
変化は劇的だった。
手榴弾が炸裂したかのような破裂音が室内に響き渡る。
「これは私たち家族の問題です。さっさと出ていきなさいッ――――‼」
机を叩きつけた音。
そして、小箒さんの母親があげた大声が、僕らの耳をつんざいた。
「さっきから聞いていればなんですか! 勝手な憶測ばかり並び立てて、他人の誹謗中傷をするなんて! ……信じられない。どんな教育をしているの⁉ それに貴方たち、よく見ればゲームセンターにいた子供でしょう? やっぱり。こんなところに大事な娘を置いておくことなんてできません。転校させて正解だわ。ちょっと、なにをしているの? さっさと出ていきなさいッ!」
息をつかさず、苛烈に捲し立ててくる。
普段の僕であれば、その勢いに飲まれ、怯み、なにも言えなくなっていたかもしれないけれど、今回に限って言えば、むしろ望むところであった。
僕たちは初めから悪を裁きにここへ来たわけではない。戦争をしにきたのである。同じ土俵に乗ってもらわなければ困るのだ。
「いいえ、これは僕たちの問題です」
「なにを言って――!」
「夕星さん、お願いします」
すかさず僕は言った。
「了解――っと」
僕の声に応えて、夕星さんは両手一杯に抱えていた書類の束を机の上に置く。置いた端から数枚零れ落ちてしまうほどに、それは高く高く積まれていた。
「なによ、これ――?」
顔にありありと困惑が表れる。
さすがにこれは予想していなかったのだろう。
「あなたの娘さん、つまり彗さんの転校に反対する署名ざっと三百名分と、あなた個人に対する苦情等三十二件をまとめた陳情書です」
「なっ――――⁉」
これが僕たちの切り札だった。
相手をこちらの空気の中に取り込んで、悪に仕立て上げる。
――僕の考えた悪辣な手段。
これのためにこそ、この場所で、学校という場所で相対する必要があった。
数万、いや数千という人間の意識を誘導することはほとんど不可能と言っていいだろう。偶然上手くいくことはあっても確実性はない。
しかし、全体でもせいぜい五百人を超えない人間の集合。彼らの意識を誘導することは比較的容易だった。それも小箒さんの母親に対する悪いイメージはこの学校に初めから定着している。生徒やその親御さんから同情を集めるのもまた簡単だった。
唯一問題だったのは予想以上に時間がなかったことだったけれど、それも先輩が生徒会に協力を取り付けてくれたことで、どうにか間に合わせることができた。
いずれにしろ、僕らはこれで手に入れたことになる。集団の過半数を超える意見を。その圧力は絶大なものだ。
なにせそれこそ――正義なのだから。
「こ、こんなものがなんだって言うのっ‼」
小箒さんの母親が叫ぶ。
確かにあなたはそうだろう。これは偽りの正義だ。場所によっては成立さえしない、切り取られた正義。
それでも――
「し、しかし……これほどの意見を無視することは……」
脂汗を流しながら、教頭先生と石田先生は机に置かれた陳述書に目を通している。
そう。この署名集めによる攻撃の対象は初めから同席する先生方のほうだった。
小箒さんの母親にとって、この学校にそれほどの価値はない。一時的に娘を通わせていた学校。そこから多少敵視されようと困るものではないだろう。
しかし、翻って先生方にとってはどうだろうか?
毎日通勤し、仕事をしている場。これから何年も勤め上げることになるその場所で、これほどの意見を無視した冷徹で他人の意見に耳をかさない人間――そんなレッテルを貼られてしまったら、これまで積み上げた信頼など地に落ちてしまう。
下手をすれば今後数年は、生徒は勿論、同じ教員にまで白い目で見られるかもしれない。
――そんな恐怖。
耐えられるはずがないだろう?
