第10話 無自覚に人を巻き込みながら前に進んでいく、そういう相だ。。
誰かが泣いている。
ああ。
これは、夢だ……。
『どうしてなのよ!』
一人の娼婦が金切り声を上げて泣いている。
その周りを囲む娼婦たちは、同情する女もいれば、呆れかえっている女もいた。
『いつかきっと身請けするから、結婚して幸せにしてあげるって、約束したのに!』
その女は、男に捨てられたのだ。
相手は、もちろん客。
よその店の娼婦に乗り換えたらしかった。
『私のこと、愛してるって言ったじゃない!』
床に突っ伏して泣き続けるその女を、みんなが様々な思いで見つめていた。
エステルもなんだか悲しい気持ちになって、じわりと涙があふれてきた。
『エステル』
声をかけてくれたのはクラリスだった。
幼いエステルの肩を優しく撫でてくれて、
『あなたまで傷つくことないのよ』
そう、慰めてくれた。
『ねえ、愛って、なに?』
思わず尋ねたエステルに、クラリスは苦笑いを浮かべた。
『幻想だよ』
『げんそう?』
『そう。間に金がなきゃ成立しない、夢まぼろし』
クラリスはそれが世界の真実だとばかりに言い切った。
だが、エステルは幼いながらに自分の住む世界が普通とは違うということを知っていた。
『外の世界も、そうなの?』
エステルの問いにクラリスがほほ笑んで、
『もちろん。売り買いしない愛なんか、この世に存在しない』
やはり、断言した。
『でも、絵本には、無償の愛があるって書いてあったよ?』
教養として様々な物語を読ませてもらった。そこには、王子様とお姫様の無償の愛が描かれていた。
『そんなものが存在するなら、あの子が捨てられることはなかった。そうでしょう?』
『……うん』
確かに、その通りだと思った。
もしも無償の愛が存在するなら、あの女の相手はどんな困難も乗り越えて彼女を迎えに来たはずだ。
『この世は、お金が全てなんだよ』
『お金さえあれば幸せになれる?』
『もちろん。金さえあれば、愛だって思うがまま。……そういうものよ』
『……そっか』
ぼんやりと覚えている。
この時、納得して頷いたエステルの顔を、クラリスが悲しげに見つめていた──。
* * *
パッと目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む優しい陽の光に、目を細める。
「……懐かしい夢」
エステルはゴロリとベッドの上を転がり、仰向けになった。
天蓋から垂れるレースのカーテンには、ユリの花の見事な刺繍が施されている。最初の頃は豪華すぎて落ち着かないベッドだと思ったが、今ではすっかり慣れた。
「愛、か……」
エステルも、もう大人だ。
この世の中に『愛』のようなものが存在することは分かっている。
クラリスや兄が自分に向けてくれる、包み込むような優しい感情、あれが『愛』だということは分かる。
だが、男と女の間には?
『愛』なんてものは存在するのだろうか。
少なくとも、エステルのように貴族同士の政略結婚で結ばれた男女の間にはないだろう。
二人の間にあるのは、契約。
そして、持参金、結納金……、つまり、金だ。
男の愛、女の愛は、お金で買って手に入れる。
それが、世界の真実なのだ。
「幸せになりたければ、旦那様の愛をお金で買わなくちゃ」
エステルは、自分に言い聞かせた。
「……私なんかにできることは、それだけよ」
そして、パチンと両手で頬を叩いた。
ぼんやりとしていた意識がはっきりしてくる。
今日も新しい商品の開発のために、魔法使いのテディと会う約束をしている。
感傷に浸っている暇など、ないのだ。
* * *
あの日、テディは空からやってきて空に向かって帰って行った。
どこに住んでいるのかと尋ねても結局答えてくれず、それじゃあ手紙も送れないと訴えたら、
「そのあたりの猫にでも伝言を頼め」
と言われた。
仕方がないので、エステルは言われた通り、公爵邸の庭園を縄張りにしている三毛猫に伝言を頼んだ。
「三日後の午後三時に訪ねて来てください」
と。
メイドたちに微妙な視線を向けられて、いたたまれなかった。
(本当に大丈夫かしら?)
