第3話 母さん、異世界へ行く。

 我が母のプライベートなテリトリーは、一階の奥の間にある大部屋だ。ここに引き籠もった? 上等だ、引きずり出して出してやろうじゃないの。


 家計の事なんて全く考えずに大学を辞めた母は、手早くリフォーム業者に連絡すると家の広間を改築させた。困惑する職人に無理難題を命じて、家の中に研究室を創りあげたのだった。


 ドアは木製に見えるが分厚い金属ハッチだ。  

 遠慮無く俺はドツいた。ノックなんて優しい音では気づかないだろう。

 想像通り、天岩戸は少しだけ開かれた。


「母さん!」


「……ムッ」


 やや激高気味の母の顔がドアの隙間から覗くのを、一気に開いて突入しようとした。

 だが敵は上手だった。

 しっかり内側にドアチェーンがかかっている。


「なによ、いま忙しいのよ」

 不機嫌そうな表情。家事を放棄した母親が息子に向ける顔じゃないだろ。


「朝飯は!」


「萌ちゃんか、お父さんに作ってもらって」

 どうやら部屋に引き籠もりすぎて、我が家の状況を忘れているようだ。


「父さん、だと?」


「そうよ、お父さん……ああ、そうか」

 思い出したようだ。


「父さんなら数日前に失踪したよ。自分のタクシーでね」


 ミーが死んだ次の日。ペット専門の火葬業者から、小さな小箱を持ち帰ったのは父だ。

 箱にはミーの骨壺が入っていた。リビングのテーブルへ優しく置くと、寡黙な父は一瞬だけ溜息をついて、あとはずっと座っていた。大柄なその躰が小さく見えた。

 その晩に家族のもとを去ったのだ。


 世界的に有名な物理学博士の夫は、タクシー運転手だった。

 周囲のやっかみもあっただろうが、腐ること無く仕事を真面目に続けていた。

 家族思いでもあった。


 そんな彼がミーの骨壺と共に姿を消した。


 三毛猫のミーは、大雨のなかを父が拾ってきた。何年も前の話だ。

 当時のミーはとても小さく、痩せていて、タオルに包まれた躰は瀕死の状態だった。

 皆で懸命に世話をして元気になっていったが突然、息を引き取った。父の腕の中で一言だけ「ミー」と鳴いた。そのときの父の顔は今でも忘れられない。


 捜索願いを依頼しようと一大決心で警察へ電話したが、どもりながらの話しぶりに逆に何かしらの犯罪を疑われる始末だった。

 なによりも四十六歳のおっさんがいなくなったところで『置き手紙がある』ことを理由に、まともに取り合ってくれない。


「俺、高校辞めるから」

 学校からの『最後通告』に印鑑を押して返信すれば除籍処分だ。高校中退。ニートの完成だ。


「そうなんだ。翔太が決めたことなら、そうしなさい」

 母さんは、世間的標準値の母親とはかけ離れた物わかりの良さで即答した。


「本当にいいのかよ。大学教授だったあんたの息子が中卒だぞ」


「この世界の学歴なんてどうでもいいわ。そんなことより、今からちょっと異世界へ行ってくるから」



 ……はぁ、異世界?


 意味不明な言葉を残し、速攻ドアを閉じると「がちゃりっ」と鍵の閉まる音がした。


「ちょっと、待て!」

 再びドアを叩くが今度は返事すらない。ノブを回しても黒い金属のドアは無愛想に俺を拒絶する。


 怒りがわき上がってきた。いっそのこと、俺も父さんみたいに失踪してやろうか、そんな事を考えた次の瞬間──ドドッ、どーん!


 家が揺れた。


 地震か、と咄嗟に床へ両手をつく。

 怯えたのも束の間、揺れはすぐに収まった。

 震源地はどうやらドアの向こう側。何かが爆発したようだ。


「おいおい、大丈夫なのかよ」

 心配になってドアを叩くがやはり返事はない。


 扉の隙間から銀色の四角い金属で出来たデッドボルトがうっすら見えた。これが鍵の正体だ。ようはコイツを切ってしまえばドアは開くわけだ。


 倉庫を漁るとあった。金切りノコギリだ。

 木製の取っ手から薄い長方形の金属が延びていて、両方に細かなギザギザの歯がある。

 ドアの隙間に差し込んだ。

 だが金切りノコの刃は金属の上を滑るばかり。ううむ、硬い。


 だが、やめるわけにはいかない。


 鍵屋サンへ電話して家に来て貰う……のは、俺には抵抗があった。俺自身が知らない大人と交渉する自信が無いのもあるが、「異世界行ってくる」なんて宣う頭のオカシイ母親を他人に見せたくないという気持ちも強かった。


 そもそも、この部屋の中がどうなっているのかわからんのだ。「有名人のお宅拝見!」が魔窟だったら恥ずかし過ぎるだろ。

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