第2章 美しくなりたい? それなら、私に任せなさい!
第11話 彼女を縛り付けるつもりはない。
鏡のように磨き上げられた床板、キラキラと輝くシャンデリア、華やかな管弦楽の調べ、フロアを舞い踊る色鮮やかなドレス、貴婦人たちの軽やかな笑い声……。
その美しさに心が躍る、舞踏会。
……だというのに。
「どうして、そんな仏頂面なんですか」
唇を尖らせて言ったエステルに、クライドは眉間の皺を深くしただけで何も答えなかった。
「せっかくの舞踏会なのに」
小さくぼやいたエステルに、やはりクライドは何も言わず、口を閉ざしたまま彼女をエスコートして会場の中へ進んだ。
そんな二人に、羨望の眼差しが向けられる。
(ま、滑り出しは好調。むしろ完璧)
エステルは心の中でほくそ笑んだ。
(この調子で、稼ぎまくるわよ!)
* * *
夫の許しを得たエステルが最初にしたことは、商会を立ち上げることだった。
貴婦人たちから寄せられる大量の注文をさばくためには人を雇わなければならないし、販路の確保や在庫の管理など、きちんと管理できる体制を整えなければならないからだ。
商会の名は、リリー・ホワイト商会。
キャッチコピーは、『ユリのように白い肌を』だ。
そして、商会長にはイアンを任命した。
侯爵家の嫡男ということで、間違いなく信用に足る人物だ。十分すぎると言ってもいい。
「そんな贅沢な人事、やっちゃう?」
と、イアンは笑いながらも引き受けてくれた。
「あなたには協力の見返りも渡さなければならないし、ちょうどいいでしょう?」
商会長の席をイアンに渡してエステルとの共同出資という形にすれば、利益の何割かは彼のものになる。
「見返りなんか、別にいいんだけどね」
そういうわけにもいかない。
もしも彼が無償でエステルに協力していることが知られれば、二人の関係を勘ぐられてしまう。
そういう意味でも、二人の間の利害関係を明確にしておく必要があったのだ。
「ま、精一杯務めさせてもらいますよ」
軽く肩を竦めたイアンだったが、その手腕は確かだった。
彼はまず、あのハンドクリームの仕掛け人がエステルだったという噂を流した。
噂は瞬く間に社交界を駆け抜け、エステルは一躍、時の人となったのだ。
* * *
そのエステルが、結婚後初めて社交界にやってきたのだから、注目が集まるのは当然のことだった。
「公爵閣下、夫人、ようこそいらっしゃいました!」
舞踏会の主催者である、とある伯爵夫人が満面の笑みで二人を出迎える。
噂の人を招待できたとあって、少し興奮気味だ。
「ご招待いただき、ありがとうございます」
エステルは仏頂面で黙ったままの夫に代わって、にこやかに挨拶した。
「楽しんでくださいね」
「ありがとうございます」
伯爵夫人との挨拶は早々に切り上げて、エステルは夫を促してさっそくフロアの中心に向かった。
舞踏会に来たのだから、まずは一曲踊らなければ。
ところが。
夫の足がピタリと止まったまま動かなくなってしまった。
「……旦那様?」
怪訝な表情で夫の顔を見上げると、彼の眉間のしわがさらに深くなっていた。
「どうしたんですか?」
「……」
「行きましょう」
「……」
何も言わない夫に、エステルはだんだんイライラしてきた。
「そんなに私と踊るのがイヤですか?」
この問いに、クライドはうっと息を詰まらせた。
「そういうわけではない」
「それじゃあ、どういうわけなんですか?」
「……」
やはり、まともな回答は得られない。
エステルは早々に匙を投げることにした。
「分かりました。では、ここからは別行動で」
エステルはクライドの腕からパッと手を離した。
彼女はすぐさまクルリと踵を返してしまったので、彼の腕が名残惜しそうに彼女の身体を追いかけたことには気づいていない。
「どうせ今日も騎士が見張りをしているのでしょう? 帰りは彼らに送ってもらいますから、あなたは先に帰っていただいても結構ですよ。では、失礼いたします」
