祈りは愛しい貴女へと

あおのひゃっはー

まどろむ貴女とたゆたう夢

 


カチカチと鳴り止まない、醜悪で煩い鳴き聲。

亡骸からあふれた体液を啜りながら、蠢く群れは止まる事無く迫り来る。


付着した体液でぬるりと滑る引き金を引けば、その一角はどどめ色の飛沫と共に歩みを止めた。鼻をつく硝煙と共に吐き出された散弾の薬莢が、薄汚れたリノリウムの床を叩く。


「っ、しつこい…!」


いくら悪態をつこうとも、粘り気のある不快な足音は絶えず耳を愛撫する。








あれから3年が経つだろうか。

世界は再び、飽きもせず戦火に包まれた。

小さな火種に大国が油を注ぎ、全ては過去のように燃え上がる。

ただひとつ、良かったと言えるのは死の灰が降らなかった事。原子の光は、最後まで盤上に伏せられたまま終わりを迎えた。


なら、惨事は回避されたのか?――いいえ、全ては遅きに過ぎた。

幾多のなきがらが地獄への道を舗装し、零れた血は大地に吸い込まれていく。


 はるか大地の下で、かれらは生まれた。



「弾が―― ぁ、うそ、いやだッ!離してッ!!」


始まりは、戦場で確認された変異生物。

否、敵国の試作生物兵器とする説もある。

今となっては知る由もなく、それを知る者は汚泥に帰した。


かれらは増殖した。

鹵獲された個体は速やかな分析がされ、半年もすると外骨格の骸が前線を埋め尽くした。


 かれらは歩み続けた。

 空腹を訴えなかった。

 痛みを訴えなかった。

連綿たる山々も、草木なき凍原も、かれらは苦を唱えず踏み越えた。


やがて戦争は終わりを迎えた。

かれらは戦火すらも喰らい尽くしてしまった。

大国は互いに汚れた手を握り、やがて世界に終戦が訪れる。






「来るなぁッ――だめ、やめて こない でぇ」


 だとしても

 かれらはそんな事を気にも留めない。


≪素晴らしい歓声です!人類は遂に有史以来の罪を克服しました!≫

≪もはや我々人類が、武器を手に取って戦火に身を投じる事は無くなったのです!≫


≪尊い人間の命が、戦争で潰える事はないのです!≫






「嫌…いや、こないで、いやだ。!!ごめんなさいッ、たすけて、ごめんなさいごめんなさいごめんなさ――――



 確かに死ななくなった。


 ”戦争”は終わったから。




_________________________


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「――――ミーク」


「ロスミーク、聞いてる?」

「っ!」


親しくて落ち着いた声の呼びかけに、はっと意識を呼び戻す。

気づかずのうちに、手に取った白のリボンを落としていた。



「あー、ごめんごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」

「珍しいね。疲れているの?」

「大丈夫だって。―――と言うか、ミユイこそ目のクマ、ひどいよ」

「うそ…」


ミユイのか細い指が、つっと目の下を撫でる。

自分で自分の瞼をこすったところで、クマは見えやしないのに。


「見た感じ、ここには何もいないみたいだ。―――”先客”は、だいぶ昔にここを去ったみたいだし」


もう一度白…かったであろうリボンを拾い上げる。

それは茶褐色の汚れがべっとりと付着していて、未だに不快な粘り気があった。

劣化したリノリウムには、汚れを引き摺ったような跡が乾いてめくれている。

―――その傍らに、同じく汚れきった布切れと銃口の詰まった散弾銃。


「…無事だと、いいね」

「―――うん」


へどろにまみれた散弾銃をつまみ上げる。

まだ使えるかと思って見てみるも、銃口から入り込んだ汚れはすっかり固まって引き金すら動かない。

装弾口を覗いてみるが、中には一発のシェル弾丸も入っていなかった。







 そう、この狂った世界ではよくある事。

祈りは天に届かない。そらはとうに濁っている。

願いは大地に届かない。大地は沃土に侵されたから。


 ここは地獄か、それともかれらの楽園か。

楽園だけは有り得ない。かれらもまた餓えている。

なら、夢?そう、きっと夢だ。

その内に聞きなれたアラームの音とともに、あたたかなベッドの中で目を覚ます日がやってくる。


いつも眠る前にそう願い続けて、3年が経った。




「とにかく、どこか安全なところを探そう。今日はひとまず、ここで休む事になりそうだ」

「うん」



今まで、どうやって暮らしていただろう?

もし戦争になっていなかったのなら?

こんな日々はいつまで続くのか?


