第15話

 

 調べてみると、タイミングのいいことにその日の夜は満月だった。まあ、だからといって、毎回必ずあの場所にいるわけではないのだろうけれど、その時はその時で携帯に連絡してみればいいし、それで連絡がつかなかったり、都合が悪いと言われてしまったら素直に日を改めよう。そんな目算で、僕はあの神社へと足を向けた。


 先にアポイントを取っておく――という最善の選択肢は、思いつかなかったわけではないけれど、それは今回に限っては使えなかった。


 物理的に、もしくはタイミング的に如何ともし難い障害があったとか、そういう訳ではなく。交換したはいいものの、一件のやりとりもない真っさらなチャット欄に、汚点をつけるが如くメッセージを送るのは非常に躊躇われることだった。


 もう少しはっきりと言ってしまえば、家族以外にメッセージなど送った経験のない僕が、抜け切らないボッチ根性を無駄に発揮してしまったのである。


 ひどく情けない。自分のことながら呆れてしまう小心さだ。


 けれど、幸いというべきか、僕が石段を登り切り、例の神社へと辿り着いた時には、暁さんは既にそこで待っていた。

 待っていた、というのは語弊があるんじゃないかとも思われるかもしれないが、待っていた――で合っている。

 なにせ彼女は開口一番こう言ったのだ。


「やあ、待っていたよ」と。


 制服の上に白いスクールコートを羽織り、いつものベンチに腰掛けて、彼女は言った。

 月明かりのせいだろうか。やっぱりここで見る先輩の雰囲気は普段とだいぶ違って見えた。


「待ってたって、今日会いに来ますなんて、僕言ってないですよね?」


 そう訊くと、


「それは君、周りから君の話はいろいろと聞いていたからね。そろそろ痺れをきらす頃合いだろうと思っていたんだよ」


 完全に動向を把握されていた。

 夕星さんにだって、直接会いに行くなんて言ってはいなかったのに、洞察力が頭抜け過ぎじゃないか? それとも、僕がわかりやすすぎるのだろうか?

 恐らくは後者な気がするところが、なんとも悲しかった。


「スイの件だろう――?」


「……はい。夕星さんから、先輩が小箒さんのためにいろいろと動いてくれていることは聞きました。だから、その……僕なんか役に立たないかもしれないですけど、できることがあれば手伝わせてもらいたくて」


「まあ、そうくるだろうとは思っていたよ。しかし、残念だけれど、今君にできることはなにもないよ。私たちも最悪の事態を想定して動いてはいるけど、大々的にやるわけにはいかない。仮にその情報がスイの母親にでも伝わったら、藪蛇になる可能性があるからね。それに案外、しばらく大人しくしていれば、すべて元通りになるかもしれないし」


「え? えっと、こちらからなにか行動を起こすわけじゃないんですか? そのための準備をしているんじゃ?」


 僕が言うと、彼女は意外そうに目をきょとんとさせる。


「君は……見た目に反して意外と好戦的だね?」


 好戦的って……


「いや僕だって、別に自分からことを荒立てたいわけじゃないですよ。でも、仕方ないじゃないですか! 小箒さんの母親の言動は誰がどう見ても間違ってる。それを正さないことには、小箒さんは救われないんですよ?」


「ふーん。正す……ねぇ」


 含みを持たせるように彼女は言う。


「……間違ってますか?」


「君はあの母親が悪人だとでも思っているのかい?」


「いや、悪人って……そこまでは思ってはないですけど、でも間違ってはいるでしょう?」


「どこら辺が?」


「どこら辺って、そりゃ自分の娘だからって、あんなモノのように扱うことが許されるわけないじゃないですかッ‼」


「なるほど、つまり――『正義は我にあり』と言うわけだ」


 皮肉っぽい彼女のいいように、僕は少し腹が立ってくる。


 なんだよ。僕が間違ってるって言うのか? なら、そう言えばいいだろ。なんで、はっきりとそう言わないんだよ。それにこの言いようからして、先輩は小箒さんを助けるつもりがないんじゃないか?


 不満と猜疑が脳内を支配する。

 僕はそれを暁さんにぶつけてやろうと口を開いたのだけれど、直前に鋭く睨まれ、鼻白らんだ。


「それは危険な発想だよ。決して――そう決して、正義は人が決められるものではないのだからね」


「ど、どういう意味ですか?」


「そのままの意味だよ。といっても、このままじゃ君に伝わらないだろうから、ひとつ君に質問をしよう」


 暁さんはいつもの不敵な笑みへと表情を変え、言った。


「――そもそもだと思う?」


「善悪が紐づくもの……ですか?」


「そう。例えばだ。『私が君を刺し、殺した』とする。この時、私は悪だろうか?」


「そりゃ、悪ですよッ⁉ というか、しれっと僕を殺さないでくれますっ⁉」


 例え話とはいえ、縁起が悪すぎる。


「まあ、いいじゃないか。減るもんじゃないし」


「そりゃ、減りはしないですけど……」


「いや、もしかして、残機が減るのかな?」


「僕、残機制じゃないですけどッ⁉」


「ふむ、そこら辺に亀の甲羅でも落ちてないかい?」


「無限ワンアップさせようとしないでくださいっ‼」


 残機九十九とかになったら、命の価値が軽くなりそうだ……。


「まあしかし、君の残機がいくらあろうと、殺人は罪だろう。『君を刺し、殺した』私は悪で間違いない。ただそこで――だ。じゃあ、


「……は?」


 なにを言い出すんだ、この人は? 気でも狂ってしまったのかと本気で思った。

 そんな僕の様子を見て、暁さんはからっと笑う。


「ははっ、すまない。これでは少々わかりづらかったね。つまり、『私が君を刺し、殺した』のが悪であるならば、具体的にどこが悪だと言える根拠なのか、ってことを訊きたかったんだよ。……まあ、そうだね。一つ分かりやすいように例を挙げるなら、『私が君を刺した』――に悪という属性が付いていると考えるのが最もシンプルだろう」


「『人を刺す』ことが悪いことだから、悪だと言えるってことですか?」


「そう。そういう意味だよ」


「そんなの訊くまでもなく当たり前じゃないですかっ‼」


 僕が突っ込むと「本当にそうかな」と先輩は意味深に微笑んだ。


「……ち、違うんですか?」


「では、こう考えたらどうだろう? 『私が君を刺し、殺した』。これはなんて言う罪に問われるだろうか?」


「そりゃまあ……殺人罪じゃないですか?」


「そうだね。私も刑法に詳しいわけではないけれど、そこは間違いないだろう。なら次に、こんな状況を考えてみよう。『私が君を刺した』ここまでは前の状況と変わりない。それも前回同様ほとんど完全に致命傷といえるような傷だ。だけど――今回はたまたま近くに凄腕の医者がいた。黒っぽく、法外なお金を要求するもぐりの医者かもしれないけれど、なんにせよ君は助かった、とする」


 それ代金まけてくれる展開になりませんか? なってくれますよね?


「ではこの時、私の罪状はなんだろうか?」


「それはもちろん、殺人――」


 あっ、と僕は口に出す。

 暁さんは軽く笑うと、僕の言葉を引き継いで言った。


「そう。殺人――だ。ところで、前者と後者で私の行為はなにも変わっていなかった。しかし、殺人罪と殺人未遂罪では罪の重さに明確に開きがある。ではどうして、同じ行為に対して罪の重さが変わるのだろうか?」


 ようやく先輩の言いたかった意味がわかった。

 つまり――


「僕たちが普段、なにを持って善悪の基準を定めているかってことですか?」


「そう。その通りだよ!」


 やっぱりそういうことか。

 ってことは――


「この流れだと『行為』はその基準にはなり得ないって結論になりませんか?」


「そうだね。少なくとも完全な基準にはなり得ないだろう。『行為』が基準だとするのなら、『人を刺す』という同じ行為に対し、罪の度合いが変わるのは可笑しいからね。でもだとしたら、その基準は他のなんだと思う?」


