第6話 さすが色ボケ侯爵の息子……天性の遊び人だわ。


「クライド! 早かったな!」


 イアンは爽やかな笑顔を浮かべて、帰ってきた家主に手を振った。ただし、その家主の妻、エステルの手を握ったまま。


 相変わらずクライドは感情の見えない表情で、二人の様子を凝視している。


 なんとなく気まずさを覚えたエステルは、思わず手を引こうとした。

 ところが、イアンの方は全く離すつもりがないらしく、さらに力を込めた。


「あの……」


 小声で苦情を言おうとしたエステルに、イアンはニヤリと笑ってから彼女の腕を強く引いた。二人の顔が近づいて、イアンがエステルの耳元に顔を寄せる格好になる。


「見てよ、あいつの顔。最高に面白くない?」


 と、言われても。


 エステルにはクライドの顔は無表情に見えている。まったく目を離す様子がないことから、二人のことが気になっているようだということは辛うじて分かる、という程度だ。


 彼の言う『面白い』がエステルには全く分からない。

 エステルが首を傾げると、それを見たイアンがにんまりと笑った。


「なるほど、なるほど」


 一つ二つ頷いてから、イアンはエステルからパッと身体を離した。


「ごめん、ごめん」


 そして、軽く笑って今度はクライドの肩を軽くたたいた。


(お友達、なのかしら?)


 エステルは初めて会う人物だが、彼がクライドとは親しい間柄であることは明らかだ。公爵家の当主を名前ファーストネームで呼び捨てにできる人は、片手の指で足りるほどしかいないだろう。


「……彼は友人だ」

「そう。僕ら、親友なんだ!」


 と、イアンはクライドの肩を組んだ。クライドの方は少し嫌そうだ。


「高等学院の同級生だよ。といってもクライドは首席で卒業したエリートで、俺は落ちこぼれだったけど」

「普段の素行が悪かったからだ」

「そうなんだよねぇ。僕、頭は悪くないんだけど、素行が悪い上に侯爵家の婚外子だったから、なかなか評価が上がらなくて」


 ここまで聞いて、ようやくエステルも彼の素性に思い至った。


(オリオーダン、って、あの色ボケ侯爵か!)


 エステルは心の中でポンと一つ手を打った。


 イアンの父である現オリオーダン侯爵は、花街の常連客だ。娼婦たちの間では『色ボケ侯爵』と呼ばれるほど。

 エステルが下働きをしていた娼館にも、馴染なじみの娼婦がいた。


 その侯爵が、仕事で外国に赴いた際に現地の貴婦人との間に作った子ども、それがイアンだ。


 長らくその存在は隠されていたが、十五歳になった年、イアンはオリオーダン侯爵家の嫡男として社交界にデビューした。侯爵の正妻が男子を産むことができなかったので、外国で養育されていたイアンを嫡男として引き取ることになったのだ。


 当時は侯爵の大醜聞として社交界だけでなく平民の間でも噂になった。もちろん、花街でも。


 そんな生い立ちを持つ彼と、堅物を絵にかいたような男であるクライドが友人だというのは、エステルにとっては青天の霹靂だった。


「それで、今日は何の用だ?」

「そりゃあ、君が結婚式に呼んでくれなかったから!」

「母上のところに帰省していただろう」

「それだよ! どうして僕が首都にいない間に結婚式やっちゃったのさ!」

「……」

「黙るなよぉ」

「……」

「なんか言えよぉ」


 微妙にかみ合っていないようでかみ合っている、そんなやりとりに、エステルは思わず吹き出してしまった。


「あ、笑った」


 エステルの笑顔を見て嬉しそうな声を上げたのはイアンだった。


「かわいいね」


 と、恥ずかしげもなく言う。


(さ、さすが色ボケ侯爵の息子……)


 イアンの顔を鬼の形相で睨みつけるクライドの様子には一切気づかず、エステルはイアンの態度に感心した。


(天性の遊び人だわ)


 そこで、エステルの頭に、ピンと名案が浮かんだ。


(この人が味方になってくれれば、百人力なのでは!?)


