第3話 喧嘩を売るなら、相手は選ばないと
「ごきげんよう」
彼女の上機嫌な声に、メイドたちの身体が一斉にビクリと跳ねた。驚いた子猫のようで可愛らしいと思ったが、もちろん可愛がるつもりで声をかけたのではない。
「何の話をしていたのかしら?」
続くエステルの質問に、メイドたちの顔が真っ青になった。一人を除いて。
「……」
栗色の髪のメイドが驚いたのは一瞬のことで、すぐに気を取り直してニヤリと笑ったのだ。
(なんという度胸……!)
エステルは感心した。
この状況で、自分を断罪できる立場にある
(というか、私のことを完全に下に見ているのかしら? 上手く言い負かすことができれば、この場をごまかせるし、自分の方が私の上に立てると思っているのね)
おそらく、そうだろう。
他のメイドたちも、それを期待している節が表情から見え隠れしている。
「何かご用ですか? お・く・さ・ま?」
栗色の髪のメイドは、余裕たっぷりにほほ笑んだ。
「昼食がお気に召しませんでしたか? それとも髪型? ドレス?」
言いながら一歩、また一歩、エステルに近づく。
「ああ、ティータイムなら、お庭にご準備足しましょうか? ……お一人分を」
とどめは、この嫌味である。
並みのご令嬢なら、怯んで引き下がったかもしれない。
だが。
(……相手が悪かったわね)
エステルは一つ息を吐いてから、すぐそばのチェストの上に置いてある花瓶にそっと触れた。
色とりどりのバラが生けられている、美しい花瓶だ。
彼女はその花瓶の口を掴んで持ち上げた。
そして、メイドたちが声を上げる間もなくその花瓶を、
大理石の床にたたきつけた。
ガシャーンとけたたましい音を立てて花瓶が割れ、周囲の部屋から執事やメイドが顔をのぞかせる。さらに廊下の向こうでも音を聞きつけた使用人たちがこちらに向かって来る気配がした。
「な、なにをなさるのですか、奥様!」
栗色の髪のメイドが表情をゆがめる。
それを横目で見ながら、エステルはふんっと鼻を鳴らした。
「あら、あなたの望み通りでしょう?」
「え?」
「ネチネチ嫌味を言って、私を怒らせたかったんじゃないの?」
「まさか、そんな……」
そうこう話している内に、周囲には人だかりができていた。執事やメイドだけでなく、公爵の家臣である貴族や騎士たちの姿もある。
この段になって、栗色の髪のメイドの表情にようやく焦りが見えた。
まさか、こんな大勢の前で先ほどのような態度をとるわけにはいかない。
「違うの? 白昼堂々、私のことを『アバズレ』呼ばわりしておいて?」
「そ、それは、奥様の聞き間違いでは……」
「それで言い逃れできると思っているの?」
エステルの鋭い声に、メイドの表情が引きつる。だが、彼女の方も歴戦の『女』だった。瞬時に表情を切り替え、今度は両手で顔を覆って泣き声を上げ始めた。
「ひ、ひどいです、奥様! 私のようなただのメイドが、そんなことを言うはずないじゃありませんか!」
これは効果的だった。
そもそも使用人たちに好意的に受け入れられていないエステルが相手なので、やじ馬たちはエステルの方に責めるような視線を寄越す。
そこに、とうとう執事長がやって来た。
エステルはその姿を認めて、ニヤリと笑う。
「白を切るなら別にそれでもいいけど。……それにしても、ただのメイドが公爵夫人である私に歯向かう理由が分からないのよね」
エステルはわざとらしくため息を吐きながら考えを巡らせるふりをした。そして、ポンと一つ手を打つ。
「あ、そっか」
そして、屈託のない笑みを浮かべた。
「私を追い出して、自分が旦那様の奥さんになりたいのね!」
メイドはとっさのことに表情を繕うことができず、真っ赤になった。
「そっかぁ、旦那様が好きなのね、あなた」
エステルは嬉しそうにほほ笑んでメイドに顔を近づけた。
「旦那様は元娼婦を妻にしたくらいだから、自分もなれるんじゃないかって。夢、見ちゃったのね」
さらに優しく、囁くように続ける。
「でも、残念ね。あなたに興味があったら、とくの昔に寝室に呼んでると思うわよ?」
メイドの顔色は、赤を通り越してどす黒くなった。
そして、とうとう怒りが爆発する。
「この、アバズレがっ!」
叫びながら、メイドはエステルに掴みかかった。掴まれたレースの襟飾りがビリっと破ける音が廊下に響く。
「なんで、あんたなんかが!」
エステルは特に抵抗しなかった。
されるがまま、言われるがまま。
主人の妻に掴みかかるメイド、それを冷めた目で見つめる公爵夫人。
その様子を、大勢の人が見ていた。