「なにを惑わされているんですかっ⁉ こんな子供の戯言ひとつで‼」
「い、いえ……しかし、ですね……」
予想通り、先生方はもうたじたじだった。屁っ放り腰の及び腰である。
あとは――ちょうどいい落とし所を示してあげればいいだけだ。
「石田先生」
「な、なんだっ?」
「一番重要なのは本人の意志だと思います。違いますか?」
僕は言った。
すると、先生にも僕の意図が正しく伝わったのだろう。すんと落ち着きを取り戻し、小箒さんの方を向いた。
「……そうだな。小箒、お前は転校したいのか?」
石田先生が水を向けると、みんなの視線が小箒さんへと集まった。
僕は祈るように彼女を見る。最後の最後だけは彼女の勇気に賭けるしかなかった。
詭弁も強弁もこれ以上先へは入っていけない。これより先は不可侵の領域。個人という名の現代の聖域である。
だから僕は祈るしかなかった。
――お願いだ。お願いだから君も夢を見てくれ。夢に焦がれてくれ。そして、君の望む未来を僕らに示してくれ、と。
すると、その思いが伝わったのか、恐る恐るというように小箒さんは俯かせていた頭を上げた。今の彼女は、いつものタブレットを持っていない。その瞳は心細さ気に揺れている。
けれど、その中には確かに炎があった。
火屋がなければ簡単に吹き消されてしまいそうなほどに小さな炎。目を離した隙にすっと消え失せてしまうほど儚い炎。
しかし、どれだけ小さかろうと、それは――種火だ。
彼女と目が合う。
ただそれだけで彼女の思いが雪崩のように僕へと伝わってくるようだった。
その苦しみが。
その体を軋ませるような重い不安が。
込み上げてくる吐き気や嗚咽でさえ、その瞳から伝わってくるようだった。
だから僕は決して目だけは逸さないよう、じっと彼女の目を見つめた。
その火を守るために。
その火に木をくべるために。
少しずつ。少しずつ。
決して絶やさぬように。
そうしてしばらくすると、彼女の瞳の揺らぎは目に見えて収まっていった。
僕だけではない。ここには夕星さんも、暁さんも居る。彼女の火を強める薪は十分にあった。
小箒さんはすうっと大きく息を吸った。
これからすべてを吐き出すために。彼女の世界を覆すために――
しかし、ここでも――
「貴方は黙ッてなさいッ――――‼」
耳をつんざく絶叫が僕らの前に立ちはだかった。
「……先生方も子供の意見なんて訊く必要はありません。高校生が現実を理解しているわけがないでしょう? 放っておくと、学生の本分を忘れて馬鹿みたいに遊ぶことしか考えないんですから。我々、大人がしっかりと導いてあげないと」
小箒さんの母親は、先生方に目線をやって流れを取り戻そうとする。
以前と同じ展開だ。
ゲームセンターで初めてこの人と会った時と同じ展開。たった一言ですべてを吹き飛ばし、強引に自分の方へと流れを引き寄せる。
僕らを、小箒さんを絶望へと叩き落とした展開の再現。
――最悪だ。
こうなる前に大勢を決していなければならなかった。
後悔が僕の内にあふれる。
けれど――僕は肩を落としたりはしなかった。絶望に打ちひしがれなどしなかった。
なにせ――この人が吹き消したと思っている彼女の炎は、まだ消え去ってなどいなかったのだから。
「嫌ァ――――――――――――――ッ‼」
それは学校中に轟く雷鳴のようだった。
「もうひとりぼっちは嫌ッ‼ 転校なんてしたくない……‼ みんなと、もっと……ずっと……い、一緒に、いたい――ッ‼」
声はだんだんと掠れ、涙声になっていき、最後には啜り泣く音だけが部屋の中に木霊する。
誰一人、声をかけるものはいなかった。
僕らは言葉を失っていた。
僕らも、先生方も、小箒さんの母親でさえ、呆然とするばかり。それほどまでに、彼女がこれほど大きな声をあげられるとは微塵も思ってもいなかったのだ。
さながら産声のような叫び。絶叫。そして祈りだった。
