第5話 これは、彼女が望む結婚だったのだろうか?


 はちみつ色の瞳が、目の前にあった。


 慌てて視線を逸らそうとしたが、今度はガウンの隙間からのぞく素肌が、腕にからみつく細い指が、ほんのり色づく唇が視界に入って。


 クライドは思い出してしまった。


 新婚初夜、初めてエステルに触れた、あの夜のことを。


 頭の中に浮かんでしまった映像を振り払うように、クライドはエステルの身体の上からどいた。ネコのような俊敏さで。


 エステルは大きな瞳をさらに大きく見開いて固まっている。


 半ば無理やり結婚させられた男に押し倒されたのだから、そんな反応になるのは当然だ。

 だが、クライドにはそんな彼女をフォローするような余裕はなかった。


 一刻も早くこの場を離れて彼女を視界の外に追いやらなければ。また余計なことを思い出してしまう。


「退職金なら、私が払う」

「え、でも……」

「以上だ」


 クライドは、これ以上彼女のことを見てしまわないように、無表情を取り繕って足早に立ち去ることしかできなかった。




 自室に戻って、彼はすぐに上着を脱ぎ捨てた。

 そして、おもむろに絨毯の床でうつ伏せになり、


 腕立て伏せを始めた。


 そうでもしなければ、余計なことを考えてしまうから。


 百回を超えた頃、汗が流れ始めた。

 ぽたぽたと落ちる汗を拭うこともせず、腕立て伏せに没頭する。


 汗で滲む視界の向こう、初めて彼女に出会った日のことが、ぼんやりと思い浮かんだ。




 * * *




 その日、クライドは慣れない人混みにのまれて迷子になっていた。

 九歳になったばかりの彼は街に出るのは初めてで、物珍しさにきょろきょろしていて執事を見失ってしまったのだ。


 そんな彼を救ってくれたのが、彼女だった。


『だいじょーぶ?』


 年下の、小さな女の子だった。

 野菜の詰まった大きなかごを手に持っていたので、お使いの途中だったのだろう。


 艶やかな金髪と、はちみつ色の瞳が印象的なかわいらしい女の子だった。

 彼女は不安げな表情を浮かべるクライドの手を握って、一緒に執事を探し回ってくれた。


『ありがとう』


 礼を言うと、生意気な笑顔を浮かべて、


『つぎ来るときは、きをつけるのよ!』


 と、彼女は言った。

 嬉しかった。

 また、会いたいと思った。


 だが、彼女と再会を果たしたのは、それから十三年後、今から約一か月前のことだった。




『おととい来やがれ、ですわ。この、クズ男』




 小さな女の子だった彼女は立派な淑女に……強くてたくましい女性に成長していた。


 あの婚約破棄の場に居合わせることができたのは、奇跡だった。


 すぐさま彼女の事情を調べ上げ、兄上に求婚状を送り、同時進行で国王に結婚許可を申請した。王女との結婚の話もあったが、そんなものは関係ない。


 すぐにでも、彼女と結婚したかった。


 だが、結婚式の日。

 彼は、はたと気が付いた。


『これは、彼女が望む結婚だったのだろうか?』


 と。


 公爵家からの求婚を彼女の実家は断ることなどできなかっただろう。しかも、早々に国王の結婚許可までとってしまった。


 エステルにとっては、無理やり結婚させられた相手、それがクライドだ。


 もちろん、彼女に直接聞いたわけではない。

 だが、確認する勇気も出なかった。

 結婚式の間も、彼女の表情を見るのが怖くて、目を合わせることもできなかった。


 そして迎えた、新婚初夜。


 使用人たちの手前、この日だけは朝までエステルと一緒に過ごさなければならない。

 もしも初夜を共に過ごさなければ世間的に責められるのは女性であるエステルの方で、下手をすれば社交界で酷い風評を流されることになってしまう。


『とにかく何もせずに、形式的に、朝まで共に過ごすだけ』


 そう決めて、クライドは彼女の部屋に入って真っすぐベッドに向かった。彼女からできるだけ距離をとるためにベッドの端に寄り、さらに彼女に背を向けて横になったのは当然の配慮だった。


 だが、そんな配慮は無駄だった。


 ベッドに入ってしばらくして、彼女の手がクライドの肩に触れたのだ。驚いて振り返れば、わずかな明かりを反射する頬が赤く染まっているのが見て取れた。

 しかもその瞳がうるうると潤んでいて。

 まさか泣き出すのかと思ってぎょっとした。


 だが、そうではなかった。


 エステルの様子が何かおかしい。真っ赤な顔で瞳を潤ませながら、頭がグラングラン揺れていたのだ。


 どうしたことかと首を傾げながら部屋の中に視線を巡らせれば、テーブルの上にワインボトルとグラスが置いてあった。ボトルはほとんど空で、グラスも空。

 彼女は、寝酒として用意されていたワインを、一人で飲み干してしまったのだ。


 つまり、完全な酩酊状態だった。


 それに気づいたクライドは呆れて深いため息を吐いた。


(この酔っ払いを早く寝かしつけなければ)


 そんなことを考えていると、


「旦那様……」


 かすれた声で呟きながら、エステルがクライドに圧し掛かってきた。クライドは驚きのあまりギシリと身体が固まってしまい、避けることができなかった。


 彼女の柔らかい胸が、クライドの武骨で固い胸板に押し付けられる。そして、彼女の唇が、徐々に近づいてきて……。


 クライドは、もうどうしようもなくなって、ぎゅっと目を閉じてその時を待つことしかできなかった。


 ところが。


「すぅ」


 次に聞こえてきたのは、エステルの穏やかな寝息だった。

 彼女はクライドの胸元を枕にして、早々に寝入ってしまったのだ。


 クライドは頭を抱えた。

 その夜、彼が一睡もできなかったことは言うまでもないだろう。




 * * *




 ──ゴツン!