 行為でないのだとしたら、次は――


「結果、ですかね?」


「なるほど、結果か。つまり、結果として君が死んでいるのか、生きているのかが、その基準になるってことだね」


「はい。……どうでしょう?」


「うん。いい着眼点だと思うよ。でもやっぱりそれも否定できてしまうかな。『私が君を刺し、殺した。でも実は初めに襲ってきたのは君で、私は君を返り討ちにしていた』とかね」


「正当防衛ってことですか」


「うん、そういうこと。この場合だと『行為』も『結果』も一番最初と同じだけれど、罪に問われることはないだろう? だから、その両方を採用するとしても基準にはなり得ない」


 たしかに……。


「となると、『行為』と『結果』と『経過』とか?」


「お、だいぶゴリ押しできたね」


「……すみません。もう思いつかなくて」


「ははっ、別に構わないさ。でも、それも残念ながら無理筋かな。ほら、ニュースでよく精神鑑定なんて言葉が使われたりするだろう? 責任能力がないなんて言って、罪が減刑されたりするやつだ。これの場合、『行為』も『結果』も『経過』もすべて同じだったとしても、当人の状態によって罪が左右されてしまう」


 なら、なにが基準になっているのだろう?

 さらにもっと条件を付け足す? さすがにこれ以上は煩雑過ぎないか? 四つも五つも条件をつけてこれが基準です、というのも変な気がする。


「ひとつヒントをあげよう。君は子供の頃、みんなでやった悪事なのに自分だけ怒られた、なんていう経験はないかい?」


「あ! それはあります。妹も同じことをやってたのに、僕だけ怒られて。理不尽だなと子供ながらに思ってました」


「……君もか」


「え?」


 いやなんでもないと言うと、暁さんは誤魔化すように喉を鳴らす。

 先輩にも兄弟姉妹がいるのだろうか?


「それがある意味で社会の縮図であり、善悪の根本を端的にあらわす例さ。たとえ罪を犯しても、贖罪を要求されない場合もあると言う意味で」


「……すみません。僕もうさっぱりで」


「そうだね。これ以上は難しいか。でも大丈夫だよ。こういうのは考えることが重要だからね。これから私の思う結論を言うけれど、それを鵜呑みにせず自分でも考えてみてくれ」


 僕は彼女の言葉に首肯を返す。

 それを見て彼女は続きを語り始めた。


「さて、私は一番初めに言ったね。善悪とは人に決められるものではない、と。だから当然、それは人に紐づくものではないと考えている。人はそれぞれ価値観を持ち、それによって行動しているけれど、それはあくまで独善的な信仰以上のものではない。では、善悪はなにに紐づいているのか、なにを基準にしているのか――。結論から言ってしまえば、それは社会に紐づくとものだと私は考えている」


「社会、ですか? だいぶざっくりしてますね?」


「まあね。社会といっても大小さまざまあるから、場合によってはコミニティーと言い換えてもいいくらいだ。大きいところだと、国際社会や国家。小さいところだと家庭や友人グループといった感じでね」


「はぁ……」


 いまいちピンとこない。


「――つまりね。なぜ殺人が悪なのか、『私が君を刺し、殺す』ことがどうして悪なのかといえば、それは――なんだよ」


 僕は少し呆気に取られた。

 社会が成り立たないから? えっと、それはつまり……どういうことだ?


「先ほどの例を使って考えてみよう」


 彼女は指を一本立てる。


「まず初めに、単純な殺人の場合だ。君は殺人を犯した人間がまったく裁かれない社会に住みたいと思うかい?」


「……絶対に嫌ですね」


「だろう? それじゃ、安心して過ごすことすらできないからね。常に他者から襲われる心配をしなければならない社会なんて、多くの人間にとって願い下げに違いない。まあ、そんなとこに住むくらいなら、他のところに移住するよね。よって――これは社会にとって到底看過できない問題だ」


