屋久月家の人々
第2話 引き籠もりの兄と活発な妹
甘ったるい薄明かりがスズメたちのモーニングコールを乗せて、カーテンの隙間から漏れてくる。今日こそは、この平和を貪りたいと願うのだが──俺のそんな慎ましやかな想いは、やはり小悪魔の策謀により破られるのだった。
ドアを「どんっ、どんっ」と叩く音。特権的優雅な朝をぶち壊す恨めしい破滅音。毎朝のルーティーンを繰り返すだけの感情のこもらない声が壁向こうからささめく。
「ショウちゃん、今日も高校サボりですかあ」
──うるせぇ。
俺は頭に枕を乗せて布団へ潜り込む。意識を遮断し、無我の境地で刻が過ぎるのを待つ。
「……ところでさぁ、」
なんだ、今日はしつこいな。いつもなら、すぐに階段を下りていくはずなのに。
「お母さんも引き籠もっちゃったんだけど」
……も?
「おいおい、妹よ。どういうことだ。お兄ちゃんは引き籠もりなんかじゃないぞ。ああいう自堕落に時間を重ねるだけの連中と一緒にするな。ちゃんと外出はしている。二日前も限定フィギュアを買うために深夜のコンビニへ出掛けていったんだッ!」
怒りを露わに部屋のドアを開くと石鹸の香りがした。目に入るのは黒髪のショート。痩せっぽちで小柄な体躯。
「ショーちゃんったら、またジャージで寝たのね」
世の母親が言いそうな台詞ベスト5位くらいには入りそうな小言だ。セーラー服姿の中坊が、仁王立ちで俺を見上げていた。
萌だ。いや萌え萌えの意味じゃないぞ。屋久月萌。俺の妹だ。
そもそも妹に萌えるなんてのはアニメやゲームの中だけの話であってリアルな妹という生命体は鬱陶しい以外の何者でもない。
「いいかげん、兄を名前呼びするのは止めないか。小学生の頃はちゃんとお兄ちゃんと言ってくれてただろ」
「どうでもいいから、お母さんをどうにかしなよ。朝ご飯は無いからね」
「なんだと?」
「朝は忙しいのよ。あたしは通学途中で何か買っていくけど」
「お、おれの飯は?」
萌はにやり、と意地悪な笑顔を浮かべると「コンビニに買いにいけばあ」と呟いた。
この時間は出勤前のご近所さんや顔見知りに出会う確率が高い。
いやだ。ましてや同級生と鉢合わせでもしたら、死ぬ。
「ショウちゃん……、」
萌の表情が硬くなる。やや愁いを含んだ口調で「……高校でいじめられてるの?」と問いかけてきた。
「ば、ばかか。俺がいじめられるとか、そんな、だ、大丈夫だ。そんなわけないだろう」
「そう、それなら良いけど。ショウちゃんの学校って偏差値それなりに高いのに、いじめとかあるのかなって気になったんだ」
それなり……
「とにかく、おまえは早く中学へ行けよ。お母さんのことは、何とかする」
萌の背中をみながら「こいつは高校へ進学しても要領よく学校生活を楽しむんだろうなあ」と、この状況をむしろ楽しんでいそうな雰囲気にうらやましさを感じた。
俺は要領が悪い、と隣に座るクラスメイトから言われたことがある。
うちの高校は萌が心配するような暴力馬鹿はいない。
ただし嫌味な野郎ならいっぱいいる。
平気で無視する女子も多い。俺の何が気に入らないのか、キモいと陰口を叩く。
あげく担任までが「
ふざけやがって。こんな学校、こっちから願い下げだ──とは言うもの辞めたら中卒か。
ふっきれない気持ちが、だらだらと時間だけを引き延ばしていた。
俺の母親は大学教授だ。
いや、大学教授だった。
どうやら有名な物理学博士らしい。世界中を講演で飛び回っていた時期もあった。それが家族に相談のひとつもなく大学を辞めてしまった。
今は自宅内で何やら不気味な研究に没頭している。それでも世間的に俺は『あの屋久月先生の御子息』なのだ。
隣近所から声をかけられるに留まらず、海外のマスコミからも取材を受ける。将来を嘱望されている身だ。
だからこそ偏差値の高い進学校を選んだ。
だが、それも限界に近い。
学校からは「屋久月
義務教育ではないのだ。
しかも格式と伝統を重んじる私立の有名校だ。
「俺は学校の社会的権威をさげる問題生徒になったんだな」
最悪の気分だった。
ミーが死んだ、あの日以来の最悪だ。
いやいや、それどころじゃない。母さんが引きこもった?
「最悪の同時多発テロかよ!」
腕尽くで部屋から引っ張り出して朝飯を作らせよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます