第4話 お金のない女がどんな苦労をするのか、あなたには分からないでしょうね



 彼女には勝算があった。


 貴族というのはマナーを非常に重要視する。それは家の中だろうと外だろうと関係ない。つまり、食事の席を途中で立つようなことはしない、はず。


 そこで、エステルは夕食の真最中に突撃することにしたのだ。


 公爵家の食堂は立派な部屋だ。

 大きなガラス窓とレースのカーテンの向こうには自慢の中庭が広がり、天井にはキラキラのシャンデリア、床板は鏡のように磨き上げられ、壁には大小さまざまな絵画が飾られていて家族の目を楽しませる。

 テーブルの上は華やかな刺繍のテーブルクロスと花とキャンドルで飾られ、豪華な食事が並んでいる。


 といっても、並んでいる食事は一人分。

 エステルの席と思わしき場所には、空の皿と銀のカトラリーが整然と並べられているだけ。


 突然現れたエステルに初めは驚いていたクライドだったが、すぐに冷静さを取り戻した。おろおろする使用人たちを口も開かず一瞥し、エステルの分の食事を準備するように指示する。それに気づいたメイドたちは慌てた様子で動き始めた。


 エステルはニコリとほほ笑んでから、席に着いた。


 その様子を尻目に、クライドは淡々と食事を進めた。とにかく早く食べて席を離れようとしているのだろう。

 だが、そうは問屋が卸さない。


(夫婦らしく、楽しく食事といきましょう!)


 食事は始まったばかりなのだから。


 エステルが席につくと、メイドが料理の皿を並べ始めた。前菜、スープ、パンを丁寧に並べていく。グラスには爽やかな香りのリンゴジュースが注がれた。


 食堂に沈黙が落ちる。


 結婚式以来、久々に顔を合わせたというのに妻の方を見ようともしない主と、その向かいで貼り付けたような笑顔を浮かべる妻。


 まるで剣闘場で剣士と剣士が向かい合っているかのような緊張感に、使用人たちがごくりと喉を鳴らした。


 彼らは既に、今日の昼間の出来事を知っている。

 エステルがただ者ではない、ということを。


 だが、エステルは笑顔のまま、黙って食事を進めた。


(まずは様子見よ)


 娼婦の常識だ。

 男の中には軽い会話を好まないタイプが少なくない。彼らに気をつかって娼婦の方から話を振るのも一つの手だが、それでは場の主導権を握れても男の心を開くことはできない。


 目的は夫と話をすることだが、ただ話をするだけではだめなのだ。商売相手として、信頼を得なければならない。

 そのためにも、話題は慎重に選ぶ必要があるのだ。


 エステルは実際に客を相手にしたことはないが、こういうテクニックもお姐さんたちから習っている。


 エステルは、じっとクライドの表情を観察しながら食事をすすめた。


 そうこうしていると、あることに気が付いた。使用人たちの中に、『彼女』の姿がない。


「……あのメイドはどうしたんですか?」


 思わずこぼれた質問に、クライドの眉がピクリと動いた。


 あのメイドとは、もちろん今日の昼間にエステルに喧嘩をふっかけた、あのメイドのことだ。

 曖昧な呼び方だったが、クライドは一つ頷いた。


(やっぱり、報告が上がってるのね)


 その点については、特に驚かなかった。

 あんな大騒ぎがあったのだから、執事長が彼に報告するのは当然だ。今日の内に、処分が言い渡されただろう。


「解雇した」


 クライドは、あっさりとした調子で言い放った。


(そりゃあ、そうよね)