エステルはツンと唇を尖らせて嫌味っぽく言い募り、さっさとその場を後にした。
(入場まではエスコートしてもらえたし、これで良しとしましょう)
クライドを舞踏会に誘ったのは、貴族の体裁とやらを整えるためだけだったのだから。
エステルは結婚後、一度も社交界に出ていなかった。というのも、クライドが誘ってくれなかったからだ。
貴族の女性は結婚後、夫にエスコートされて社交界に出る。そうして初めて、『令嬢』ではなく『夫人』として認められるのだ。
その段階を飛ばして、一人で社交界に出るわけにはいかなかった。
(大方、私のことを公爵夫人として紹介するのが恥ずかしかったんでしょうね)
もしくは、必要がないと考えたか。
彼は王家との婚姻を避ける、いわば弾除けとしてエステルと結婚したのだ。適当なタイミングで離婚するつもりのようだし、わざわざエステルを社交界に連れて行く必要もないと思っていたのだろう。
だが、商売を成功させるためには、社交界に出て行かなければならない。公爵夫人という肩書を存分に使い、口コミを広げることが一番の宣伝なのだから。
そこで、エステルの方から誘って今夜の舞踏会に出席したというわけだ。
(あとは好きにさせてもらいますからねっ!)
エステルは気を取り直して、フロアに目をやった。あちこちから視線が集まる。
憧れ、妬み、嫉み、呆れ、好悪……。
様々な感情が渦巻く社交界。
ここは、戦場だ。
(さあ、やるわよ!)
自らの幸せを手に入れるために、エステルは一歩を踏み出した。
* * *
「あーあ、行っちゃったね」
去って行くエステルの背中を切ない気持ちで見送っていたクライドに声をかけたのは、旧知の友人、イアンだった。
「いいの?」
イアンの問いに、クライドはため息で答えた。
そして、
「いいも悪いもない。……彼女を縛り付けるつもりは、ない」
ボソリとこぼした。
そのセリフに、イアンはげんなりした。
「舞踏会で踊るかどうかが、そんなに深刻な問題?」
クライドは答えず、ふいっと視線を逸らしてしまった。
どうも彼には、エステルに関することをことごとく重く受け止めてしまうクセがあるようだ。
舞踏会では夫や妻以外の誰かと踊ったり、見知らぬ異性と踊ったりすることが当たり前で、そこに深い意味を見出すような貴族はいない。
彼がエステルと踊ったところで、夫婦なのだから当たり前のことだし、深い意味など一つもないのだ。
「こじらせてるねぇ」
クスクスと笑うイアンを横目に、クライドはさっさと壁際に移動してしまった。イアンもそれについていき、道中で適当に手にとった酒を彼に渡す。
二人は適当に酒を飲みながら、適当にフロアを眺めた。
何人かの令嬢が二人の存在に気づいてチラチラとこちらを見ている。
イアンがそれに応えて手を振ると、令嬢たちがきゃあと声を上げて喜んだ。
「踊らないのか?」
今度はクライドがイアンに問いかけた。
「いつもなら、女性をとっかえひっかえ遊び回るだろう?」
「酷い言いぐさだね。舞踏会なんだから、それが普通だよ」
「いや、お前の場合はその後に……」
気に入った女性を密室に連れ込むだろう、とは、さすがのクライドも口には出さなかった。
確かに、これまでの彼だったら。
舞踏会で出会った適当な令嬢や婦人と火遊びに興じていただろう。
だが、今の彼はもっと面白いものを見つけてしまったのだ。
「じゃあ、踊ってこようかな」
イアンは、フロアの向こうに目を向けた。
そこには、貴婦人たちに囲まれて、にこやかに話すエステルがいる。
「エステルを誘うよ」
クライドの眉が、ピクリと動く。
それを見て、イアンはニヤリと口角を上げた。
イアンは今、このおかしな夫婦で遊ぶことに夢中なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます