第8話


 神社の入り口は恐しいほどに暗かった。

 光源と呼べるものは近くになく、そのうえ背の高い木々が月の光すら遮ってしまっている。昼間見た神聖な雰囲気は、闇に呑まれて、逆におどろおどろしい空気を醸し、僕の足をずっしりと重くする。


 せめてスマホで足元を照らせれば良かったのだけれど――


「電池切れてる……」


 間の悪いことに充電切れだった。

 僕はもう一度、石段の先を仰ぎ見る。誘うようにぽっかりと開かれた黒い口。一寸先も見えないような真っ暗闇。この中に灯りもなく飛び込んでいくのは、臆病を自認する僕にとっては困難極まる所業であったけれど、ここまで来ておめおめと引き返したくもなかった。


「よ、よしっ……」


 気を取り直して、僕は石段を登り始めた。

 一段一段ゆっくりと、足元を凝視して注意深く進む。こんなところで躓いたら洒落にならない。そう思えば思うほど平衡感覚がわからなくなってくるものだから、僕は歩くことを覚えたての赤ん坊みたいになっていた。

 そうして悪戦苦闘しながらも、どうにか神社が見えてくる辺りまで登ってくると、頂上周辺が少し開けていることもあって明るさもだいぶマシになっていた。


 あと数段で頂上だ。


 足元の不安ももはやない。


 だけど――僕の足はそこでピタリと止まった。


 登り切ることを諦めたわけじゃない。


 あと数段登ることもできないほど疲れているわけでもない。


 ただひたすらに――


 言葉もでないほどに――


 僕は目の前の光景に見惚れてしまっていたんだ。


 月光に彩られた銀色の世界。

 古びた神社は瀟洒に変わり、まるで絵筆で描き上げられた一枚の絵画のように研ぎ澄まされている。この神秘的な神社の絵がコンクールにでも出展されれば、間違いなく賞を取ること請け合いだろう。


 しかしそれでも、この絵の主役が別にいることは誰の目にも明らかだった。


 長椅子に腰掛け月を見上げる女性。長い髪をさらりと流し、悩まし気に見上げるその容貌は自然と目を惹きつけるような魅力であふれていた。


 目が離れない。

 どこか儚気で、憂いを帯びたその横顔から。

 僕も絵の魅力にあてられてしまっているようだった。


 けれど――ふと我に帰ると、猛烈な羞恥に襲われる。


 途中からなんとなく気づいてはいたんだ……。

 恐ろしく整ったその顔は、どこか見知った感じがあった。ここ数日、近くで何度も見ることになった容姿に――よくよく見れば……似ていなくもなくもない気がしていた。


 だがしかし、別人という可能性も……! とかいろいろ考えていたんだけれど……いやもうやめよう、これ以上は無理筋だ。


 ――認めよう。

 あれはあきさんだ。


 雰囲気が普段と全く違っているせいで確信とまではいかなかったけれど、それでもこの場所にいるということ自体がそれを証明しているようなものだろう。なにせ先輩自身がここへまた来るように言っていたのだから。


 しかしそれはそうと、果たしてこれからどうしたものだろうか?


 いっそここで回れ右をして帰るという選択肢もあるけれど、数秒覗き見するような格好になってしまった手前、声もかけずに引き返すのはなんだか不審者っぽい行動になってしまう。誰に見られているわけでもないのだけれど、妙な負い目があった。


