第9話

 

 翌日の土曜日。

 天気は快晴、気温も良好と絶好の散歩日和とあって、僕はいつものように散歩へと出かけた。


 引っ越してからこのかた何度となく歩き回り構築した散歩ルート。そのうちでも道幅が広く信号の少ない川沿いのルートは、考え事をしながら歩くのに最も適している。


 時間もまだ早朝と言っていい時間帯だし、猶予は多い。けれど、考えなければならないこともまた沢山あった。


 部活について。夕星さんのことについて。そして、自分のことについて。


 昨日はいろいろ急すぎて頭がついていけなかった部分もあったけれど、今日明日で、ある程度は答えを出さなければならないだろう。

 それに暁さんの言っていたこと。あれもちゃんと考え直しておきたかった。


 そうして僕が歩きながら思考にふけっていると、不意に背後から声が聞こえてくる。


「お兄さん、お兄さん……!」


 大通り。しかも今歩いているところは人通りの多い交差点だ。一瞬僕を呼んでいるのかと振り返りそうになったけれど、妹の美春が僕を『お兄さん』などと呼ぶことはないし、他に僕を兄と呼ぶ人間に心当たりもない。別の人を呼んでいる声だろう――僕はそう結論づけて、なおも聞こえる声を意識の外へと押しのけつつ、歩みを続ける。


 だけど――


「ちょっと、お兄さん……!」


 今度は声と同時に思いっきり背中を引っ張られて、僕は振り返らざるを得なくなった。


「無視しないでくださいよっ‼」


 振り返ると小さな女の子がいた。小学生くらいの見た目の子で、やや目元がきついが眼鏡をかけているせいか全体の印象は柔らかい。背筋をピンと伸びばしていて利口そうな子だった。

 初めて会ったはずだけど、初めて会った気がしない、そんな微妙な感覚がする。


「え、えっと、どうしたのかな? 迷子?」


「違いますよ‼ 私のこと覚えてないんですかっ⁉」


 心底心外だと言わんばかりに女の子は言う。


「あー、ええっと……」


 会ったことがある? こんな子、親戚にいたかな?


「ご、ごめんね。思い出せなくて……、すぐ思い出すからどこで会ったか教えてくれる?」


「そんな――ひどい、ひどいです。本当に忘れてしまったんですか……?」


 女の子は今にも泣きだしそうだった。

 僕は「お、思い出したよ!」と慌てて言い繕ったのだけど、そんな嘘は簡単にバレてしまって、その子の機嫌はよりいっそう悪くなる。


 まあ、ただ――それ自体は最悪よかった。子供はわりと気まぐれだし、根気強く相手をしていれば機嫌を直してくれることも多い。

 僕が気がかりだったのは、その子の声が周囲にもはっきり聞こえるくらい大声だったのと、発言がいちいち――


「信じられません! 前はあんなに優しくしてくれたじゃないですかっ‼」


 ……変な意味に聞こえるんだけど、気のせいかな?


「私の体をお兄さんはしっかりみてくれて……」


 買い物帰りの女性から疑惑の視線を向けられる。


「あんなに抱きしめさせてくれたのに……」


 横を通った学生達がぴたりと止まる。


「私とは一回だけの関係だったんですか‼」


「わざと言ってない⁉」


 人聞きが悪すぎるんだけど⁉

 案の定、というか周囲からは――


「なにあれ……」


「あんな子供となんて……!」


「誰か警察呼んで!」


 と、僕の人生を終わらせる声が上がっていた。け、警察は勘弁してくれませんか……?

 


 それから周りの人達の誤解を解くのに多くの時間をさき、どうにか騒動はおさまった。

 僕は女の子に向かって言う。


「さっきのわざと言ってたよね?」


「はい」


 あっさりと認めるんかいっ‼


「お兄さんが思い詰めたような顔をしていたので……」


 えっ――? もしかして、僕の気を和ませるために?


「このまま声をかけても適当にあしらわれてしまうかなと思い。つい」


「つい、じゃないよ⁉ 危うく人生終わりかけたよッ⁉」


「でも私――嘘はついていませんよ?」


「え、いやでも……」


 していない。していないぞ。

 僕のなけなしの名誉にかけて、そんなことはしていない。


「道端で怪我をしてしまった私の体をお兄さんは診てくれて、優しく介抱までしてくれました。それから歩けない私をおぶって、私にお兄さんの体を抱きしめさせてくれました」


「……たしかにそうかもしれないけど」


 思い出した。この子の言葉ですべてを。

 あれはこっちに引っ越してきてすぐの頃だ。まだ慣れない環境で散歩ルートも確立されていなかった僕は、適当にここら辺をそぞろ歩いていた。


 すると、道端で女の子がすすり泣いていて、見兼ねた僕は声をかけたんだ。事情を聞いてみると、どうやら足が側溝の隙間に滑り落ちてしまったらしく、膝の辺りに大きな怪我があって痛々しく血が滴っていた。一人で歩くのは難しいだろう。そう思って僕は女の子をおぶり家まで送り届けたのだ。


 ――これがことの全容。


 たしかに言っていることは間違っていない。

 ただ、それにしても――言い方が酷過ぎる!


