第34話 あなたの善意を信じます



「ニャア」


 研究室の外で、ネコが鳴いた。

 次いで、カリカリと爪で扉を掻く音が聞こえてくる。

 どうやら、何か急ぎの知らせを運んできたらしい。


 普通の人間の耳にはただの鳴き声しか聞こえないらしいが、テディは生まれた時から動物たちの言葉を理解できた。

 動物はテディにとっては友達のような存在で、頼れる仲間だ。


 こんな状況では人は動きづらい。

 彼らには本当に助けられている。


(落ち着いたら何か礼をしなければ)


 そんなことを考えながら、テディは手にしていた試験管を丁寧に置き、立ち上がって腰を伸ばした。


 疫病が発生してから三日。

 治療薬の開発にはまだ時間がかかりそうで、テディはほとんど眠らず研究室にこもっている。


 その研究室は、花街の地下にある。

 ただし、普通に探したのでは絶対に見つからないようになっている。

 地下水路に入り、右へ左へ、正確な順路をたどった時だけ扉が現れる。そういう魔法をかけてあるのだ。


 この秘密の地下室への入り方を知っているのは、テディと動物たちだけだ。


 だから、


「テディ! 会えてよかった!」


 こんな高貴な人が研究室にやってくるなど、あり得ないはずだったのだ。




 * * *




 公爵邸の庭園には、多くの野良猫が住んでいる。

 何代か前の公爵夫人が動物好きで、『庭園に迷い込んできた猫にはエサと寝床を与えるように』と命じて以来、多くの猫が住み着くようになったという。


 エステルは、そのうちの一匹に、ダメもとで案内を頼むことにした。


 その猫は『ボス』と呼ばれている、額に十字傷を持つ恰幅の良い灰色猫だ。

 エステルが公爵邸で暮らすようになるずっと前から公爵邸の庭園を縄張りにしていて、他の猫から一目置かれているという。


 深夜過ぎ、庭園の隅で眠っていたボスに、まずエサを献上した。


 猫たちは厨房にもよく出入りするので、シェフは猫の嗜好を熟知していた。そのシェフに『金に糸目は付けない』と言って作ってもらったエサを前に、ボスは目の色を変えた。

 がつがつと食いつき、食べ終わると機嫌の良さそうな声でニャアとひと鳴き。


『用事があるなら言ってみろ』


 と言わんばかりの態度に、エステルも彼女の様子を見守っていた騎士たちも思わず眦が下げた。


 エステルは猫の傍らに膝をついて、その瞳をじっと見つめてお願いした。


「魔法使いテディ・デンプシーのところに案内していただきたいのです」


 ボスは少し考える風の態度を見せた後、騎士たちをチラリと見た。

 エステルには彼の言いたいことが、なんとなくわかった。


「私一人では行かせてもらえないんです。連れて行く騎士は一人にしますから、それでなんとかお願いできませんか?」


 これにもボスは少し考えてから、ニャンと可愛らしく鳴いた。そして、エステルの膝に頬をすり寄せる。

 どうやら、交渉は成功したらしい。


 こうして、エステルは騎士を一人連れて、テディの研究室を目指したのだった。




 * * *




「事情は分かった」


 狭い研究室の中、テディとエステル、そして騎士の三人が絨毯の上に縮こまって座る。

 妙な絵面だが、この研究室には人が座って休める場所はここしかないのだから仕方がない。


 絨毯の脇では、ボスがゆったりと寝そべって休んでいる。彼はテディにも褒美の干し魚をもらってご満悦だ。


「……こいつが連れて来てもいいと判断したんだ。間違いではないだろう」


 テディが言うと、エステルが興味深そうにボスの顔を覗き込んだ。


「ずいぶん信頼しているのね?」

「動物は聡い。特に人間の感情には敏感だ。二人には悪意が全くなく、切実にここに来たいと願っていることが分かったから連れてきたのだろう」

「そっか。……ありがとね」


 エステルがボスの頭を優しく撫でると、ボスはうっとりと目を細めた。

 まるで飼い猫のような仕草に、テディが呆れる。


「すっかり骨抜きだな」


 この嫌味に、ボスはニャンと短く鳴いて答えた。

『うるせぇ』と言いたいのだろう。


 テディは、エステルの顔をそっと覗き見た。嬉しそうに笑ってボスの頭をなで回している。


(猫まで夢中にさせるとは)