 ……しょうがないか。


「えっと、暁さん……? こ、こんにちは?」


 僕は声を掛けながら近づいていく。

 特段変わったことはしていないつもりなのだけど、急なことだったからか、先輩はらしくもなく動揺していた。


「ど、どうして貴方がここに……?」


 どうしてって……。


「いや先輩が言ったんじゃないですか。『きっと悩みが晴れるから、またここに来てみてくれ』って。忘れたんですか?」


「ああ、そうか……そうだったね」


 どうにもぎこちない返事だった。

 だが彼女はすぐに持ち直す。


「それで、どんな悩みがあるんだい?」


「え? 悩み、ですか?」


「悩んでいるから、ここに来たんだろう?」


 ……ああ、そうか。

 そういうことになってしまうか。

 たしかに『ここにくれば悩みが晴れる』と聞いていた僕が、実際ここに来たわけなのだから、自分は悩みを抱えています――と、言っているようなものだろう。


 しかし、悩み。……悩みか。

 僕も自分で悩みを抱えている自覚はある。

 だけど、それはひどく漠然としたもので、言葉にすることが難しかった。それに他人に悩みを話すのはやはり抵抗がある。


「もちろん強制はしないよ。君が言いたかったら言ってみてくれ。私で役に立つかはわからないけれどね」


「……はい」


 話すべきか、そしてなにを話すべきなのか、だいぶ迷った。

 夕星さんとの確執のこと。自分自身の不甲斐なさのこと。そして、自由部を退部するつもりでいること。

 話したいことはたくさんあって、でもどれもが簡単には言い表せない。考えても考えても考えはまとまらず、僕は結局、ことの初めから彼女にすべてを話すことにした。


 僕が話している間、彼女は終始無言だった。ただ、僕が語り終えると「そう……」と一言だけ言葉をこぼし、それから驚いたことに僕へと深々頭を下げた。


「本当にすまなかった」


「えっ⁉ ちょ、あ、頭をあげてください‼ どうして暁さんが謝るんですか⁉」


「君を不快にさせてしまったのは、間違いなく私の落ち度だ。巻き込んでしまったものとして、まずそこを謝罪したい。謝ってどうにかなるものでもないかも知れないが……」


「いや、あ、あの……」


「それから愛美の非礼についても謝らせてほしい。あの子の暴走を止めらなかったのも私だ。あの子が不安定であることは私も重々承知していた。それにも関わらず、なんの対策も講じずにこのような結果を招いた。責任は私にあるだろう。だから――‼」


 先輩が突然僕の手を取る。


「どうかあの子を、あの子達を嫌いにならないでやってほしい。あの子達には味方になってくれる人間がもっと必要なんだ。だから、どうか頼む――‼」


 彼女は必死の様相で頭を下げてくる。

 包まれた手のひらからもその熱意と真剣さが伝わってくるようだった。


「あ、頭をあげてください。先輩のことも夕星さんのことも僕は非難するつもりなんてありませんから」


 ここにくるまでずっと考えていた。

 僕はいったいなにを間違えたのだろうか? ――と。


 僕のした言動だけで考えれば、話は簡単だ。明確に先輩を拒絶できなかったこと。これに尽きる。それができていれば、そもそも僕が思い悩む必要はなかったのだから。


 けれど――ならどうして僕は暁さんを拒絶できなかったのか? と考えると、途端に話が変わってきてしまう。


 僕には何度かそれをするタイミングがあった。にも関わらず、僕が彼女を拒絶できなかったのは、結局のところ僕自身に問題があるからなんじゃないだろうか?


 そう、考えるようになっていた。


「悪いのは――僕なんです。先輩にちょっと強引に入部させられたのは確かですけど、僕はそれを拒否することだってできたはずで。なのに言われるがまま入部して、抜け出すことすら考えもせず、自分からは決して行動を起こさなかった。その結果が今なんだと思います。僕は――ずっと前からそうなんです。前へいるよりも後ろからついていく方が楽で、何事においても右に倣えで生きてきて……」


 ――その報いが今なんだ。


「だから僕は――」


 その時ふと、頭に言葉が浮かんできた。

 それは僕にぴったりな言葉のように思えた。


「僕には――自分がないんですよ……」


「自分がない?」


「僕には他人に大手を振って言えるほど好きなものなんてなくて。どうしてもやりたいと思えるほど執着していることもなくて。自分がなにをしたいのか――それが僕にもわからないんです」