―――今となっては見当もつかない。

ただ確かに目の前に突き付けられる現実と、たった一人の友人。

それを信じることだけで、精一杯なのだから。



大地はかれらの沃土に包まれ、植物は変異を遂げた。

コンクリートは液状化し、建造物はすべからく沈下する。


かれらは沃土から生まれ、沃土に還ってゆく。

亡骸からこぼれた体液は大地に染み入り、再び生まれ変わる。


沃土もまた、ありとあらゆるを呑み込んだ。

某国によって大規模な爆撃が実施された。

新種の化学兵器が投じられた。

燃料砲弾の焦土作戦が開始された。


―――人類は、ほんの僅かな楽園の中で生きる事を決めた。






「―――だめだね。ここの食料は腐食がひどい。この付近が呑み込まれたのは、まだ去年だったと思うけれど…」

「この缶詰、期限はまだ余裕があるね・・・でも、だめみたい」


「ミユイ、食料はあとどれくらいあったかな?」

「切り詰めれば、3日くらい…」

「つまり…」

「一日一食ってこと」


顔を見合わせて、ため息をつく。

小さな期待と共に手にした缶詰を、力なく放り捨てる。



「やっぱり食べものはまっとうな建物で探さないと、見つからないか」

「それでも、探さないよりはいいと思う。缶詰ひとつでも見つかれば、また1日生きていけるよ」

「…そうだね」


死因が餓え死になら、まだましだろうと言いかけた喉を塞いだ。



「でもここは、建物そのものの劣化が少ないね。何カ所かバリケードを作ったら、しばらくの拠点にできそうだよ」

「うん。この近くにもまだ見てない場所があるし、何日かここで寝ることになる、かな」


建物はやや大きめで、以前は何か公的な建造物だったと思われる。

今いるこの建物以外にも、似た造りの別棟がそびえていた。




「―――あ、この部屋…」

「どうしたのミユイ…お、悪くないんじゃない?ここ。入ってみようか」


ややフレームの歪んだ扉の隙間から、ふたりで部屋をのぞき込む。

床に汚れはなく、窓はほとんど割れていない。それどころか、昔誰かがこの部屋で暮らしていたような痕跡すら残されている。


体を扉に沿わせて、ぐっと足を踏ん張る。


「んー、しょっ!」

「…どう?」


「―――ダメだ。扉が歪んでいるとは言っても、中からしっかり鍵がかかってるよ」

「じゃあ、どこかで鍵を…」

「それも無理かな。見て」


ロスミークの指し示すのは、ひとつの鍵穴。

過去に幾度もピッキングを試みたような形跡が穴の周りに遺されて、その鍵穴は錆で埋まっている。


「どうしよう、あきらめる?」

「う~ん…」


未だに鍵がかかっているのなら、この部屋の中は誰の物色もされていないだろう。

内装を垣間見たところ食料などは少ないかもしれないが、何も足りないのは食料だけではない。

電池、弾薬。消耗品、日常雑貨。そして何より、気晴らしになる玩具。

そのどれもが足りていない。”楽園”暮らしの人間は、今も何不自由ない日々を送っているのだろうか?それに比べてOutcastわたしたちはどうだろう。



「―――ロスミーク、悪い顔してる」

「お、顔に出てた?」

「すごく」


「じゃあ―――ボクの考えも理解わかってくれるよね」

「止めても無駄って事もしってる」

「さっすが」


「こういう時は、”マスターキー”に限るね」


肩に掛けていた愛銃が、鈍色に光を反射した。



ボルト遊底を開放して弾倉を外し、一発のシェル徹甲弾をポケットから取り出す。

小脇に弾倉を挟んで口径をチェックし、付着したホコリをふっと吹き払う。

そのまま直にシェルを装填し、ボルトを閉鎖して固定。


手慣れた一連の動作の後、

”鍵”を鍵穴にぴったりと当て、引き金に指をかける。



Open sesameひらけゴマ!」


ふざけた掛け声と銃声、そして破砕音が静かな廊下に反響する。


「…よっし!開いたよ」

「―――今さら言うのもだけど、隣の部屋の窓から入ってもよかった…」

「何言ってんの、お行儀が悪いでしょ。ちゃんとドアから入らないと」

「よく言う…」


鍵があったところには握りこぶし一つほどの穴が空き、ブリーチング“解錠”の衝撃で扉は半開きのまま揺れている。

金属らしい冷たさを持ったドアノブを掴んで、ぐっと押し込む。フレームの歪みに関係なく、扉は嫌な音をたてながら開かれた。


一歩歩み入ると、厚底のブーツが何かを踏んだ。

足元には一枚のウェルカムマットが敷かれていて、踏み込んだ一歩は積もった埃をわずかに巻き上げた。


「ノックをするべきだったかな?」

「いいよ、もう」


砂塵の色をうつした陽の光がヒビの入った窓ガラスに透過して、正方形に区切られたフローリングを暖色に染める。

元々この部屋に置かれていたであろう机と椅子は、ほんの数組を残して部屋の端へと追いやられていた。


そして出来たスペースには、日なたで劣化したぼろぼろのシュラフが二つ。

枕元の小さな置時計はぴたりと止まって、床置きされたデスクライトは首をもたげたまま光を浴びる。


古めかしくぼやけた網入りガラス。いくらかのヒビは入っているけれど、そのほとんどは割れずに残ったまま。一つを残してぴったりと閉じられ、小さな綿のようなクモの巣に角を縁取られている。