 クライドは、邪念を振り払うために床に額を叩きつけた。といっても絨毯なので、けがをするようなことはない。


 ただただ、痛い。


『だ、抱かれたのは、……旦那様だけよ』


 今日、エステルはそう言っていた。

 彼女は酔っていて初夜の晩のことをはっきりと覚えておらず、クライドに抱かれたと勘違いしているのだ。まさかそんな勘違いが起こっているとは露ほども思っていなかったので驚いた。


(だが、もしも彼女が酔っていなかったら……)


 ──ゴンッ! ゴンッ!


 クライドは、さらに額を床に打ち付けた。


(彼女を抱いていたかもしれない)


 そんなことは、絶対にあってはならないのに。


 ふわり、頭を打ちすぎてぼんやりする視界の向こうで、幼いエステルがクライドに手を差し伸べている。


(……彼女を愛している)


 だが、彼女をそういう対象にしてはいけない。

 そもそも自分が彼女と結婚したこと自体が、間違いだったのだ。


 クライドはゴロリと絨毯の上を転がり、天井を仰いだ。


(……いつか、彼女に相応しい男が現れる)


 そして、彼女自身が選んだ本当に愛する男と、幸せになるべきだ。


(彼女は、この世で最も幸せになるべき女性だ。彼女に触れてはいけない。特別な感情を抱いてはいけない)


 クライドは、自分に言い聞かせた。




 * * *




 翌朝、自室で朝食を済ませたエステルは、クライドの部屋を目指して屋敷の中を闊歩していた。

 昨日の彼の態度について文句を言うためだ。


(気に入らないわ! 自分から訪ねて来たくせに、あの態度!)


 冷静に対応して、商売相手として信頼を得る。

 昨日まではそう思っていたのに。


 昨夜のベッドの上での一件を思い出して、エステルの頬が熱くなった。


 彼のせいで、気持ちがめちゃくちゃだ。

 その点についても文句を言わなければ気が済まない。


 しばらく進むと、執事に道をふさがれてしまった。その向こうには玄関がある。執事やメイドが集まってきているので、どうやら来客らしいと分かった。

 だが、少しばかり様子が妙だ。


「何があったの?」

「旦那様のお客様がいらっしゃったのですが、旦那様は早朝から王宮の呼び出しで外出されておりまして……」


 慌てた様子で説明する執事に、エステルはにこりとほほ笑んだ。


「では、私が応対します」


 これはチャンスだ。

 公爵夫人としてきちんと仕事ができると示すことができれば、夫の信頼を得ることができる。


 エステルは執事を避けて玄関に向かおうとした。ところが、執事によって再び道をふさがれてしまった。

 右へ左へ避けようとするが、執事の方も右へ左へ、道を譲らない。


 どうやら、この執事はエステルに来客の対応は無理だと考えているらしい。

 だが、こんな妨害に負けている場合ではない。


 エステルは、ひらりと身を翻し、さらに身をかがめて執事のガードを突破してしまった。


「奥様!」

「そうよ、私が奥様なんだから。お客様のお出迎えも、女主人の仕事でしょ!」


 そう言って、エステルは玄関に向かった。


 玄関に到着すると、金髪のひと際華やかな男性がいた。白い布地に金の刺繍という派手な配色の上着に、白い毛皮の襟がついたマントを羽織っている。派手だが都会らしいセンスを感じさせる服に身を包んだその人は、初めて会う人だった。


「クライドの奥さん?」


 エステルに気づいた男性が、爽やかにほほ笑んだ。


「ええ」


 エステルが驚きながらも返事をすると、流れるような所作で彼女に近づき、その手を取った。


「はじめまして。イアン・オリオーダンと申します」


 言いながら、エステルの顔を覗き見た。


「公爵夫人にお会いできて光栄です」


 彼の翡翠色の瞳が宝石のようにキラキラと輝いて見えて、思わずたじろぐエステルに、イアンはうっとりと笑みを深くする。

 そして、イアンはエステルの前に跪いて、彼女の手の甲に軽く口付けた。クライドとは違う、大人の余裕を感じさせる表情と仕草に、エステルの胸がドキリと音を立てる。


「どう? あんな堅物やめて、俺にしない?」


 イアンがそう囁いた時だった。


 玄関の扉が開いた。そこには、クライドがいて。

 ギシリと身を固くして、手を取り合う二人を凝視した。



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