第9話 夫婦喧嘩なら後にしてくれ、時間が惜しい。
空から人が舞い降りてきた。
そんなあり得ない現象に、エステルもイアンも驚きに目と口を開いたまま動けなくなった。
漆黒のローブに身を包んだ、不思議な雰囲気の人だ。フードを目深に被っているので顔は見えず、性別すら判別できない。
その人はゆったりとした仕草で、ふわりと舞う風と共にバラ園の中に降り立った。
突然のことに身動きが取れないエステルとイアンの代わりに動いたのは、公爵家の騎士たちだった。
どこからともなく湧いてきた十数人の騎士が、その人物をあっという間に取り囲む。
さらに数人の騎士がエステルの前で壁になった。
「お下がりください、奥様」
「え、え、なに?」
騎士たちの壁によって何も見えなくなり、エステルはさらに戸惑った。イアンは早々に壁の外に押し出されている。
「何者だ!」
壁の向こうで、鋭い声が飛んだ。
クライドの声だ。
彼は今日も執務室で仕事をしているはずで、その執務室は本館の二階の東端。こんな場所にいるはずがないのに。
まさか、この異常事態に駆け付けた、とでもいうのか。こんなに早く。
「……そちらの奥様に話がある」
次に聞こえたのは、男の声だった。声量は小さいのに、よく通る不思議な声だ。まるで、直接鼓膜を揺らされているような感覚に、ゾクリと背筋に寒気が走った。
「まずは名を名乗れ、無礼者!」
ローブの男は答えなかった。
代わりに、不穏な空気が立ち上る。
「呼び出されたのはこちらなのに?」
この言葉に、エステルはハッとした。
彼が誰なのか、何をしにここに来たのか、ようやく気づいたのだ。
(忘れてた!)
彼はエステルの客人。
あのハンドクリームと魅惑の香水を製作した魔法使いだ。
「あの!」
エステルは騎士の壁の後ろから声を張り上げた。
「私のお客さんでしたー! 申し訳ありませーん!」
その言葉に騎士たちが顔を見合わせる。
ようやく騎士の壁に隙間ができたので、エステルはそこに身体をねじ込んで何とか前に出た。
途端、ローブの男と目が合う。
虹色の瞳が、じろりとエステルを睨みつけた。
が、それも一瞬のことで。
すぐにクライドの大きな身体が間に割り込んできて、またしてもローブの男の姿が見えなくなる。
「どういうことだ」
クライドの質問に、エステルの肩がビクリと跳ねる。
「えっと……」
なんと説明したものか。
エステルはうろうろと視線をさまよわせた。
「彼は、魔法使いです」
こんな状況なので、さすがにそれは分かっていると思うが。
「是非お会いしたいので訪ねて来てほしいと、お願いしました」
といっても、普通に手紙を送ったわけではない。
彼がどこに住んでいるのか分からないし、そもそも名前すら知らなかったのだから。
花街で不思議な製品をひっそりと売っている、もぐりの魔法使い。
その正体は誰も知らない、謎の人物。
長く花街で暮らす女将やクラリスですら、『花街のどこかを根城にしているらしい、ということしか分からない』と言っていた。
そこで、エステルは一計を案じた。
魅惑の香水を混ぜたハンドクリームを、花街でも流通させたのだ。
そのラベルには、赤いバラとユリの花の絵を添えて。
赤いバラはグレシャム公爵家の、ユリの花はピアソン伯爵家の紋章に使われている。
勘の良い人なら、きっとエステルとの関係に気づくだろう。そして、そのヒントを残した意味、つまり『私を訪ねてこい』というメッセージも、きっと伝わると考えたのだ。
彼は、そのメッセージを受けてやって来たのだ。
(なんて、詳しく説明するわけにもいかないわよねぇ)
詳細を語ればクライドに商売のことを打ち明けることになるし、そもそも、なぜ商売をするのかということも話さなければならなくなる。
『あなたの愛を買うためです!』
などと、面と向かって言えるはずがない。
むむむ、と唸りながら考え込むエステルの顔を、クライドがじっと見つめている。
その隣では、イアンが『面白い!』と言わんばかりのニヤニヤ顔で二人の様子を観察しているのが見えた。どうやら、助けてくれるつもりはないらしい。