乱雑に積まれたカラーボックス。絵本、小説、教科書…中身はまとまりのない雑多な本だったり、服…女の子の着替えらしきものが丁寧に畳まれたまま色褪せていた。

他にも山積みの水のペットボトル。缶詰…インスタント食品。いくつかの食器と不揃いのコップが、小さな棚から転げ落ちている。


充満する埃の臭い。舞い上がる塵は光の粒になって、静かに営みの残滓を覆い隠す。



「―――さすがにもう誰も使ってないね」

「…うん、だいたい1年ちょっとかな」

「どうして?」

「ほらこっち、カレンダーが落ちてるよ。きっとここに掛けてあったんだろうね」


柱に遺された、錆びた一本の画鋲。

その下に乱れ落ちたカレンダーが、去年の9月で絶えている。


「ミユイ、ボクたちが追放おいだされたのは…いつ頃だっけ?」

「わたし達は…前の夏頃だったよ。3日前に雪が降っているから、半年前くらい」

「そっかー…じゃあここの人たちは先輩だね」


「それにしてもすごいね。これだけたくさん物資を集められたんだ…」


あたりをしげしげ見渡して、窓辺にぶらりと歩み寄って一つだけ開いたままの窓をのぞき込む。


「まだ使えそうな物もあるのに、どこへ…  ―――ッ!」








 手入れのされていない、荒れた中庭。

 花壇からあふれて地を這いまわる薔薇いばら


 土に還りつつある白いリボン。

 まき散らされたどす黒い飛沫の痕。


 あのリボンにはとても届きそうにない。

 手に取るにはあまりにも遠く落ちてしまっている。








「…ロスミーク?」


「…ここの窓閉めちゃおうかな?ほら、もう夜はかなり寒くなるし、一応」

「?うん、わかった」


錆と埃、クモの巣で立て付けの悪い窓は、力を込めてようやく不承不承といったふうに締まりゆく。



「―――とにかく、一旦ここを仮のキャンプにしようか。あるものはありがたく使わせてもらって、他の部屋もいろいろ見てみよう」

「わかった。そうする」



背負っていた大きな荷物をどかっと下ろす。と同時にまた埃を舞い上げてしまう。

二人で咳をしながら、無言かつ何とも言えない顔を向けあった。


「…んー、ボク掃除でもしておこうかな?確かこの辺りは水がまだ生きているし、少しは雑巾でもかけようか…」

「じゃあ、わたしも手伝う。窓とか拭くね」


―――それはまずい。


「え、ぁー。ミユイは先にいろいろ見ててくれない?ほら、そんなに広い部屋じゃないし、一人でもできるよ」

「?でも、ロスミークだけにさせるのは…」

「大丈夫だって、ほら、銃は持って!弾薬は十分?ライトは貸すね!」


いそいそと荷物からフラッシュライトを取り出して、ミユイの手に握らせる。




「…」

「…ミユイ?」



「あやしい」

「ぐぅ…」



じと と湿った暗い目を向ける。

そう。もはや見慣れてしまった、友人の癖。



「―――ねぇ、今度は何を隠してるの?」

「いやいやいや、ほんとに大丈夫!ほら、どこもケガしてないし、別に落とし物だってしてないよ!」

「じゃあ、変な本でも拾った?」

「ちがっ、あれからほんとに何もしてないからっ!忘れて!」


―――かつて立ち寄った、どこかの街の本屋。

こんな世界でも…いや、こんな世界だからこそ、娯楽は食料弾薬の次に大切だった。


ミユイが見つけてきたのは、「食用野草の見わけ方」「サバイバル大全」、そして一冊の小説。ロスミークは「キャンプ生活のススメ」「フィールドワーク入門」…の間に一冊、やや薄めの本を挟んだ。

それはまだ、少女の年齢にはいささか不相応な書物。

当時のロスミークもぼろぼろに垂れ下がったのれんをくぐる瞬間、理性か本能か…とにかく、これが”良い事”ではない事は重々理解していた。―――それでも、無意識のうちに足はさらに踏み出して、本棚の一角に置いてあった一冊と目が合ってしまった…。


結局は後日、物陰でこっそり読んでいた所をミユイに見つかり、その日の晩。いつもよりずっと楽な火起こしができた事はまごうことなく事実。



「―――あの本、かわいい女の子がいっぱいだったね」

「えっとぉ…」

「ロスミーク、そういう趣味だった?」

「ぅえっ!?違う、あれはそう!たまたま手に取ったのが”そういう”本だったってだけで…」

「そうなの?」

「そうだよっ…!」

「…」



 沈黙。



「もうしない?」

「しません…」


塩を浴びたかのようにすっかり萎れてしまった姿を見てややため息をつき、詮索はもういいだろうかなどと心の中で独り言つ。


「―――わたしが るのに…」

「?ミユイ、何て?」


「…なにも」

「えぇ…気になる。何か言ったでしょ?教えてよー」

「言ってない」

「うっそ~。あの時の事は本当に謝るから、教えて、ね?」

「…いや」


形勢逆転、好機とばかりに口に笑みを浮かべてにじり寄る。

ゆっくりと後ずさるミユイは置いた荷物まで後退し、ぱっと自分の銃と持ち運びやすいバッグを掴んで扉へ駆け出す。


「~~ッ、わたし、探索してくるから!掃除してて!」


ばん!と勢いよく歪んだ扉が閉められ、埃がたつ。

が、閉まりきらずに再び軋みながら徐々に半開きになった。


その向こうに、すでにミユイはいない。


「どうしたんだろ…。まぁある意味セーフ、かな?」


扉の向こう、廊下に誰もいない事を確認してから、そっと閉める。

 



掃除…と言っても口をついで出ただけで、どうするかは決めていない。

とりあえず窓を開けて換気でもしようか?


ぷつりぷつりと、枯れた蜘蛛の巣を壊しながら窓を開ける。

そこに広がる、誰かが最後に見た景色。


「…正直気は向かないけど、ね」





















「…やっちゃった」


遅めの規則的な足音が、廊下に反響する。

そして少女のため息がひとつ。


ついつい感情のゆくまま部屋を飛び出し、今は別の棟の違う階層を歩いている。

あのまま彼女の前にいると、自分がどんな顔になるのか、何を思ってしまうのかわからなくなる気がした。



ロスミークは大切な仲間で、友人で、たった一人の―――



「(…だめ、集中しないと。物陰が多いから、いつもより…)」



廊下の曲がり角、扉の陰、窓の外。

かれらは稀に、獲物を待ち伏せするだけの知能を持っていた。

時に獲物を追い込み、足を止め、ゆっくりと捕らえる…そうやって何人の人間がかれらの消化液に融けた事か。



何も敵はそれだけじゃない。

 