不安だったが、約束の日時を寸分も違えず、テディはやって来た。……今回も、空から。
「門から入ってきてほしいのだけど」
今日も騎士たちに囲まれてしまった美麗な魔法使い苦言を呈する。
「馬鹿を言うな。私が公爵家に出入りしていると噂にでもなったらどうする」
「困るの?」
「私は特に困らないが、あなたが困るだろう」
「私?」
「人妻が度々男を呼び出すなど……」
なるほど、真面目な彼はエステルの世間体を気にしてくれたらしい。
「気にしなくていいのよ。もうすでに私の評判は地の底だから」
エステルがあっけらかんと言うと、騎士たちが頭を抱えた。
「だって、そうでしょう?」
もちろん、誰も否定などできない。騎士たちは一様に口を噤んだ。
「今日はどこで話そうかしら?」
「私はどこでも構わない」
「それじゃあ、応接間に……」
と言ったところで、一人の騎士がずいっと前に出た。
「屋内は、ダメです」
「どうして?」
「二人きりになられるのだけは、避けていただきたい」
つまり、騎士たちは二人の監視を続けたいので、応接間のような密室は避けろと言いたいらしい。
「……まさか、いつもそうやって見張ってるの?」
「……」
騎士は答えなかった。
先日の一件からうすうす気づいていたが、どうやらエステルは常に彼らに監視されているらしい。
そうでもなければ、テディが初めてやって来た日に瞬時に騎士たちが現れたことにも、クライドがすぐさま駆け付けたことにも説明がつかない。
「まさか、私がイアンと話している内容も、ぜんぶ聞いていたの?」
「いえ、会話の内容までは」
慌てて答えた騎士が、しまったとばかりに口を噤んだ。これでは白状したのと同じだ。
エステルの指摘通り、彼らは常にエステルを見張っている。ただし、会話の内容までは聞こえないように配慮はしている、ということらしい。
ということは、クライドに『夫の愛を買うために商売している』という目的までは知られていないと考えていいだろう。イアンも秘密にしてくれると約束していたし、そこは信用してもよさそうだ。
「はあ」
エステルは深いため息を吐いた。
(放っておいてくれればいいのに)
夫は、妻がおかしなことをしないか心配なようだ。
「それじゃあ、温室で話しましょう」
季節はまもなく夏。
今日は庭で話すには少し日差しが強い。
「お茶の準備をお願い」
庭園の端で様子を見ていたメイドに言うと、メイドたちがあわてて動き出した。
誰が持っていくかと話し合う声が遠ざかっていく。彼女らは、この美麗な魔法使いに夢中のようだ。
二人が温室に向かって移動を始めると騎士たちも解散し、その気配が消えた。今もどこかでエステルの様子を見ているはずだが。
(騎士と言うより、隠密?)
さすが公爵家、優秀な人材が集まっているようだとエステルは感心した。
「……あなたは変わっているな」
「え?」
「評判は地の底だと言っていたが、本当にそうか?」
「どうしてそう思うの?」
「あの騎士たちもメイドも、あなたのことを侮っているようには見えなかった」
確かに、そうかもしれないと思った。
例のメイドをとっちめた事件以後、メイドや執事たちがエステルを馬鹿にするようなことはなくなった。かといって、親しくなったというわけでもないが。
「……あなたは、そのままがいい」
「え?」
ふと、テディが足を止めた。
「無自覚に人を巻き込みながら前に進んでいく。そういう相だ」
初夏の風に白金の髪を揺らしながら、虹色の瞳で見つめられる。
すこし気恥ずかしくて、エステルはぷいっと目をそらした。
「魔法使いって占いもするの?」
「まあ、それなりに」
「へぇ」
話しながら、二人は再び温室に向かってぽつぽつと歩いた。
* * *
その日の夜。
エステルはクライドの夕食に突撃した。
週に一度は突撃、もとい、同席するようにしているのだ。
最初の日のように会話をすることはほとんどなく、エステルが話す適当な雑談にクライドが時々頷き返すだけだが。
何もしないよりはましだろうと、エステルは思っている。
取引相手として、信頼してもらえるようにコミュニケーションをとらなければ。
「……あの魔法使いのことだが」
珍しく、クライドの方から口を開いた。
「信用できるのか?」
その問いに、エステルは眉を寄せた。
「分かりません」
正直、分からない。
なぜなら、彼について知っていることがほとんどないから。
「ですが、私にとっては必要な人です」
商売を成功させるためには、彼と協力関係を結ぶことは必要不可欠なことだ。
この答えに、クライドは少し考えた後、頷いた。
「分かった」
再び沈黙が落ちる。
「……怒らないんですか?」
思わず、疑問が口を衝いて出てしまった。
彼にとっては、身元不明の謎の人物が屋敷に出入りしている、少しばかり気に食わない状況のはずだが。
「心配はしている」
クライドがポツリと言った。
「心配、ですか?」
「君が悪い人間に騙されないか、と」
「はあ」
まさか、そんなことを心配されているとは思いもしなかった。
(むしろ、悪い人間に騙されそうなのはあなたの方だけど?)
などは思っても口にはしない。
「だが、君の行動を制限するつもりはない」
確かに、あの騎士たちはエステルを守りはしても行動を制限はしていない。
「君は君のやりたいようにすればいい」
まさか、これは。
エステルはゴクリと息を呑んだ。
(チャンス、なのでは……?)
なんだかよく分からないが、彼は今、エステルに『やりたいようにすればいい』と言った。確かに言った。
それなら、商売をすることを許してくれるかもしれない。
「……それじゃあ、私が商売をしたいと言っても?」
おずおずと尋ねると、クライドはまた少し考え込んでから、
「ああ」
小さく頷いた。
複雑な気持ちはあるのだろう。だが、確かに彼は頷いた。
「ありがとうございます!」
思わず大きな声で言いながら、エステルは喜びをあらわに飛び上がった。
「よかった! これで堂々といろんなことができます!」
コソコソしていてはできないことがたくさんあった。それも、今日までだ。
「イアンに知らせなきゃ!」
それを聞いたクライドの眉がピクリと動いた。
「テディにも!」
また、クライドの眉がピクリと動く。
「その二人は……」
「私の商売を手伝ってくれてるんです!」
「……そうか」
だが、この二人だけではだめだ。
「あなたも、手伝っていただけますか?」
急に水を向けられて、クライドが大きく目を見開いた。
「私が?」
「そうです!」
エステルは席を立ってクライドの側に寄った。そして、目を見開いたまま固まっているクライドの手をとった。
「私と一緒に、舞踏会に行っていただけませんか?」
自分の手をとって、まるで貴公子のような振る舞いで怪しげにほほ笑むエステルに、クライドは顔を真っ赤にして固まったのだった──。
第2章へ……つづく!
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