第4話 母を訪ねて異世界へ!

 一時間経過……わずかに切り込みが出来た。少し休憩しよう。


 リビングでコーヒーを淹れて飲む。かつては家族団らんで賑わった場所だ。

 視線の先にあるソファは一部が引き裂かれて中身の綿が出ている。ミーの仕業だ。

 母さんも父さんも、それを叱ることなく「あらら」で済ませていた。ミーは我が家の宝物だった。


 あの頃は笑顔が絶えなかったな。


「はあっ」

 天井を見ながら溜息が出た。頬を伝う涙。



「ショウちゃん、どうしたの⁉」

 萌がリビングに立っていた。ヤバい、泣いている姿を見られた。


「金切りノコギリを手に……まさか、お母さんを!」


「違うわいッ!」


 そんなことより、なぜ萌がここにいる。

 まさか登校拒否か。

 ダメだぞ、学校へはちゃんと行かないと。不良になってしまう。


「今日は創立記念日で授業は無いの。本当は部活に行くつもりだったけど心配になって戻ってきちゃった」


 中学の部活は気楽でいいな、などと皮肉の一つでも言おうものなら口撃が始まるから黙っておこう。

 俺も事の経緯を説明した。

 金切りノコ一本で、籠城するマッドマムと戦う勇者の物語だ。


 すると萌は、あからさまに小馬鹿にした態度で「ショウちゃんって、ほんと勉強以外はダメなんだねぇ」とせせら笑った。


「なんだとぉ!」

 怒り心頭の俺に、萌はポケットから鍵を取り出す。


「家の鍵がどうした」


「いやいや、この鍵一本で家中開くから」


「……あ、」


 間違いなく、瞳から漏れるのは『呆れた』という感情。俺は恥ずかしさを押し殺しながらコーヒーカップを置いた。


 萌のあとを黙って歩き大部屋の前へと戻る。

 萌が鍵を差し込み回した。実にあっけなく、ガチャっと軽快な音が響いた。


「開いたっ……いや、ダメじゃないかあ!」

 ドアは内側にチェーンがしたままだ。


 いや、この程度なら。俺は金切りノコを手に「とりゃぁぁぁあ」と前後させた。

 指先に力をいれると摩擦熱でうっすら煙もあがった。金属片が切れる音がした。


 金切りノコギリの勝利。


 我が妹よ、見たか兄の勇姿。俺は間違っていなかった。ひゃっほー。


「お母さんッ!」

 勢いよく突入したのは萌だ。


 そして絶句!


 後ずさりしながら「あれは何なの」と俺の腕を握る。


 そこにあるものに驚愕し、腰を抜かしかけた。ドアに背をつけるようにずるずるへたり込む。

 部屋いっぱいの……ブラックホール?


 宇宙に浮かぶ星雲のようにぐるぐる回転している。その周囲の空間はねじ曲がって中央部の暗黒世界へと落ちていた。

 我がマッドマムはなにを創ったのだ?


 母の姿は見えなかった。

 ブラックホールの側にノートパソコンが置いてある。画面にはいくつかのウインドウが開いていた。座標軸を描いたものや、小難しい方程式がスクロールし続けているもの。


「なんだ、これは?」


「だんだん小さくなってるよ」


 萌の指摘通りだった。

 おそらく母を吸い込んだのだろうと推測出来るブラックホールは、花弁が閉じて蕾みに戻るチューリップのようにサイズダウンをはじめていた。

 直感的に「いま飛び込まないと消えるな」と感じた。


 兄としての威厳を見せるときか……いやいや、半分やけくそだった。

 父がいれば違う考えになっていただろう。あるいは学校生活が楽しければ母の帰還を大人しく待っていたかもしれない。

 けれど、いまの俺にそんな精神的余裕はなかった。


「お兄ちゃんも異世界へ行ってくる」


「嘘でしょ、こんな見るからに危険なところに飛び込む気?」

 萌がぎょっとした表情で俺を見つめる。


「母さんが心配じゃないのかよ!」


「……じゃあ、あたしも行く」


「おいおい、萌はここへ残っていろ」


「あたし中学生だよ。ひとりぼっちで生きていけるわけないでしょう」


 ドングリ眼に涙をいっぱいに浮かべる妹に、つい言ってしまった。

「一緒に行くか?」


 萌は「うん」と迷いなく肯定した。

 俺は妹の小さな手を握る。「本当にいいのか」と再度確認する。萌の手は震えていたが、それは俺も同じだ。


「お兄ちゃん……」


「ああ、怖いな」


「そうじゃなくて」


「なんだよ。やっぱり止めるか」


「裸足で行くの駄目じゃないかな」


 萌の指摘通り、大急ぎで玄関まで走ると靴を手に戻る。

 閉じかけのぐるぐるブラックホールの前でスニーカーを履く俺に「部屋で履くの?」と驚く萌だったが、「それも、そうか」とひとりで勝手に納得した。

 セーラー服の女子中学生は白い靴下に覆われただけの小さな足を、スクールシューズに差し込んだ。


 一歩踏み出す。さらにもう一歩。

 掃除機のノズルの前に顔を近づけたときのように髪の毛が引っ張られた。


 そして、もう一歩。


 途端、あらがえない力で一気に躰ごと吸い込まれた。

 そこは真っ暗な『無』だった。


 萌の手を離すまいと力を込める。

 けれど凄まじい吸引力のまえに二人はバラバラに引き離されてしまった。

 遠退く意識の中で妹の悲鳴が聞こえた。

 俺はそのときになって初めて後悔した。

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