人間にとって最も効率よく、仕留めやすい獲物。それは人間だった。

脅して奪う。殺して奪う。

時に”尊厳”を嬲るのも、この世界の常識になってしまった。



廊下はみな、どこかの部屋に通じる扉が並んでいる。

窓が割れている場所は風雨にさらされて、床は波うち劣化している。

そこからさらに何か植物の蔦が侵入していたりと、ひどい有様。


それでもこれは、まだずっと状態がいいと言える。

その中でも、あの部屋は格別だった。

窓は全て割れていないし、扉…鍵はロスミークが壊したけれど、戸締りができる。

物資もまだ残されていて、正直なところ期待を上回ってくれた。




ひとつだけ開いていた窓。その向こうは、見取り図によると中庭。 

かつてはかわいらしい花畑に満ちていたそうだ。あの窓の先は天国だったのだろうか。

それも、ロスミークの顔がすっとこわばるような。



「(いつもいつも、子供扱いして)」

「(わたしだって、もう汚れちゃったんだよ)」



廊下に落ちていた汚い布切れを、あの部屋で見つけた時。

一人前ぶんの食器だけ、汚れていると知った時。


あの窓までの一直線は、わずか一瞬…おぞましいほど安らかな死の香りがした。



すでに自分たちの手が汚れている事は、嫌というほど理解している。

武器を隠していると、”彼ら”は虫唾が走るほど気味の悪い笑みを貼り付けて歩み寄ってくるのだから。

―――仕方がなかった。毎日自分にそう言い聞かせるけれど、その日の夢には顔が蜂の巣になった”彼ら”が群がって、一晩中引っ切り無しに自分を嬲り犯した。












ぐじゅ と水分多めの何かを踏んだ音で、再び意識は強く浮上する。

注意が逸れていた。


罠…を踏んだ訳ではない。

周囲に敵は…いない。



見ると足元は…茶色いものを踏んでいた。大きさはすこし大きいボール位。

これは何だろう?生きた蟲ではない。なら身体の一部…?それも見覚えがない。初めてみるものだった。


見れば、それはとぎれとぎれにこの先の廊下に続いている。

いくつも並んで、まるでミユイをいざなうように。



「(大きさは…わたしの足と同じくらい?)」


ミユイの23cmのブーツを横に添えて、大きさに大した違いはない。


「(…行こう)」


銃のセーフティが解除されている事を再確認して、褐色のボールを辿る。

廊下の曲がり角は、今までより一層暗かった。

























「んっ…ぁ~疲れた。 …これでいいかな、もう」


汚れた雑巾を手にぐっと伸びをする。低い姿勢で床を拭いていたせいか、体の節々が軽くこきっと音をたてた。


ひとまずあふれてきているゴミを袋に詰め、ぼろぼろの箒でカラーボックスをはたいて窓を、棚を、床を拭いた。

シュラフとウェルカムマットは隣の空き部屋に干し、改めて部屋を見ると本当にここに住めるような気がしてくる。


「―――まぁ、ひとまず今日は一夜の宿ということで…使わせてもらうね」


さすがにこの部屋に住み着くのはどこか罪悪感があったし、他にいい空き部屋があればそっちを使うつもりだ。 いい部屋は今ごろ、ミユイが探してくれているはず…


そろそろ窓を閉めよう。端からきれいになった窓をひとつひとつ閉じていく。


「…」


窓を開ければ見えてしまう、白いリボン。

心霊やスピリチュアルは信じない主義だが、不思議と何か意識してしまう。




「ごめんね」


窓を閉め、窓の鍵も締める。ひとつ隣も、念のため。







雑巾を絞って、濁った水を捨てにトイレへ行く。

水道はかろうじて生きている。飲むには煮沸を要するがこれは幸運だった。


「―――にしても、ミユイはどこまで見に行ったんだろ」


ちょっと怒らせてしまったから、機嫌を悪くして遠目の場所へ行ってしまったのだろうか? それともどこかの部屋で籠っているのかもしれない。

秘蔵のみかん缶を献上すれば、許してくれるだろうか…?

それも頃合いを見て上手に出さないと、隠していた事を咎められる…


トイレから借りた掃除用のバケツを返却し、雑巾は適当に干しておく。

最後に手を洗って、ぴっぴと水を払った。


「そろそろ陽が傾いてきたかな?先にボクの荷ほどきでもして―――」










異物。

廊下の先に、さっきは気づかなかった何かがある。



はじかれたように急いで部屋に戻り、愛銃と弾倉を掴む。

ボルトを開いて弾倉を押し込み、ボルトを閉鎖する。


―――もう一度さっきの場所に戻る。陽の光の角度が変わり、今まで気づいていなかったものが鮮明に影を生やしていた。


周囲に敵は…誰もいない。


「何だ、これ?」


銃口でつついても、特に反応はない。

ただ、ぐにっ と押されて歪み、離せば元に戻る。

褐色で、グミのような感触をしている。どこか生々しいそれは、ただただ異様で、少なくとも普通にあるべきものではない事だけは理解できる。


「誰かの落とし物?…な訳ないよね。見た事ないし、食べ物ではないし…」



そうしてしばし観察していたその時。

それは…突如びくっ と脈動した。


「ッ!!」


銃口を向け、引き金に指をかける。

…気のせいか? 否。確かに動いた。

 