 いつからだっただろうか。どんなことにも夢中になれなくなったのは。

 勉強も、運動も、遊びでさえも、僕は一歩引いたところからしか見れなくなった。

 そんなことができても意味はないじゃないか。上には上がいる。凡人の僕が頑張るだけ無駄だ。


 ――言い訳をして。言い訳をして。言い訳をして。


 最後には結局なにも残らなかった。

 滑稽な話だ。先輩も呆れてしまっているに違いない。

 そう思ったのだけれど、暁さんはこれまで見たことないほどに、沈痛な表情を浮かべていた。まるで嫌というほど自覚している欠点を、他人に指摘された時のような、苦り切った顔。


 けれど、それはほんの一瞬だけだった。

 すぐにいつもの不敵な笑みが取って代わり、豪放磊落といった様子で話し出した。


「なるほど。君の悩みがどういうものかは、なんとなくわかったよ。しかし残念だけれど、私もそれに対する明確な回答を持ち合わせていないんだ。私なんて所詮ただの学生だからね。ただ――これは真理などとは決していえないものだけれど、ひとつの考え方を示すことはできると思うよ」


「考え方、ですか?」


「そう、考え方だ。考え方ひとつでなにが変わるんだと思うかもしれないけれど、意外と重要なことだよ。思想が変わるだけで、人生が大きく変わることもある。良い意味でも――悪い意味でもね」


 彼女はそこで一呼吸入れた。

 そして、さて――と、話題の転換を示唆すると、こう続けた。


「君は――『自分』ってなんだと思う?」


「えっ?」


「もう少しちゃんと言えば、私たちの言う『自分』とはなにでできているか、かな?」


「え、えっと……身体とか記憶とか、ですかね?」


「うん、そうだね。それも大いに関係してくるものではあるだろう。でもそれは、根幹とは言えないかな」


「根幹……ですか?」


 よくわからない。


「君の身体も記憶も当然ながら常に変化している。『男子、三日会わざれば刮目してみよ』なんて言うけれど、私たちは一秒だって同じ存在ではない。身体の細胞は変化し続けているし、記憶にしても常に更新し続けられている。なのに私たちは、一秒前の自分と今の自分が同じ存在だと認識している。それはどうしてだと思う?」


「そんなこと当たり前――じゃないですか?」


「ほう、どうしてだい?」


「いやだって、そりゃ体内の細胞とかもろもろは変わるかも知れないですけど、えっと……その『自分』は変わらずあるじゃないですか」


「……ふむ。上手く伝わってないかな? ひとつ例え話をしよう」


「例え話ですか?」


 ああ、有名な話なんだけどねと、前置きを入れて先輩は話し出した。


「とあるところにテセウスという青年がいた。彼はある時、漁師をしていたお爺さんから船を受け継ぎ、その船で漁に出るようになった。彼はこの船をすごく大切にし『お爺さんの船』として愛用していくようになる。しかし、その船はもうすでにかなり年季が入っていた。少しずつだがところどころで無理が出始めてしまう。そこでテセウスは、壊れてしまった箇所の木材を外して、新しい木材でその穴を塞ぐことにした。腐り掛かった板を外し、新しい板を船へと固定していく。ところで――この時点でこの船はお爺さんから受け継いだ時の状態から明確に変わってしまったわけだけど、それでも『お爺さんの船』と呼べるだろうか?」


「え? それはまあ、そうじゃないですか? 『お爺さんの船』を補修しただけですし?」


「ふふっ、そうだね。では続きといこう。テセウスはそれからも『お爺さんの船』を使用し続けた。ただ勿論、一箇所補修した程度で完全に直るわけがない。またすぐに船は痛みだしてしまう。けれど、『お爺さんの船』に愛着のあったテセウスはその度に壊れた木材を外し、新しい木材で補修することで使い続けた。そしていつしか、はじめに『お爺さんの船』を構成していた木材はすべて外され、新しい木材に置き変わってしまった。ではもう一度訊こう。この船は『お爺さんの船』だろうか?」


「そ、それは……えっと、……そうなんじゃないですか?」


「ではこうだったらどうかな? テセウスは外した『お爺さんの船』の木材をすべて大切に保管していた。そして、元々あったすべての木材が外されたこのタイミングで、保管していた『お爺さんの船』の部品を合わせて船の模型を造った。これは船としては使えないものだけれど、大きさも見た目もお爺さんから受け継いだ時と遜色がない。さてこの時、この模型と彼が今も愛用している新しい木材で造られた船。どちらが『お爺さんの船』だろうか?」


「そ、それは……」


 どっち――なんだろう?