 二本目の指が立つ。


「次に殺人未遂の場合、たしかに殺人同様、許してしまえば問題のある行為だ。しかし、被害者が生きている以上、それは殺人よりかは罪が軽いのが妥当のように思われる」


 今度は三本目と四本目の指が同時に立った。


「さらに次、正当防衛や精神異常のある場合、これも自分の身に起きたこととして考えるとわかりやすいだろう。正当防衛はもちろんだけれど、例えば、薬物を他者に服用させられ、意識が朦朧としている間に殺人を犯してしまった場合、それで殺人罪と同様の罰を与えるのはやり過ぎな気がしないかい? なにせそれは、下手をすれば自分もまた同じ目に遭うかもしれないことだ。誰かを殺したいなんて微塵も思っていないとしてもね」


 そして最後と、五本目の指を立てながら暁さんは言う。


「自分だけ叱られたっていう件について、これは善悪が社会の維持のために必要なことと考えるとわかりやすいね。子供が悪いことをした時に叱らないと、子供は何度でも同じことを繰り返すだろう。だから当然、叱らなければならないわけだけど、全員に説教をするのは大変だ。全員を一纏めにして説教をするにしても、そもそも誰が悪事を働いたのか、正確に把握するのは難しい。そこで一人をみんなの前で叱りつける。そうすると、他の子供もあれは悪いことなんだと理解する。ここで重要なのは、悪いことをした子供を叱りつける――つまり罰を与えること自体が目的ではないってことなんだよ。その小さな社会が安定を享受することができるのであれば、罪を犯した人間にも罰を与える必要はない」


「は、はぁ……そうなんです、ね?」


「あれ、上手く伝わってないかな?」


 全体的になんとなくは理解できる。

 ただ、なんというか――


「……なんというか、ふわっとしてますね。思ったよりも」


 のように思われる、とか。気がしないか、とか。明確とは言い難い表現だ。

 先輩は僕の言葉を聞くと、また少し笑いながらまったくその通りだと肯定する。


「言ってしまえば、善悪とは空気みたいなものさ。ああ、吸うほうのじゃなくて、読むほうのだよ? 空気を読めってやつだね。そしてだからこそ、それは人には規定できない。少人数の集まりなら、一人一人の役割が大きいからある程度操作することができるかもしれないけれど、これが数千万なんて単位になると、現実的には不可能だ」


「で、でも法律があるじゃないですか? そっちはもっと正確でしょ?」


「法も言ってしまえば、明文化された空気でしかないさ。そもそも考えてもみたまえ、日本の法律なんてせいぜいが半世紀前かそこらに作られたものでしかないんだよ? じゃあ、それは誰が作ったのか、もちろん神様が作ったわけではないのだから、当時の人が勝手に作ったに過ぎないさ。いや、勝手にというと語弊があるかな? しっかり考えて作ってはいるのだろう。ただそれは権威の塊であって、その法に明確な根拠があるわけではないよ」


 まあだからねと、彼女は総括するように言う。


「これまで話してきた通り、善も悪も明確な根拠があるわけではないし、必ずしもそれは一定であるわけでもない。空気は揺れ動くものだし、それは私たちがよくないと思う方向にもいくことがある。わかりやすいところだと、小さな社会においてはイジメなんかがそうだ。より大きい社会だと戦争やホロコーストがいい例だろう。それらはその限定的な社会の中では正義と見做されている。全員が全員そう思ってはいなくとも、空気としてそれは現れてしまう。そして、その社会にいる彼ら彼女らは自分が正義だと、正しいことをしているのだと思い込む。でなければ、社会が維持できないからだ。自分が属する社会の崩壊なんて、ほとんどの人間にとっては悪夢以外の何者でもないからね。誰だって避けようとするさ」


 彼女は少しだけ僕の方に身を寄せると、子供に言い聞かせるようにゆっくりと溜めて言った。


「だからね。決して自分が正義だなんて思い上がってはいけないよ。正義って言うのはね。その『行為』でも『結果』でも『過程』でも、ましてやそれら全てでもない。社会に、社会を構成する人々に、――そんな不確かでひどく曖昧なものに過ぎないのだから」


 その言葉は、僕の独断を押し留める楔として重く重く突き刺さった。

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