「わたし、お兄さんにお礼がしたいんです!」


 ならもう少し接触の仕方を考えよう?


「……お礼って言われても、なにかを貰うわけにはいかないし。気持ちだけで十分だよ」


「いいえ、そういうわけにはいきません。受けた恩には報いるよう教えられていますから」


 しっかりしているのか、していないのか、よくわからない子だ……。


「だから、お兄さんを私の家にご招待しようと思います!」


「えっ、いやそれは――」


 僕は全力でお断りしたかった。

 でも僕が断ろうとすると、その子はまた大きな声でぐずり出してしまって、僕は嫌々ながらもその案を了承するしかなかった。


 

 そんなこんなで、僕はその子――明里あかりちゃん(なぜか名字は教えてくれなかった)の家へとやってきていた。いや、やってきてしまったと言うべきだろう。果たしてこれは犯罪にはならないのだろうか、と僕は気が気でならなかった。


 それに運がいいのか、悪いのか。家には明里ちゃん以外のおうちの方はおらず、いよいよもって犯罪臭がしてきてしまう。出来る限り早くおいとましよう。僕はそう心に決めた。


 それにしても――


「粗茶ですが、どうぞ」


「あ、えっと……ありがとう」


 あまり広いとはいえない部屋に二人っきり。特に何を話すわけでもなく、テーブルを囲み対面に座って小一時間。気まずいなんてものではなかった。

 しんと静まった部屋に明里ちゃんが飴を舐める音がコロリコロリと響いて、余計に静寂が際立って感じる。


 というか、僕なんのために連れてこられたの?


 手持ち無沙汰を誤魔化すためにもらった茶碗に口をつけると、明里ちゃんが口を開いた。


「うち、ボロいですよね?」


「えっ、いやそんなことは……ないと思うけど……」


 正直いうとややボロい。

 六畳一間の古いアパートで壁の色はやや黄ばみ、小さいがヒビも入っている。建物の外見からして相当年代物ではあったので、この程度の経年劣化は致し方ないものだろう。ただ、なんにしても、あまり触れるべきではないところだ。


「いいんですよ、私だってそこまで子供じゃありません。うちが貧乏だってことは知ってますから。ただそうはいっても、少しくらいのおもてなしはできます。お兄さんには助けていただいたお礼として、我が家自慢の激安ホットケーキをご馳走する予定です!」


「激安ホットケーキ?」


「はい。とっても美味しいんですよ! まあ、私が作るわけではないんですけど。もうすぐ姉が帰ってくるので、お姉ちゃんに作ってもらいます!」


「え――⁉」


 姉が帰ってくる――つまりは、おうちの人が戻ってくるってことだよね?


 ……不味い。別にやましいことは全くないのだけれど、僕としては出来れば顔を合わせたくはなかった。


「ああ、いや……。そんな手間をかけさせちゃうのはお姉さんに悪いし、僕はやっぱり帰るよ。ごめんね。でもほら、おうちにはお邪魔させてもらったし、お茶もいただいたし、お礼も十分だから――」


 言いながら速やかに僕は撤退を始めた。

 だけど、そんなことは許さないというように僕の足を明里ちゃんがガッチリ捕まえる。


「駄目ですよ。もうすぐ帰ってきますから」


 笑顔がなんだか怖かった。まるでパニック映画で足元の死体がいきなり足を引っ張ってくるシーンのようだ。僕はこの苦難を逃れることができる主人公か、それともそのまま命を散らす脇役か。

 答えはもちろん――後者だった。


 ――ガチャ。


 鍵の外れた音とともに、玄関の扉が開かれる。


「お姉ちゃん、おかえり‼」


「ただいま、明里。ちゃんと宿題してた――」


 お姉さんは靴を脱ごうとする姿勢で固まった。

 コンビニの制服を着た金髪の女子高生。彼女の両目は驚愕に見開かれていた。

 

 ……最悪だ。

 

 僕は頭を抱えたくなった。

 そこにいたのは紛れもなく夕星ゆうづつさんだった。

 彼女は驚きから復帰すると、侮蔑を含んだ瞳で一言。


「――変態」


 ……違うんです。

 

 ……違うんですよ。

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