そんな中、助け舟を出してくれたのは意外な人物だった。
「……夫婦喧嘩なら後にしてくれ」
魔法使いだ。
「時間が惜しい」
と、低い声で唸った。
表情ははっきりとは見えないが、苛立っていることだけは分かる。
エステルはこれ幸いとばかりに、クライドの視線を逃れて魔法使いに駆け寄った。
「そうですよね! 時間がもったいない、まさに、それ!」
適当なことを言いながら、魔法使いの背をグイグイと押す。
だが、
「待て」
クライドに引き留められた。当然と言えば当然だ。公爵家の屋敷に無断で入ってきた人物を、お咎めなしとはいかない。
だが、エステルもここで引くわけにはいかない。
両手を腰にあてて、クライドを睨みつけた。
「私の! 客人です!」
面と向かって突っかかられて、クライドがウッと言葉を詰まらせる。
「公爵夫人である私がお呼びした客人です。もちろん、歓迎してくださいますよね?」
破れかぶれだ。
もう、この理屈で押し通すしかない。
ややあって、クライドが深いため息を吐いた。
そして、騎士たちに軽く手を振って解散を促す。騎士たちは軽く頭を下げてから、三々五々、去って行った。
一人残ったクライドはまだ何か言いたげではあったが、結局何も言わず、踵を返したのだった。
* * *
「貴様、どういうつもりだ」
庭園の中央のガゼボで二人きりになった途端、魔法使いが厳しい声でエステルを叱りつけた。
ちなみに、イアンには席を外してもらった。魔法使いに警戒されないためだ。
「申し訳ありません」
エステルは素直に謝った。
彼が何に怒っているのか、もちろん分かっているからだ。
「あなたの製品を勝手に使って……」
演技がかった表情でしおしおと肩を落としてみせると、魔法使いの気配が揺れた。
「いや、その、そういうことではなく……」
と、急にどもりはじめる。
どうやら彼は、女性の扱いには慣れていないらしい。
これはチャンスだ。
エステルは、早々に
「これには事情があって」
「事情?」
「先ほどの、私の夫が……」
「あの黒髪の男か」
「はい。……彼は、私のことをこれっぽっちも愛してくれないんです」
「なに?」
ほろり、涙をこぼしてみせると、今度は魔法使いが前のめりになった。
(……大丈夫なの?)
少し心配になる程、チョロい。
だが、エステルの方もこのチャンスを逃す気はない。一気に畳みかける。
「それで、私、離婚されるかもしれなくて。実家はそれほど裕福ではないので、出戻った時のためにお金を稼ぐ必要があるんです」
「バカな! グレシャム公爵は結婚したばかりだと聞いたぞ! 新婚だろう!」
「そうなんですけど、ね……」
今度は渾身の憂い顔で目を伏せた。
「そうか……」
しんみりとした空気が流れた。
魔法使いはエステルの演技にすっかり騙されている。
内心では、この可哀そうな公爵夫人を助けてやろうか、どうしようか、と考えているに違いない。
魔法使いはうーんと唸りながら考えた後、懐からあるものを取り出した。
あのハンドクリームだ。
ふたを開けると、あの魅惑の香りがほのかに漂う。
「あら?」
エステルは、その違いにすぐに気づいた。
「分かるか?」
「もちろん。香りの調合が少し違いますね」
「あの香りは香水用だ。ハンドクリームに混ぜるために新しく調合し直した」
言いながら、魔法使いがフードを脱いだ。
肩までの長さで真っすぐ切りそろえた、美しい白金の髪がさらりと揺れる。前髪もまっすぐに切りそろえられていて、彼の実直な性格とよく合っている。
前髪の下からのぞく虹色の瞳が、エステルの方をじっと見つめた。
「私の名はテディ・デンプシー。……やるなら、完璧な商品を出してくれ」
エステルは心の中で拳を握りしめた。
(やったわ!)
騙したような形ではあるが、魔法使いの協力を取り付けることに成功したのだ。
(嘘は言ってないもんね!)
そう、嘘は言っていない。
だが、彼の実直さを、この時の彼女は少しばかり甘く見ていた。
それを思い知るのは、まだまだ先のことだ。
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