 今まで『お爺さんの船』として使い続けたものが急に別の船になるとは思えない。けれど、元々使われていた木材で造った模型は、それこそ『お爺さんの船』としての条件を満たしている気もする。


「……使い続けてきた船、ですか?」


「どうしてそう思ったんだい?」


「感覚的にそうなのかなって……特に理由はないんですけど……」


「ふふっ、正解――と言いたいところだけど、この問題に明確な正解はないんだ。君のように使い続けている船の方を指して『お爺さんの船』だという人もいるし、逆に模型の方を指してそういう人もいる。だけど、私が思うに――重要なのはテセウス自身がどう思うかだ」


「テセウス自身が、ですか? でもそれって答えになっていないんじゃ……物質的にどちらだと言えるのかって問題ですよね?」


「そうだね。この問題を真面目に受け取るとしたら、物体の同一性の話になる。そしてそれは、最初に話した『自分』の話となにも変わらない。私たちも『お爺さんの船』と同様に物質的には変わり続けているわけだからね。では、どうして私たちは自分を自分だと思えるのか――?」


 先輩は立ち上がり、空を見上げる。


「私はね。ここで星空を見るのが好きなんだ。煌めく星々や満天の月を眺めることがなによりも楽しく思える。将来は天文学者になりたいと思った時すらあった。今は別の将来を考えなければならない身の上だけどね。まあつまり――私にはそういう過去があって、思い描く未来があるということだよ」


「ど、どういうことですかっ⁉」


 話が途中から変わってませんでしたかっ⁉


「はははっ、つまり大事なのはストーリーじゃないかってことだよ。そして、自分がないと君が思う最大の原因がそれだ。君にはストーリーがない。記憶に残る鮮烈な過去も、焦がれるような目標もない。だから、君は自分を見失っているんだよ。君は、いや私たちの多くは勘違いをしているんだ。まずもって、なにをおいても一番はじめに、自分がいると思っている。今ここに、現在に、自分という起点があって、そこから過去を振り返り、未来を夢見るのだと。

けれど、恐らくそれは違うんだ。そうではなくて、まず先に記憶に残る過去ができ、そこから未来を思い描いていくことで、私たちは『自分』を獲得するんだ。過去と未来、その延長線上のどこかにいる『自分』を見つけることができる。だから、今の君もまったく自分がないわけではないと思うよ? 少なくとも君だって、過去を思い出すことはできるだろう。明日の自分が今日と同じように生きていることを思い描くこともできるはずだ。けれど、それはあまり面白いものでもなく、期待できるようなものでもないんじゃないかな? そして、それこそが問題なんだと私は思うんだよ。言っただろう? 『自分』とはストーリーが肝心なんだと。君が好きな物語は、退屈な物語だったかい? 鮮烈な過去も、焦がれるような目標もない主人公に、強い自我を感じることがあるだろうか?」


 彼女はそこまでいうと、少し気恥ずかしそうに喉を鳴らした。


「偉そうにものを語ってしまったが、最初も言ったようにこれが真理というわけではないよ。これはひとつの考え方だ。それにこの考え方が万能なわけでもない。――私とて自分を見失わずにいられるとは限らないからね……」


 彼女の言葉を僕は完全には理解でききなかった。


 たしかに僕には印象深い過去も心底望むような未来もない。でも、そもそもの話。それをどうやって手にすればいいかもわからないし、なによりそれを手に入れたとして、今の僕がどれほど変わるものかも想像ができなかった。


 なにはともあれ、明日から週末だ。

 考える時間は十分にある。

 ずいぶんと重くなった頭を上げて、僕は慈悲深く照らしてくれる月を見上げた。

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