 そのつもりで、花瓶を割って人を集めたのだから。だが、いざ本当に解雇されたとなると、決して後味の良いものではない。一人の人の職を奪ってしまったのだから。

 エステルは気まずい気持ちを振り払うように、グラスを手にとった。


「それじゃあ、今頃いただいた退職金でやけ酒ですね」


 ゴクリと一口、ジュースを飲む。酸味のきいたリンゴジュースは、酒ではないが味わい深い満足感がある。


「退職金は払っていない」


 リンゴジュースを味わっていたところに聞こえてきた冷たいセリフに、エステルはぎょっと目を剥いた。


「えぇ!?」


 驚くエステルとは対照的に、クライドは相変わらず淡々と冷静な表情で食事を進めていて、その合間に簡潔に口を開くばかりだ。


「主人の家族に失礼を働いて解雇した。退職金など払う必要はないだろう」


 エステルはダンと音を立ててテーブルにグラスを置き、クライドを睨みつけた。


 計算高く彼の信頼を得るために立ち回ろうという考えは、あっさり消え去った。

 その代わりに、腹のそこからこみあげてきたもの。

 それは、怒りだ。


「そんな……っ!」


 だが、それ以上の言葉は出てこなかった。使用人の人生など何とも思っていない様子のこの男に、どんな言葉をかければいいのか分からない。


 わなわなと肩を震わせていると、耳元でチャリンと音がした。あの、貝殻と真珠のイヤリングだ。

 少し逡巡した後、エステルはそのイヤリングを外した。


 そして、一人の執事に差し出した。


「……これを、あのメイドに届けてやって」


 食堂の中に再び沈黙が落ちる。

 エステルはイヤリングを差し出したまま、クライドを睨みつけた。


「あなたが払わないなら、私が払います」


 執事がおろおろとエステルとクライドの方を交互に見る。エステルはそれに構わず、イヤリングを執事の手に押し付けた。そして、ガタンと行儀の悪い音を立てて立ち上がる。


 悲しかった。


 あのメイドは憎たらしい相手だ。主人の妻であるエステルに失礼な態度で接したのだから解雇されるのは当たり前だ。

 だが、退職金をもらえずに解雇されて実家に戻った彼女がどんな扱いを受けるのか……。

 想像すると胸が痛くなる。エステルはそうやって苦労してきた女性を、大勢見てきたのだ。


「お金のない女がどんな苦労をするのか、あなたには分からないでしょうね」


 エステルはポツリとこぼして、静かに食堂を後にした。


 去っていく彼女の背中を、クライドがどんな表情で見ていたのか、彼女には知る由もない。




 * * *




 その夜、エステルはムシャクシャした気持ちを発散するように、自分磨きに没頭した。


 時間をかけてゆっくり入浴し、髪には椿油をなじませ、肌には娼館で暮らしていた頃から愛用している美容クリームを塗りこんでいく。今日は脱毛もしたので、肌の手入れはより丁寧に行わなければならない。


(イヤリング、惜しいことしたかも)


 クリームを塗りながら、エステルはがっくりと肩を落とした。

 だが、後悔はしていない。あのイヤリングを受け取ったメイドがエステルに感謝するとは思えないが、少なくとも当面の生活には困らないはずだ。


 指の先まで美容クリームを塗って全身をつやつやに仕上げると、エステルはぴょんと上機嫌にベッドから立ち上がった。

 次は下着を選ぶのだ。桃色、藤色、黒色に白色……。様々な色で染められたシルクと、華やかな刺繍とレースで飾られた下着たちを前に、思わず口角が上がる。


(女のおしゃれは下着から、よね)


 エステルは白色のレースと桃色のサテンリボンが可愛らしい下着を選び、身に着けた。

 そして鏡を前に、満足げにほほ笑む。


(うん。完璧!)


 自分の身体を丁寧に磨き上げ、美しいものを身に着けるのは、やはり気分がいい。


 だが、


(見せる相手がいないのが残念ね)


 と、小さくため息が漏れた。


 娼館に居た頃は楽しかった。

 お姐さんたちにおしゃれを習って、互いに褒め合って。

 そういう暮らしも、嫌いではなかったのだ。


 そんなことを考えていると、不意にコンコンとノックの音が響いた。


 こんな時間に誰だろうか。

 首を傾げながらも、薄手のガウンを羽織って、


「どうぞ」


 と声をかけた。

 ところがすぐに扉は開かず、気まずげな沈黙だけが流れる。

 数秒後、ゆっくりと扉が開いた。


 そこにいたのは、クライドだった。


 夜だというのにかっちりとした上着を着たままの彼は、下着の上に薄いガウンを羽織っただけのエステルとは対照的だ。


 さらにエステルの方を見ようともせず、視線を逸らしたまま扉の外に突っ立っている。


「何のご用ですか?」


 エステルはむっと唇を尖らせて尋ねた。そんな格好で、何をしに夜の寝室に来たというのか。その表情と態度からも、彼女と寝るために来たのではないことは明白だ。


 それに、メイドの退職金のことも。

 エステルはまだ腹を立てているのだ。


「……これを」


 クライドが顔を逸らしたまま差し出したのは、あのイヤリングだった。


「大切なものだろう」


 その言葉に、エステルはパッと顔を上げた。


(知ってたの?)


 このイヤリングが、エステルにとって大切なものだと。


 しんみりした空気が流れる。


 だが、それは一瞬のことだった。

 次の瞬間には、エステルはまた怒りを感じて眉を吊り上げた。


(返すってことは、やっぱり退職金を払わないってことじゃない!)


 やはり、この男には血も涙もない。

 エステルはくるりと踵を返して、


「けっこうです!」


 叫ぶように言いながら寝室の中に逃げ込んだ。


「おい!」


 後ろからバタバタと足音が鳴り、クライドが追いかけてきたのが分かったが、エステルは無我夢中で寝室の中を逃げ回った。

 だが、二人の追いかけっこはそう長くは続かなかった。運動不足のエステルと、しっかり鍛えているクライドでは最初から勝負にならない。そもそも足の長さだって段違いなのだ。


「ま、て……!」


 クライドの伸ばした手が、エステルのガウンのリボンに引っかかった。後ろから引っ張られる格好になって、エステルの身体がつんのめる。


「きゃあ!」


 エステルの身体は前向きに倒れたが、幸いその先はベッドだったので、ぼふっと勢いよく倒れこんだが、顔を打ち付けるようなことにはならなかった。


「もう! いい加減にしてください!」


 エステルが文句の一つも言ってやろうと振り返ると、すぐそこにクライドの顔があった。端正な顔が驚きに硬直し、藍色の瞳が大きく見開かれている。


 夜の、寝室の、ベッドの上。

 エステルはクライドに、押し倒されてしまった。



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