第10話

 

 一時は目だけで僕を射殺さんばかりだった夕星ゆうづつさん。彼女を説得するのはかなり骨の折れる作業だった。


 僕から順を追って経緯を説明し、やましいことは全くないことをアピールしたのだけれど、警戒心は全く薄れず。明里ちゃんが口添えしてくれてから、ようやく少しずつ態度が軟化していった。


「……まあ、その、なんていうかさ。……ありがとうね。明里が世話になったみたいで」


 曲がりなりにも妹さんを助けてもらったという事実が彼女にとって大きいことであるようだった。

 ただ心なしか距離を感じる。物理的に……。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん! あれ、作ってください! あれ!」


「あれ? ……ああ、いつものホットケーキ?」


「そうです! お兄さんにご馳走するお約束をしました」


「いや勝手に約束すんなし。自分で作るわけじゃないんだからさ」


 夕星さんはツッコミながらも冷蔵庫を物色しはじめる。


「それに、材料残ってたっけ? 卵は――あるか」


「あ、えっと、大丈夫だよ。手間をかけさせちゃうと悪いし、僕もう帰るから」


 そう言って横を通り抜けようとした僕の肩を彼女は捕まえる。


「いいから、そこに座ってな」


 有無を言わさぬ感じだった。


「ってか、薄力粉ないじゃん。明里、ちょっとスーパーに買いに行ってきて」


「ラジャーです!」


 明里ちゃんはパタパタと家を飛び出して行く。夕星さんは流しで水に浸かっていたお皿を洗い始めながら言った。


「まあ少しそこに座って待っときな。すぐ戻ってくっから」


「う、うん」


 もう僕がご馳走されることは決定事項らしい。


「それとさ。念のために訊いておきたいんだけど――」


 彼女はそう言って、やや言い渋る。

 なんだろう? 言いにくいことでもあるのだろうか?


「えっと、なにかな?」


「あんたって……その――ロリコンってやつ?」


「違うよッ⁉」


 なんでそうなったの⁉


「いやさ、普通はしないじゃん。道端で知らない子供に声かけるとか。事案でしょ、事案」


「うっ」


 それは……そうかもしれない。


「いや、でも怪我してたし、うずくまって泣いてたから……」


「そりゃ可哀想だな、とかはあたしだって思うだろうけど、普通声かけたりはしないって」


「でも、目の前で泣いている子供を見たら、それは助けるべき――なんじゃないかな?」


「助けるべき? はぁ……お人好しなんだね、あんたは」


 夕星さんは感心したような呆れたような声を出す。

 お人好し――。

 この言葉はいい意味でも悪い意味でも使われることがあるけれど、きっと今回はいい意味で言ってくれたのだろう。ただ、多分そんないいものなんかではきっとないんだ。


「……違うよ。これは――ただの偽善ってやつなんだ」


 僕だって自分の一挙手一投足を考えて動いているわけじゃない。明里ちゃんを助けた時も、それがいいことだからと考えて、そうしたわけではないんだ。それはほとんど反射的な行動だった。だけど、今になってどうしてそんな行動を取ったのかと訊かれれば、僕はきっとこう答えるだろう。


 ――怖かったから、と。


 運動も勉強も、他人より優れたところのない僕が、人並みの優しさすら失ったら、そこにはもうなにも残されていないようで、生きている意味なんて全く存在しないようで、怖かった。

 だから、そこだけは崩れないように、言い訳ができるようにと行動した。


 ただ――それだけの話。


「まあでも――」


 夕星さんは水を止めて振り向くと、お皿を軽く拭きながら当然のような顔で言う。


「それが偽善にしてもなんにしても、なにもしないよりはいいんじゃない?」


「えっ?」


「いやほら、実際それで明里が助けられた部分もあるわけだし。偽善だなんだってこだわる必要ないでしょ。ぶっちゃけどっちでもいいっていうかさ」


 そういうものだろうか?

 いささか短絡的すぎるような気もする。


「っていうか、それより……なんで正座なの?」


 言われてからはじめて気づいた。

 なんなら普段の僕では考えられないくらい背筋もピンと伸びている。


「ええっと、特に理由はないんだけど。一応ここって和室だし座布団もあるから……って、あっ――」


 もしかして、変に気を遣われてるように感じたのだろうか?


「いや、あの、夕星さんに変に遠慮してとかじゃなくてね」


 僕は足を崩しながら、しどろもどろに言う。


「はぁ」


 彼女は大きくため息を吐いた。


「あんたってホントよくわかんないよね。あたしの噂とか周りから聞かないの?」


「噂?」


 なにそれ?


「えっ、なにマジで知らない感じ?」


「う、うん。僕、友達もいないし……」


 なんともいえない空気が部屋に流れた。

 夕星さんの瞳に同情の色が見える。お願いだからそんな目で見ないでください……。

 彼女はもう一度大きく息を吐き、それから壁に背を預けて話し出した。


「うちってさ。見ての通り、まあ貧乏なのよ。クズ親父が借金残して蒸発して、手に職のなかった母さんはいわゆる水商売に手を出して、それでどうにか家計を回してた。まあ、借金に加えて子供二人育てる養育費もあるわけだから、ほんとギリギリ、火の車状態だったわけだけど。うちの母さん贔屓目に見なくても美人だから、それでもどうにかやってはいけてた。でも――ほら、そういう仕事って偏見を受けやすいでしょ? いつ頃だったか変な噂が学校で流れ始めた。あいつの母親は金さえ出せばヤらせてくれるとか、娘のあたしも尻軽だとかさ。ま、そういう馬鹿馬鹿しいやつ。ただまあ、あたしもまだ中坊だったし、多感な年頃ってやつだったから、反発しちゃってね。いろいろ問題を起こしちゃったんだよ。その結果、悪い噂に加えて不良ってレッテルまでついちゃったわけで、そりゃ誰も近づきたくないわなって感じ。そん時はあたしも結構荒れててね。髪もそん時染めちゃったんだわ」


 若気の至りってやつ? と夕星さんは冗談めかして言う。


「んで、そんなクソったれなあたしの前に暁が現れたってわけ。馬鹿みたいに唐突に、馬鹿みたいな方法で部活に勧誘されてさ。あたしの時もくっっっそ強引だった。強引っていうか、強制?みたいな感じで、意味不明な部活に突然入部させられて、最初はムカついてたけど意外と居心地がよくて、いつの間にか部室に顔を出すのが当たり前になってた。暁はさ――やってることは滅茶苦茶だし、部活ってのは名ばかりでずっと遊んでるし、なにがやりたいのかさっぱりわかんないことも多いけど、でもあたし達のことを大切にしてくれてる。それだけは何故だか伝わってくるんだよね。だから――あたしはあの場所にいたい。ずっと続くわけじゃないのはわかってるけど、出来る限りはずっと変わらずに」


 気づくと彼女の黒く鋭い目が僕を見据えていた。夕星さんは口を開いてはいない。でもその瞳で判然と尋ねてくる。



 ――あんたはどうしたいの? と。

 

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