それに気づいたメイドの表情が、一気に真っ青になる。
(バカな子。こんな安い挑発に乗るなんて)
エステルは自分の胸元を掴んだままのメイドの手にそっと触れた。そして、再び彼女の耳元に唇を寄せる。
「喧嘩を売るなら、相手は選ばないと」
すると、メイドはへなへなと力をなくして廊下にへたりこんだ。何も言い返せず、わなわなと震えることしかできない。
この喧嘩は、エステルの勝利だ。
後のことは、執事長が適当にやってくれるだろう。エステルは上機嫌でクルリと踵を返した。
(……おっと。忘れてた)
立ち去る前に、大事なことを伝えなければ。
エステルはピタリと足を止めて、顔だけで振り返った。
「……これだけは、言わせてもらうわよ」
ここに集まった全員に聞こえる声が出せるように、ごほんと一つ咳払い。
「私は確かに花街で育ったけど」
その頬が、ほんの少し赤く色づいている。
「だ、抱かれたのは、……旦那様だけよ」
はにかむように発せられたこのセリフを、使用人たちは誰もがポカンと口を開いた間抜けな表情で聞いていた。
彼女の、夫も──。
* * *
廊下に集まったやじ馬の間に、微妙な空気が流れた。
彼女の突然の告白に驚けばいいのか、呆れればいいのか。
何より。
ついさっきまでメイドを挑発していた喧嘩腰の態度とは違う、
それは、彼女の夫も同じだった。
「……」
廊下の端、エステルから見えるか見えないかギリギリの位置でことの成り行きを見守っていた、彼女の夫──クライド・グレシャム公爵その人は、右手の親指と人さし指で両のこめかみを押さえるように片手で顔を覆った。
隣に立つ執事長からも、その表情ははっきりとは見えない。
「旦那様」
執事長が、そんな彼にそっと声をかけた。
「……整理しろ」
「承知しました」
端的な命令だったが、この執事長にはこれで十分だろう。
こそこそ話している間に、エステルは再び踵を返して廊下の向こうに颯爽と去って行った。
窓から差し込む午後の日差しが反射して、彼女の金の髪がキラキラと輝く。
その様子に、クライドは目を細めた。
彼女は、まぶしい。
ずっと前から……。
だが、次の瞬間にはその思考を振り払うように頭を振った。
そして、心の中で自分に言い聞かせる。
(不用意に近づかないようにしなければ……)
この時の彼は、自分の妻を見くびっていた。
そう。
見くびっていたのだ。
* * *
その日の夜、エステルはある作戦を実行することにした。
名付けて、『晩餐に突撃作戦』である。
この屋敷に来て数日、彼女の晩餐は自室に運ばれてきていた。
本来であれば夫と同席すべきなのに、有無を言わせず自室に食事が運ばれてくるのだ。
これではどうしようもないと思っていた。
が、行動目標を
まず、夕食が運ばれてくる前に自らの手で完璧に支度を整えた。
軽く化粧を施し、髪はコテを使って巻き髪を作って結い上げる。
ドレスはクローゼットの中から、きちんとしてはいるがかしこまり過ぎていないものを選んだ。貴族のマナーはよく知らないが、まさか自宅での晩餐に正餐用のフルドレスを着ることはないだろう。あまりラフでもよくないので、無難なドレスにした。
このあたりのセンスも、きちんと娼館で学んできている。
最後に、貝殻と真珠のイヤリングを身に着ける。
これは、お守りだ。
兄に身請けされた時、そのお祝いに娼館のお姐さんたちがくれた。金で象った貝殻の中に、人差し指の先ほどの大きさの真珠がのっている、かわいらしいイヤリング。
『貴族のご令嬢に差し上げるようなものじゃないけどさぁ』
と、お姐さんたちは笑っていたが。
この大きさの傷一つない真珠は、それだけで高級品だ。
彼女たちがエステルの幸運を喜び、彼女のこれからの人生に幸あれと祈ってくれた、その証拠。
このイヤリングを身に着けると、勇気がわいてくる。
「よし!」
エステルは昼間と同じように意気込んだ。
今度こそ、夫と話をするのだ。
彼の愛を、買うために!
そして、エステルは夫の晩餐の席に突撃した。
文字通り、突撃である。
彼女の行く手を阻もうとする執事たちの制止をかいくぐり、食堂の扉を自らの手で勢いよく開いたのだ。
バーンと大きな音を立てて扉が開く。
上座で食事をしていたクライドは大きく目を見開き、スプーンでスープをすくったままの少しばかり間抜けな格好でエステルの方をぽかんと見つめた。
その表情を見たエステルは、少しばかり胸のすく思いだった。
(これで、逃げられないわよ!)
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