 エステルと出会った時、その顔を見てテディはすぐにピンときた。


 この女性は時代を変える、と。


『無自覚に人を巻き込みながら前に進んでいく。そういう相だ』と占ったが、まったくもってその通りで。


 彼女の前向きで力強い意思に、多くの人が引き寄せられている。気難しいネコまですっかり懐柔されてしまった。


 それは彼女の生い立ちゆえだろうか。


(いや、彼女が育ってきた環境を思えば、むしろ競争心が強い割に卑屈な性格に育っていてもおかしくない)


 どれだけきれいごとを並べたところで、彼女が育ったのは花街。欲望と嫉妬の渦巻く、夜の世界なのだ。


(……彼女が引き寄せた奇跡、か)


 美しいだけでない。人の上に立つに相応しい威厳があり、公平で賢い。そのうえ、人を上手く操る話術にも長けている。


 だが、肝心なところで真っすぐさを失わない。

 自然と人の気持ちに寄り添うことができる。


 まったく稀有な人だ。


 今もまた、その真っすぐさゆえにここに来たのだろう。わざわざ彼女が動く必要などないというのに。


(護衛の騎士も、これでは苦労するな)


 テディが労いの意図を込めて騎士を見つめると、騎士は苦笑いを浮かべた。

 どうやら、言いたいことは伝わったらしい。


「用件は?」


 テディの問いに、エステルは少し唇を尖らせた。


「ずいぶんな言い方ね。友達が心配で様子を見に来たっていうのに」


 きょとん。

 テディは大きく目を瞠った。


「友達……?」

「そうよ。あなた、身体は大丈夫なの? ちゃんと食べてる? 眠れてる?」


 矢継ぎ早の質問に、テディは戸惑った。

 が、すぐに気を取り直した。


(まったく……)