床にぴったりと張り付いたままの其れは、再び沈黙した。

まだロスミークの心臓は、強く拍動している。

さっきまで物言わぬ塊だったそれが、今はとにかく恐ろしくて堪らない。


こんなものは見たことがない。ただ、それでも確信は揺るがない。

人間の落とし物じゃない。まだ、生きている―――




「これは…!」



疑念が確信に変わり、引き金にかけた指にぐっと力を入れようとしたその瞬間。

遠くから、聞き慣れた三点射バーストの銃声が耳を衝いた。





























蟲。

それはある日突然、人類の前に現れた。

大地からどこからともなく湧き出し、一言の苦言も呈さずに進み続け、ただ赴く先のすべてを喰らい尽くす。


それを人間は戦争に使った。

食料はいらない。弾薬もいらない。士気向上の必要もない。

これ以上ない、都合のいい生き物のように見えていた。


ただ、どうして気づかなかったのか。

人間は、蟲にとって獲物の一つでしかに事に。




蟲にとって、人間の街は食べ放題ビュッフェ形式。

金属が走り回る戦場よりも、もっと美味しいものがある所へ行きたい。

そう思うのは、蟲も同じだった。












「っ…!」


素早く後ろに飛び退く。ブーツの縁で強く床を蹴り、重心と共に体が動く。

そしてほんの一瞬先まで自分の体があった空間に、上から巨大な爪が振り下ろされる。


獲物を空振った爪が深々とリノリウムに突き刺さる。

引き抜こうとしたその反動で仰け反るのが見えた。と同時に引き金を引く。


やや強い反動を肩当てで受けて、上に暴れる銃身を左手で抑える。

耳をつんざく装薬の破裂音が重ねて三回。と共に7.62mmの凶弾が三発、眼前の巨躯に吸い込まれていく。


「うそ…!?」


角度のある外骨格に守られた体は、3発の鉛玉のベクトルを変えてしまった。

かすかな傷だけを残して態勢を直し、大きな複眼がミユイを捉える。


「しまっ―――」


そして弾の行方を見守っていたミユイに、一本の触角が横薙ぎに襲い掛かる。

本来の昆虫には存在しない器官は、いつも想定外の動きをかれらに与えた。



まずい、攻撃が来る。

すでにミユイも自身に迫りくる触角に気づいた。もう遅い。


体感時間がスローに流れる。思考だけが倍速で繰り広げられる。

急いで避けないと―――だめ。避けられない。

足に力が…ようやく入った。でもまだ体が動こうとしない。


なんとか受けないと―――腕はもう意識より早く動いていた。

もうそこまで来ている。銃を握った両手で体を守ろう。

間に合うだろうか?ぎりぎりかもしれない。

いや、間に合わない―――!



「ぁ゛ッ…」


ミユイの細い脇腹を、節のある触角が打ち据える。

その勢いのまま振りぬかれた触角によって足は地を離れ、廊下の壁に激突したと理解できたのは…ずるずると体が壁伝いに倒れた後だ。




「ぅ゛ げほッ、がはっ―――ぉ、げぇ」


息ができない。はらわたがひっくり返った気分。 

まだ体に残る衝撃で、肺が押しつぶされそうだ。

全身から痛覚のシグナルが、今になって一斉に伝達される。

 

痛い。

痛い。

痛い。

痛い。

 

そのショックで意識が一瞬途切れ、痛みで意識が強制再起動される。

思考回路は今にもショートしそうだ。





まずい、奴が来る。

止まらない痛みの信号に混じって遠く聞こえてくる、不快な足音。

発音器官が絶えずカチカチと細かい音を刻んでいる。



早く、目を開かないと…

目蓋の痙攣が徐々に治まっていく。今なら…

ぴくりぴくりと震える眼に力を入れる。視界に光が見えてくる。

睫毛が光に透けている…もう少し。目を、開く。






―――死ぬ?


視界に覆いかぶさる大きな影。

鼻を刺し穿つ強烈な腐敗臭と、汚れた土と水の臭い。

体表に纏わりついている変異したコケ植物が脈打ち、胞子嚢は不気味に蛍光している。


頬に生暖かい液体がぽたりと滴る。

粘性のあるそれはゆっくりと輪郭に沿って流れた。



―――ここで終わり?



もはや恐怖は消え去った。それと引き換えに、絶望を識った。

迫りくる運命と、首筋に冷たい鎌が当てられるようなイメージを感じた。




 


ああ、旅はここで終了。記録はここまで。


セーブなしにしてはよくやった方だと思う。

そろそろリセットして、今度はもっとましな世界にスポーンしよう。

少なくとも昔のような、目覚めたらあたたかいベッドに居る世界に。



意外とあっけなかった。

いざ実際に死が目前にやってくると、人はすんなりと受け入れられてしまうらしい。 


でも、最後の最後まで叫びながら喰われた人も居たっけ。

だとしたらまだ運がよかったのかもしれない。



ああ、一人で突っ走るなんてらしくない。

こういう役回りはいつもロスミークなのに、いざ今回は自分の番。


最後に見た顔がにまにま笑った、からかい顔なのは正直いやだ。

でも元はと言えば、彼女が悪い。そういう事にしてしまおう。


二人で探索すればこうはならなかっただろうか。

そういえば普段はお調子者の癖に、勘はすごくよかった。 

今となってはもう遅いけれど。


こいつ、ずっとここに巣を作っていたのかな。

あの娘もきっと、こいつに喰われたんだ。


『無事だといいね』なんて、よく言う。

結末なんてわかりきっていたくせに。



ロスミークはまだ掃除でもしているんだろうか。

あの部屋も、きっとこうしていつしか埃を被った。


そして、陽の光が差し込む窓の先に楽園を見たんだろう。



















―――窓の、先?


突如、自分のものではない死の香りがした。

ひとつだけ開け放たれた窓に、一陣の風と共に。

ひどく孤独で、安らかで、救いがたい死の香りが。


窓の向こうに影が差す。

いつでも隣にいる、最愛の、たった一つの影が。



だめ。

いかないで。

これは誰の声?