僕の感情が遅れてやってくるのに、数世代前のゲームの起動時間ほど必要だったくらいである。短気な人には長く、そうでもない人にもちょっぴり長い。そんな時間を経て、僕が放心状態から抜け出す頃には、部屋にいるほとんど全員が同じように我に返っていた。
困惑。歓喜。安堵。
それぞれがそれぞれの感情を浮かべる中、けれどただ一人――小箒さんの母親だけは、上の空のままぼんやりと自分の娘を見つめていた。
そこにどんな感情がのっているか、僕は知らなかったし、知りようもなかった。
しかし紛れもなく。
疑いようもなく。
僕らがそれを打ち砕いたのである。
僕がエゴを押し通した、その結果なのだ。
ならば、その責任はきっと僕が背負っていくべきものなのだろう。
「まずはしっかりと親子で話し合ってください」
そう告げる石田先生の言葉も、小箒さんの母親の耳には入っていない様子だった。
茫然自失としたまま、覇気のないままに、ふらりと泣き続ける娘を連れてその人は去っていった。
◇
翌日。
僕は校門の前で一人、気を揉んでいた。
昨日は一応、小箒さんの転校を阻止することはできたし、彼女の母親にも相当なインパクトを与えることができただろうとは思う。けれど、それですべてが好転するとは限らなかった。
転校自体は学校から書類を受け取る必要がある以上、難しくなったけれど、変に意固地になって小箒さんを家から出さないなんてことをされると、いよいよ手の出しようがなってくる。
連絡手段も相変わらず潰されたままで、小箒さんが今後どうなるのか、再び学校に登校してくるのか、一切わからない状態なのである。
だからこうして、僕が早朝の校門で一人待っているのも、ただの願掛けのようなものだった。
朝に強くはない僕だけれど、しかしだからこそ早起きをしてわざと自ら辛い思いをすることで、その反動として、その揺り戻しとして、良いことが起きないだろうか――と、そんな浅ましい考えからの行動である。
幸福の後には不幸があり、不幸の後には幸福がある。禍福は糾える縄の如しだ。言うなればそれはただの神頼みでしかないけれど、それに縋りたくなるほどに僕は切実だった。
神様を信じているわけでもないのに、都合のいい時だけ願掛けに行く日本人的メンタリティの発露のようなもの。もっと言ってしまえば、ただじっとしていることが苦痛だっただけなのだけど。
ともあれ――僕は幸運を待っていた。
小箒さんがひょっこりと学校へ戻ってくる。そんな幸運を僕は願っていた。
校門の前、あまり目立たない位置に陣取って、道の先から彼女がいつ現れるのか、気が気でない思いで見つめる。
十分、二十分。まだだろうか?
彼女はまだ来ないのだろうか?
元々、彼女がどの時間帯に登校してくるのかなんて知らないので、今はかなり早い時間帯。校門をくぐっていく生徒も、ちらほらとしか見かけなかった。
まだ少し早過ぎただけなんだ。もう少しすれば、きっと彼女がこの道の先から現れるに違いない。そうやって、自分を納得させつつ、深まる焦りを押し殺して道の先を焼けるほど見つめる。
すると――また一人生徒が学校へと向かってきた。
背が低く、童顔で、なにを考えているのかわからない無表情な女子生徒だ。
彼女が少しずつ近づいてくるにつれ、僕はその高揚を抑え切るのが難しくなってくる。
彼女が目の前へとやってくる頃には、いつしか目には涙が溜まっていた。
『おはよう』
「……うん、おはよう」
僕はどうにか挨拶を返す。
『それと――』
彼女は手に持ったタブレットから目を離し、僕を見つめた。
そして――
「――ありがとう」
彼女の口から発されたその言葉は、まるで初めて血が流れるみたいにじんわりと僕の体に染み渡っていく。
生きているという実感がこれでもかと湧いてきて、全身に力がみなぎっていくようだった。
僕はその言葉のほんの少しの返礼として、ただ一言だけを返す。
「小箒さん――おかえり」
すると、彼女ははっきりとその顔に笑みを浮かべて、声を弾ませて言った。
「うん、ただいま――‼」と。
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