 クライドの親友で、彼について熟知している。さらに、侯爵家という高位貴族の次期当主なので社交界の事情にも明るいだろう。さらに言えば、外国育ちで遊び人なので、男女の事情にも詳しい。


 まさに、エステルにとって必要な条件をすべて満たしている人材だ。


(そうと決まれば……!)


 エステルは、イアンに向かってにこりとほほ笑んだ。


「では、イアン様は私に会いに来てくださったのですね?」

「ええ、そうです。こいつがなかなか紹介してくれないので、招待されてもいないのに来てしまいました」

「それは、気が付かず申し訳ありませんでした」


 エステルはイアンに対して軽く膝を折った。次いで、クライドの方にクルリと向き直る。


「では、私たちは二人でお話してきますので」


 この発言に、玄関ホールに緊張が走った。

 輿入れしてきたばかりの新妻が他の男性と二人きりになるなど、あまり褒められたことではない。


 だが、一刻も早く彼と二人きりにならなければ。


「庭にお茶の準備をしてちょうだい」


 命じられた執事は額からダラダラと汗を流しながら、エステルとクライドの顔を交互に見た。


「……」


 クライドは沈黙したまま、ふいっと視線をそらしてしまった。

 そのまま玄関ホールから去って行くクライドを、エステルは怪訝な表情で、イアンは呆れた表情で見送ったのだった。




 * * *




 エステルの話を聞いたイアンは、腹を抱えて笑い転げた。


「そ、そんなにおかしいですか?」


 真っ赤な顔で言うエステルに、さらに笑い声を上げる。


「いや、うん、君じゃない。君じゃなくて、そう、あ、あいつが……っ!」


 と、また訳の分からないことを繰り返すイアンが笑いを収めるまで、エステルは小一時間ほど待たなければならなかった。


「……」

「ごめんね。もう、落ち着いた」


 イアンは温くなってしまった紅茶を一気に飲み干した。


「事情はわかった。

 そうだね、クライドの愛を買えるかどうかは置いといて、君が彼と対等になるためにお金を稼ぎたいっていう気持ちは、とても分かるよ」


 理解を示してくれたイアンに、エステルはホッと胸をなでおろした。笑われた時にはどうしようかと思ったが。


(というか、理解できるって言うなら笑わなくてもいいじゃない! 失礼な男ね!)


 エステルは気恥ずかしさとちょっとした怒りで赤くなった頬をごまかすように、焼き菓子を口に放り込んだ。

 公爵家のシェフが作るマドレーヌは絶品だ。


「でも、君の言う通り、『公爵夫人が商売なんて』ってクライドは言うだろうねぇ」

「そこが問題なのよ」


 エステルはマドレーヌをもぐもぐ食べながら答えた。

 彼女は既に、この失礼な男に敬語を使うのをやめた。もともと気安く接してきたのは彼の方なのだから問題ないだろう、という気持ちもある。


 イアンの方もエステルが気安い口調で話したことなど気にもせず、「それっぽい理由かぁ」とあごに手を当てて考え込んだ。


 ややあって、


「そうだ!」


 ぽんと手を叩いた。


「先に売り物を作っちゃえばいいんじゃない?」

「え?」

「口コミで広げちゃってさ、君が商売をしなきゃいけない理由を、外堀から埋めていくんだよ」


 商品を無料で配り、貴婦人たちに『これを買わせてくれ!』と声を上げさせる、ということだ。それならば、『商売をしなければならない』という理由が立たないこともない。


「なるほど!」


 名案だ。


「それで行きましょう!」


 エステルは即決した。

 だが、提案者であるイアンは懐疑的な表情だ。


「でもさ、君、みんながこぞって買いたがるような商品のアテがあるの?」


 彼の疑問はもっともだ。

 だが、この件については、準備万端整っていた。


「これよ!」


 と、自信満々に彼女が取り出したのは、小さな丸い缶だった。ふたを開けると、乳白色のクリームが入っている。


「これは?」


 イアンはそれが何なのか分からなかったらしい。

 その様子に、エステルはにんまりと笑った。


「女子の必携、ハンドクリームよ!」


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