 呆れながらも、胸の中心に温かいものが広がっていく。

 状況は最悪だが、彼女がいればなんとかなる。

 そんな希望が湧いてくるのだ。


「眠れてはいないが、食事はとっている。問題ない」

「ならいいけど……。うーん。時間がないから、ちゃんと眠ってって言い難いわね」

「十日程度の徹夜なら、滋養強壮剤でなんとか乗り切れる」

「そんな強い薬があるの?」

「ああ。あまりにも強すぎるので売り物にはできないが」

「そんなの飲んで大丈夫なの?」

「飲むのを辞めた後の反動で、一週間は眠り続けることになるだろうが……。まあ、その程度のことだ」

「うわぁ」


 エステルも騎士も頬をヒクリと引きつらせた。


「さすが、もぐりの魔法使いの魔法薬ってところ?」

「そうだな。認定魔法使いでは、こんな魔法薬は作れない」


 ニヤリと笑ってみせると、エステルも似たような笑みを浮かべた。


「治療薬の方はどう?」

「それなりに順調だ。明日からは試作の投与を始められる」


 ありとあらゆる魔法を駆使して、病原体を特定。過去の研究記録から似ている病原体を探し出して、おそらく有効であろう治療薬の試作品をいくつか準備してある。

 これらの内、どれかが有効なはずだ。

 だが、懸念もある。


「第五の魔法使いが故意にばらまいた病原体だとすれば、過去の研究から作った治療薬では効果が薄いかもしれない」


 より強い感染力や毒性を持った病原体がばらまかれた可能性が高いのだ。


「対策は?」

「難しいところだ」


 テディがいるのは花街の中。

 完全に孤立してしまっているので、頼れるものは過去の研究と花街の中で手に入る素材しかない。


「やっぱり、他の魔法使いに頼ってみましょう」

「なに?」


 第五の魔法使いが関わっている以上、他の認定魔法使いは頼ることができない。そう結論付けていたはずだが。


「認定魔法使い全員がこの状況に賛同しているわけじゃないわよね?」


 確かに、その通りだ。


 この疫病事件に第五の魔法使いが関わっていることは、魔法使いならなんとなく察しているだろう。

 やっていることがあまりにも悪辣なので、異を唱えようとしている者もいるかもしれない。

 しかし、大きな権力を持つ第五の魔法使いに正面から対立することも躊躇われる、という状況だろう。


「表向きは無関係を装ってもらえばいいわ。『期限の十日が来てしまえば、その後のことは見て見ぬふりをすればいい。だけど、もしも良心があるなら、ほんの少しだけでも協力してほしい』と頼んでみましょう」

「確かに、その依頼なら魔法使いに不利益はありません。とはいえ、第五の魔法使いに知られれば、報復があるかもしれない。……依頼者が必ず秘密を守るということが最低条件にはなりますね」

「それじゃあ、魔法の契約を使いましょうよ」


 エステルがポンと手を打った。

 魔法の契約とは、約束を破れば事前に取り決めた罰が下る、という契約だ。


「私が秘密を守れなければ、その時は私の両足を差し出す、という内容にするのはどう?」


 この場合の『差し出す』とは、両足を無くすことになる、という意味だ。


「それなら、あちらも安心してくれるわ。テディ、契約書を作ってくれる?」


 その条件なら、確かに交渉は可能だ。おそらく、断る魔法使いはいないだろう。だが、公爵夫人自らがするようなことではない。


「わざわざ君が身を危険にさらすのか?」

「契約相手は身分が明らかな方が安心よ。それに、私は絶対に秘密を守るんだから、別に危険はないでしょう?」

「そうだが……」


 テディはチラリと騎士の方を見た。

 騎士も何か言いたげではあったが、一つ溜息を吐いてから首を横に振った。

 その意は『何を言っても無駄でしょう』だ。


「……分かった。では、他の魔法使いから疫病に効きそうな治療薬や薬草を調達してくれ。他の素材でもかまわない。魔法薬の専門でなくても、それなりに知識はあるはずだ。とにかく何でもいいから、多くの種類を集めるんだ。そのどれか一つでも効果があれば、特効薬を作れる」


 花街の中で人体実験に近いことをすることになる。

 だが、より多くの人を救うためには、この方法しかない。


「わかった」


 方針は決まった。


「外のことは私に任せて。中のことは、頼むわよ」


 エステルの言葉に、テディは確と頷いたのだった。




 * * *




 公爵邸に戻ったエステルはクライドに相談して、第五の魔法使いとは関係の薄い魔法使い数人を厳選し、さっそく手紙を送った。騎士を使って、秘密裏に。


 手紙を送った魔法使いは、すぐさま全員が様々な治療薬や薬草を送り返してくれた。ただし、誰も契約書にサインをしなかった。


 その代わり、


『この契約は必要ありません。あなたの善意を信じます』


 そんな返信が添えられていた。

 首を傾げるエステルに、クライドは『当然だな』と言い添えた。


「どういうことですか?」

「疫病が発生してから、君は私財を投げうって支援物資を送っているだろう?」


 彼の言う通り、エステルは花街の住民のために大量の支援物資を送り続けている。


「魔法使いたちにも噂が広まっているはずだ。彼らの心を動かしたのは、君の善意だ」


 と、話しているところに執事長がやって来た。


「奥様。ダービージャー伯爵夫人から、お荷物が届きました」

「荷物?」

「花街の支援に使ってください、と。保存食が荷馬車に五台分です」


 ダービージャー伯爵夫人からの荷物を皮切りに、公爵邸には様々な貴族から多くの支援物資が届けられた。親族からは、支援物資だけでなく現金も送られてきた。


 これらの支援物資に魔法使いから集めた治療薬を紛れ込ませた。動物たちのエサも忘れずに。

 それぞれの薬の効き目は、花街の動物たちが調べてテディのもとに情報を集約する手はずになっている。


(どうか、間に合ってください)


 疫病発生から五日目の午後、エステルの祈りに見送られて、荷馬車の列が花街に向かって出発した。

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