第35話 なんだか、いつもより小さく見えた
エステルは待った。
ただひたすら、待った。
彼女にできることは、それだけだった。
* * *
「……少しは休んだらどうだ」
日中は庭園で、夜間はバルコニーで、ただ座って花街の方を見つめる。
エステルはこの数日間、ずっとそんな風に過ごしている。
さすがに心配になったクライドが彼女に声をかけたのは、疫病発生から九日目の朝のことだった。
国王が定めた期限まで、残された時間はあと一日。
昨夜も遅くまでバルコニーにいたと騎士から報告を受けている。
そしてまた早朝から庭園に出たと聞き、クライドは彼女の様子を見に来たのだった。
「それなりに休んでいます」
エステルは即答したが、それを聞いたメイドたちは黙って首を横に振った。
夜は一応ベッドの中に入ってはいるが、あまり眠れていないようだと、既に報告を受けている。
「中に入れ。ここは寒い」
まもなく冬は終わるという季節だが、午前中はかなり冷える。毛皮のコートを着て温かい紅茶を飲んでいるとはいえ、長時間外にいるのは身体に障る。
だが、エステルは首を横に振った。
「ネコやカラスが来た時、外にいた方が早く知らせを受け取れます」
言いながら、エステルは亀のようにきゅっと首を縮こまらせた。
そうすると毛皮のコートの襟に頬まで顔が埋まる。寒さで赤くなった鼻と頬は隠れたが、真っ赤な耳は見えたままだ。
「動物が来たらすぐに知らせる」
「手間がかかりますから、私が外にいる方が早いです」
「それほど差があるとは思えないが」
「その差が惜しいのです」
二人の間に沈黙が落ちる。
クライドがため息を吐くが、エステルはそ知らぬ顔で湯気の立つ紅茶を口に含んだ。
「……強情だな」
「今更でしょう?」
再び沈黙。
バラの庭園の真ん中に位置するガゼボからは、西門の脇に立つ塔が見える。花街は、その門の先にある。
クライドもエステルと同じように、西の方をじっと見つめた。
「君の家族について、何か分かったか?」
「昨日の夕方、娼館の女将からの手紙をカラスが届けてくれました。下男が数人発症したそうですが、女将と娼婦たちは無事だそうです」
エステルが暮らしていたのは、花街の中でも金持ちだけを相手に商売する高級娼館だ。建物や娼婦が暮らす部屋は清潔に保たれているし、出入りする人も限られている。
おそらく無事だろうと予想していたとはいえ、無事であると知らせを受け取って、エステルは安心したことだろう。
(だから、か)
今はただ待つことしかできない。
だが、外に出て動物たちを待っていれば、そのもどかしさも少しは紛れるのだろう。
クライドは小さくため息を吐いてから、エステルの向かいに座った。
メイドたちが気をつかってすぐに紅茶を入れてくれたので、ありがたくいただく。
「……あなたまで付き合う必要はありませんよ」
「そうだな」
「では……」
戻ってはいかがですか、と言おうとしたようだが、彼女は続きを口にすることなく、毛皮の襟に口元を埋めてしまった。
(相当、弱っているな)
こんな風に言いたいことを言わない彼女を見るのは、初めてだ。
寒空の下。
鼻と耳を真っ赤に染めながら。
首と肩を縮こまらせて。
ただひたすら西の空を見つめる彼女は。
なんだか、いつもより小さく見えた。
* * *
その日、結局クライドは午前いっぱい庭園で過ごした。
エステルと同じように、黙ったままじっと西の空を見つめて。
昼近くになると、クライドの後ろに控えた執事長がそわそわし始めたので、さすがのエステルも折れるしかなかった。
昼食時には屋敷に戻って、それからはエステルも屋内で過ごした。溜まっていた商会の仕事や手紙の返事を書くことで気を紛らわせて。
後でメイドから『旦那様は奥様が部屋に戻られるのを、最後まで見届けていらっしゃいましたよ』と言われて、思わず頬が熱くなった。
(勘違いしそうになるじゃない)
彼はエステルの気持ちに寄り添うために、一緒にいてくれたのだと。
エステルのことを、大事に思ってくれているのだと。
(そんなはずないのにね)
彼はエステルのことを信頼し、妻として尊重してくれている。その点に疑う余地はない。
だが、それは夫としての義務だ。
何か特別な気持ちがあって、そうしているわけではない。
そのはず、なのだ。
夜になると、エステルは入浴を終えて髪を乾かしてからバルコニーに出た。毛皮のコートの上に、さらに毛皮の毛布をかぶって。
すると、バルコニーの手すりでカラスが待っていた。虹色の宝石のブローチを身に着けた、あのカラスだ。
足には手紙がくくりつけられていて、カラスは『急げ』と言わんばかりにカァと鳴いて、その足をエステルに差し出した。
エステルは慌てて手紙をほどいた。
寒さからだろうか、不安からだろうか。
手が震えて時間がかかる。
ややあって開いた手紙は、彼女が心から待ち望んでいた知らせだった。
『特効薬ガ完成シタ。安心シロ』
疫病発生から九日目の夜、国王が定めた理不尽な期限までに、彼はやり遂げたのだ。
エステルは慌てて部屋を飛び出した。
彼女の様子に驚くメイドや騎士を置き去りに、屋敷の廊下を疾走する。
ノックもせずにクライドの部屋の扉を開くと、寝間着姿のクライドが驚きに目を見開いていて。
そんなことには構わずに。
彼の胸に飛びついた。
「やったわ!」
叫ぶと同時に、涙があふれた。
嗚咽まであふれてきて、みっともなく胸がしゃくりを上げる。
そんな彼女の肩を、大きな手が優しく撫でた。
いつの間にかクライドは例の手紙を手にしていて。それを見て心底安堵した表情を浮かべた。
「よかった」
深く息を吐いて。
エステルの身体をぎゅうっと抱きしめた。
力強くて、でも優しい。
そんな抱擁の中で、エステルは声を上げて泣いた。
翌朝、エステルとクライドは夜明けとともに公爵邸を出発し、王宮に向かった。
国王に特効薬が見つかったことを早く報告しなければ。
夜の内、ひっきりなしに動物たちが公爵邸を訪ねてきた。
ネズミが特効薬の入った瓶を持ってきたかと思ったら、次にやって来たイタチは特効薬を投与した患者の経過が書かれた記録を、タヌキは特効薬のレシピを運んできた。
国王を説得するのに十分な材料が明け方までに揃ったのだ。
期限は今日の正午。
十分間に合う。
エステルは馬車に揺られながら焦る気持ちを抑えるように、ギュッと両手を握りしめた。
間に合う、大丈夫。
そう、自分に言い聞かせる。
だが。
ヴィクターの、あの不気味な顔が脳裏に過った。
時間がない。
そんな理由から、ヴィクターと第五の魔法使いを断罪するのは後回しにした。
それは、正しい判断だったのだろうか。
そんな考えが頭をもたげた、その瞬間だった。
ガタンッと音を立てて、馬車が大きく揺れた。
「きゃあ!」
頭を抱えて叫ぶエステルの身体をクライドが抱え込む間にも、馬車は揺れ続ける。
馬が嘶き、とうとう馬車が横転した。
クライドに抱き込まれているうえ、馬車の座席は柔らかいクッションになっているので、幸いエステルはどこもけがをすることはなかった。
だが、馬車が横転するなど、ただごとではない。
クライドは身体を緊張させたまま、エステルの肩を強く抱いた。
「絶対に私から離れるな」
「はい」
馬車の外からは騎士の怒号が聞こえてくる。
「襲撃だ。十、……二十はいるな」
エステルの背筋に冷たいものが伝った。
今日は急いで出かけてきたので、騎士はいつもエステルを見張っている騎士ばかりを数名しか連れて来ていない。
そこへ、二十人以上の悪漢の襲撃を受けてしまったということは、かなり良くない状況なのではないだろうか。
「大丈夫なんですか?」
「君の護衛は公爵家の中でも選りすぐり。一騎当千の騎士ばかりだ。問題ない」
話している内に、上向きになってしまっていた馬車の扉が開いた。
「旦那様! 奥様!」
扉の向こうから顔を出した騎士は二人の顔を見てほっと息を吐いた。
「状況は?」
「問題ありません」
クライドの問いに騎士が素早く答える。
「殺すなよ」
「承知しています」
淡々と話しながらクライドは扉をよじ登り、エステルの手を引いて彼女を引き上げた。
エステルが馬車の外に出て、地面に足を付ける頃には、事は全て終わっていた。
薄汚れた格好の悪漢たちは、騎士によってもれなく昏倒させられていて、あちこちに血痕も広がっている凄惨な状況だ。
そうこうしている内に、通りの向こうからは首都の警備隊もやってきた。
「旦那様!」
さらに、騎士の一人が馬を引いてきた。
「乗れ」
「え?」
「時間がない」
クライドは戸惑うエステルの脇に手を入れて、ひょいと彼女を抱き上げた。
横向きにエステルを馬に乗せると、間髪入れずにその後ろにひらりと鞍にまたがった。
馬車は使えない。ここからは二人で騎乗して王宮に向かうということだろう。
エステルの身体を抱きしめるように両側から腕を回して、クライドが手綱を握る。
「急ごう」
クライドが馬の腹を蹴った。
それとほぼ同時に、
──パンッ。
何かが弾ける音が、あたりに響いた。
もしもエステルが騎士だったなら。
ギリギリと張りつめた弓の弦が解き放たれる時の音だと分かっただろう。
だが、咄嗟には分からなかった。
いったい、何が起こったのか。
彼女がそれを理解したのは。
クライドの身体が、ドサリと鈍い音を立てて地面に落ちた、その瞬間だった。
その背には深々と矢が突き刺さっていて。
彼の身体の下では。
真っ赤な血だまりが、じわじわと広がり始めていた。
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