声が届いていない。 

影はスローモーションでゆっくりと頭から後ろへ倒れ、そのまま―――

だめだ、だめだ…やめろ、いかないで。

















手に力が入る。

指も動く。掴める。


右手が何かを掴んでいる。

慣れ親しんだ、木製のグリップだ。

トリガーを人差し指で探す。あった、これだ。

動ける。

まだ、動ける。



「ぅ、ぁぁああああ"あ"あ"あ"あ"#*!」


力いっぱいにすべての指を握る。

右腕に反動がそのまま伝わり、新たな痛みを感じる。

愛銃が三回の銃声で応えた。

そして跳ね上がった銃口が偶然にも、奴の腹部に突き付けられているのが霞む視界に映った。


「ッ―――は、ぁああっ!!」


再びトリガーを引く。強烈な反動が右腕をまっすぐ押し返し、銃床が眼前に迫る。

左腕も動いた。両腕を使って銃を全力でホールドし、反動を殺す。


弾丸は腹膜を突き破り、銃創からは茶褐色の体液があふれる。

まき散らされたそれをもろに顔面に浴びる。

ひどく臭い。鼻が曲がる。

でも確かに当たった。


今だけはこの銃がフルオートでない事が惜しい。

けれど今は思考するそんな時間が惜しかった。


暴れ回る銃身を力で抑え、背中を地面につけたまま引き金を何度も引く。

そして鉛玉は三発ずつ、奴の胴に吸い込まれていった。


覆いかぶさっていた巨体が、すさまじい断末魔のような音を放ちながら飛び退く。

今まで遮られていた夕陽が視界を暖色に染めた。



身体が動く。

上体も起こせる。

痛みは不思議と感じない。


あたりは一面奴の体液で濡れて、滑りやすくなっている。

残弾をすべて叩き込んだのは流石に痛いようで、奴はまだ態勢が立て直せていない。


今しかない。奇跡的に生まれたこの時間。

地面に手をついて素早く立ち上がり、一瞬でも姿を隠せる物陰に入った。





奴は傾いた太陽を背にしていて、ここからでもその影で動きが見えた。

こちらには向かってこないものの、まだ生きている。こっちを見ている。


影から目を離さずに愛銃をリロード。

空になった弾倉を投げ捨て、30発の弾丸を装填した。


奴はまだ動かない。相当の傷を与えたようだ。

それでも、かれらは総じて自己修復が早い。放置すれば、ロスミークにも危険が及ぶだろう。

ならやるべき事は一つ、ここで決着をつける。




胸元のポーチをさぐり、”死のパイナッ手榴弾プル”を掴む。

それはおよそ食用には向かない、食らった者を肉片へと帰す鉄の果実。


影はまだ動かない。もう息絶えたのだろうか。

―――いや、違う。まだ生きている。

あの程度で死ぬなら、人類は沃土に追われていないのだから。






手榴弾は手に持ったまま、さっき足元に捨てた空のマガジンを拾う。

返り血…体液でどろどろに汚れたそれは、もう弾倉として使えない。

―――それを、影を頼りに投げつけた。



その瞬間、影が力強くこちらに跳躍した。

やはり死んでいない。まだ生きている。

それどころか、ミユイが出てくる瞬間を狙っていた。


マガジンは虚しく地を滑り、狙っていたところに転がっている。

そして今、奴はさっきまでミユイがいた隣の壁…廊下の突き当りに激突していた。



「これでも…食らえっ!」



 

ミユイはすでにいない。

そこから10mほど離れた場所で、安全ピンを人差し指に掛けていた。 

手に手榴弾は無い。それは今、奴の腹の下に転がっている。



 

幸い、すぐ近くの扉が開いていた。

もしこれで倒せなければ、今度こそ確実に負ける。この部屋に入ればそれこそ、袋のねずみ。


それでも賭ける。たった一つの勝ち筋に。もはや一度失ったはずの命だから。



手榴弾が炸裂するより早く、ミユイが部屋に飛び込んだ。




その直後、爆発と共に廊下を衝撃波と鉄片が突き抜ける。

そしてさっきよりひと際うるさい金切声が立ち、やがて止んだ。














すぐに銃を構えて扉から様子を伺う。

そこにあるのは、ピクリとも動かなくなった醜い巨躯。

―――それでも、油断はできない。



セレクターを単発に切り替え、狙いを定めて、頭部に一発だけ撃ち込む。

―――なおも動かない。どうやら本当に、仕留めたようだった。



銃口を下げて、一息をつく。セレクターは忘れず三点射に。

とたんに全身を再び痛みが襲い、疲労感も相まってその場に座り込んでしまった。


これほど間近に死を経験したのは、こんな世界とはいえ初めての事だった。

その事実が今になって心を揺さぶり、恐怖が食道からせり上がる。




「ぅ、ぷ… ―――ぉえ、げほっ、げほ」


強烈な吐き気がするものの、胃の中はほとんど何もない。

ただただ胃液が喉を焼き、つんとした臭いが内側から鼻をついた。

















少し嘔吐えずいた後、ふと顔を上げた。




「―――ぇ」




蠢いている。奴のなきがらが。

それは内側に何かが居るように不規則に形をゆがめ、耳を澄ませば何か…小さく何かを食い破るような音が無数に重なっていた。



ここに居てはいけない。

竦む脚を再び奮い立たせ、銃を杖にして立ち上がる。

早く、早くここから去らなければ。



かれらは、その脆い心を嘲笑った。

巨大な骸の背が、真ん中で二つに引き裂かれた。

そしてそこから、小さな何かが落ちた。


蟲だ。


一匹。二匹。四匹。八匹。

手のひらサイズの幼虫…と言っても、それはすでに歩行し、群れを成している。

奴は腹に、無数の子を孕んでいた。

床は真っ黒に蠢き、ミユイの足元へと迫りくる。




「…こないで」


 

銃を構えて、黒い絨毯に向かってトリガーを引く。

何度も、何度も。規則的な三発の銃声が響く。

その度に三匹の蟲がかけらをまき散らして息絶える。







―――カチ カチ



「うそ、だよね…」


やがて撃針が薬室を空撃ちする。

予備の弾倉は、もうない。撃ち尽くした。


「はやく、にげないと」


おぼつかない足元のまま、一目散に駆け出す。

ただ遠く、少しでも遠くへ。
























「…ぁ、はは。 冗談、ひどいよ」


たどり着いたのは一枚の鉄扉。別棟へ繋がる渡り廊下だ。

閉まった扉は、少しでも時間稼ぎができる。

蟲がミユイに迫るまでの時間を。




「おねがい、開いて、はやく」


元々鍵はこちら側にある筈だった。だがそのツマミは破壊されて、鍵は開かない。

ガチャガチャとドアノブを回す。叩く。

その度に分厚い扉は音をたてるも、か弱い少女の力の前では微動だにしない。


「いやだ、まだ死にたくない。開いて、あいて、よぉ」


無駄だとどこかで理解しながら、爪をたてて鉄扉を引っ掻く。

甲高く耳障りな音が鳴る。ただそれだけ。



背筋が凍り付くような気配に、振り返る。

―――来た。そして、見つかった。


無数の節足が歩む音は、互いに重なり合ってどろどろと鳴る。

そしてそれは間違いなく、さっきの倍以上に膨れ上がっていた。


「ゃだ、いやだいやだ嫌だ。

 こないで、おねがい…

 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」


目から涙があふれる。怖い。全身が震える。

全身の力が抜け、なにもかもが堰を切ったように零れた。



ついさっきまで死に方の運がいいとか悪いとか、死を受け入れるだとか悟った風に考えていた自身が憎くてたまらない。

これはきっと罰だ。

この腐れ切った世界に見切りをつけた罰。

見切りをつけて、無法の世界で人を殺した罰。

たった一人の親友と自分の心に嘘をついて、また身勝手に突き放した罰。






それでも、最後だけでも彼女に。

たった一瞬でもいい。会いたい。








だから

だれか。


か細い声が、虚空に浮かぶ。







「―――たすけて」




















ガン!



「っ!?」


背を預けていた鉄扉が、強い力で叩かれる。

つい咄嗟に扉から離れるも、廊下からは蟲がやってきている。

まさか、向こうにも居る…?

行き場所をなくし、どっちつかずのまま廊下の壁にへたり込んだ。


ガチャッ、ガチャガチャガチャ


…ドアノブを掴んでいる音。



―――それにまさか、この音は。






コツ と鍵の向こう側で、何か金属があてがわれる硬い音がした。








まばたきをした次の瞬間。

特大の破砕音と共に鍵があった場所から火柱と硝煙が突き出し、鍵だったものは金属片となって床を叩いた。



「よしっ!」


鍵が吹き飛んだ跡の穴から、最愛の仲間の声が聞こえる。

ドアノブが回されたかと思うと、実に乱暴に扉を蹴っ飛ばすロスミークの姿が飛び出した。



「あっ、いた!…よかったぁ」


ミユイの姿を見て次に、奥からどろどろと迫る蟲に目を遣る。

すぐにボルトを開放して、小脇に抱えていた弾倉を装填。

引き金を引くと、無数の散弾が床もろとも群れの先頭を抉り取った。



「ろす、みーく?」

「ミユイ!動ける?とにかく一旦逃げるよ!」


追い打ちとばかりにさらに二回、続けて引き金を引いて群れを散らした。


「ほら、しっかりつかまって!」


蟲の体液にまみれたミユイに躊躇することなく肩を貸し、二人で走り出す。


これは夢だろうか?今走っているのも、どこかおぼつかない。

夢なら覚めないでほしい。このまま、二人で―――















「とりあえずこの部屋!入るよ!」


気づけば別棟の、とある部屋に二人でもつれ込んでいた。

見たところ何もおらず、部屋の中にはいくつかのずだ袋が転がっている。



「ここなら多少の猶予がありそうだね。ミユイ、何があったの?」

「ぇ、…あ」


「あ~…、うん。よし」


目まぐるしい展開に、頭がヒートしている。

それとは別に、さっきまで泣き腫らして赤い目元や、やけに湿っぽいスカートを見て大まかに察したロスミークが、ミユイをぎゅっと抱きしめた。


「ミユイ、ほら。わかる? ボクだよ。ロスミークだよ」


かれらの体液など気にせず、体をしっかり引き寄せる。


「もう大丈夫。よく頑張ったね。 ほら…ちゃんとここに居るよ」

 

すっかり汚れたミユイの手を握って、自分の頬にそえる。


「もう怖くない。二人一緒なら、絶対に…ね?」


ぱっと花が開くような笑顔。

最愛の仲間だけが見れる、大輪の花。


「ロスミー、ク」

「うん、ボクだよ」

「おおきな蟲が、いて…それを殺したら、あれが」

「そっか、お疲れ様。頑張ったね」


片手でミユイの頭を撫でる。

いつもなら照れくさそうにして払いのけてくるのに、今はされるがまま。


「じゃあ、一緒にあれも殺ってしまおう。大丈夫。方法は考えてあるから」

「―――できそうかな?」


やさしく、それでも真っすぐに見つめる。

それに応えて、ミユイはうなずいた。


「よし!…じゃあ作戦を教えるね。時間がないから走りながら!行こう」


ミユイの手を取って、力強く立ち上がる。

扉から周囲の安全を確認してから、ある場所へと向かった。













長い廊下を駆け、いくつもの扉を通り過ぎる。

今は3階。荷物を置いたのは5階の端の部屋。正直今すぐにでもこの建物から離れたいが、もし荷物を回収なんてしていたら今度こそ二人で追い詰められてしまう。

かと言って、あれらを全て諦めて待っているのも死だ。

その事は語らずとも、二人は重々理解しているだろう。今はただ、なすべきことの為に走り続ける。




「ミユイ。ここに来たばかりの時に、外にプレハブ小屋があったの覚えてる?」

「…うん」


立ち並ぶ建物から少し離れた場所に、物置のような小屋がひとつあったはず。

二人は手分けして見ていて、そこを見ていたのはロスミークだった。


「あそこはいろいろな備品の倉庫になっててね。食料とかじゃなくて、他の物がたくさん置いてあったんだけど…中がガソリンとか、灯油みたいな臭いがしたんだ」


「ストーブとか草刈り機もあったから、たぶんそれに使う用で備蓄してたんだろうね。―――あったとしても古いから灯油も腐ってるとは思うけど、たぶん…まだ燃えるには充分な状態なんじゃないかな」






「ねぇ、まさか」

「そのまさか、だね」


立ち止まって目を見開くミユイと、それにいたずらっぽく笑って答えるロスミーク。


「ボクの前科に、放火もプッシュし賭け ちゃうよ」






言葉を失ったミユイを、再び手を引いて走り出した。

階段を下りて、この建物の正面玄関を目指す。

道中にはやはりいくつもの汚れがべっとり付着している箇所があり、この建物全体が奴のテリトリーであった事に今さら気づかされる。






「…すごい、まだ追ってきてるね。一応撒けるかなと思って色んな道を通ったけど、本当にしつこい奴らだ」

 

長い廊下を通り抜けてふと後ろを見れば、群れの先頭がこの廊下に差し掛かろうとしている所だった。

ご丁寧に今まで二人が通ってきた道を辿って追いかけてきている。視覚よりも嗅覚を頼りに、追跡しているようだった。



「ミユイ、角に隠れてて。投げるから」


ミユイが曲がり角に身を隠したのを確認する。

手榴弾を取り出してピンを引っこ抜き、安全レバーをしっかりと握ってホールド。

やや遠い。

転がる事も想定して、全力で投げ飛ばす。


「足止めくらいにはなる…かなッ!」


すぐにミユイと同じように角に隠れる。

山なりの軌道を描いて投擲された黒いパイナップルは、空中でレバーが外れて床に落ちた。

そのまま勢いで転がり、ちょうどかれらの群れの先頭が近づいた瞬間。炸裂とともに廊下全体を衝撃波と破片が襲った。




「よし、ちょっとは効いたね」


角から顔だけさっと出して様子を伺う。

ただやはり、まだかれらがひしめく音が聞こえる。

所詮は足止め。あとは少しでも数を減らせれば御の字だ。




「よし、行くよ!」

「うん」











あと少しで正面玄関に辿り着く。

ここまででもずいぶん長い道のりで、綱渡りのような逃避行だった。 

僅かにタイミングが狂えば、どこかで死んでいる。そんな死と隣り合わせの世界。


それでも二人なら。きっとどこまでも生き延びられると信じて、ここまで来れた。




「ッ、くそっ!」


数メートル先に、人間に近しいサイズの蟲が立ちはだかる。

こいつは群れの奴じゃない…おそらく沃土から湧いた奴だ。こんな時に限ってツイてない。


数は2体。廊下を塞ぐように並んで立っている。幸い動きが遅い奴だが、さすがに脇を抜けるのはリスクが高すぎる…



「ミユイ!これ!」


胸に押し付けるように渡された、湾曲した弾倉。

愛銃のものだ。迷うことなく受け取る。


マグキャッチを解除したまま、予備の弾倉で空の弾倉を弾き飛ばす。

一秒でも早く。マガジンを強く押し込んで、コッキングする。



鈍く瞬いた照星が、醜悪な体躯を捉える。



「通してもらうよ!」

「じゃま、しないでッ!」


二つの銃声が同時に反響し、音よりも早く鉛の雨が降りかかった。















「よし、出口だ!小屋はこっち。ついてきて!」


すでに南の空は緋色に染まりかけ、北から藍青のとばりが迫りくる。

後ろは見なくてもいいだろう。信じたくもないが、きっと一途に追ってきている。


わずかに離れたところに、プレハブの小屋が一つ見えた。

近くで見ると思っていたより大きく、学校の運動場にある体育倉庫よりも一回り大きいくらいだ。

シャッターは重い金属製で、鍵は掛かっていない。


「ごめん、開けるの…手伝って!」

「うんっ」


二人がかりで押し上げて、人ひとり入れる程度に開ける。

中に入ると、確かに鼻を突く燃料の臭いがした。


中は棚と、そこに置かれた備品が埃を被っている。

主に農作業の道具など、普段は使わないものを保管する場所だろう。

奥には両開きのスライド鉄扉がある。


そして隅に、赤い金属缶と青色のポリタンクが並べられていた。




「いくらかはもう漏れ出して揮発してるね…ちょうどいいや」


赤い缶を手に取って蓋を外す。そしておもむろに、中身を倉庫の隅へぶちまけた。


「ミユイも手伝って!早くしないと奴らが来る!」


はじかれたようにミユイもタンクを持って、自分にかからないように中身を撒く。

倉庫の中はより一層、いやなガス臭さでいっぱいになっていく。




ふと、来た道を振り返る。

するともう、さっき駆け抜けた玄関にはおびただしい数のかれらが居た。


「ロスミークっ!もうそこまで来た!」

「っ、ゆっくりはしてられないね。もう撒かなくていい!フタだけ開けておこう」


残る燃料缶のバルブを片っ端から開ける。それにしても、これが一気に引火したらはたしてどんな事になるのか…







「あ、そうだ」


ばっ とミユイの方を振り返る。


「下脱いで、今すぐ!」







「―――ろ、ロスミーク!?こんな時になにょ、なにを言って…!?」

「いいから早く!あとで説明するから、死にたくなければ早く脱いでっ!」


「~~~ッ!///」


ふざけた様子のない真剣な顔でそう言われ、しぶしぶ湿ったストッキングと下着をその場に脱ぎ捨てる。


その間にも、ロスミークは鞄から小型の爆弾をひとつ取り出して真面目に設置している。あれは…ちょっと前に拾った、リモコン式の爆弾だったろうか。




「―――ぬいだ、けど///」

「ありがとっ」

 

躊躇なく脱いだものを手に取って、シャッターから遠い床に置いた。

その動きには迷いがない。これも何か、考えがあるんだろう…。


「よし、こっちから出るよ!」


シャッターから反対側の鉄扉を開いて、ミユイを連れ出す。

ひしひしと近づくかれらを一瞥してから、重い扉をぴったり閉じた。












「付いてきて。奴らに見つからないように、陰にしゃがんで…」

「うん…」


かれらはそこまで目が良くないが、それでも用心しないと見つかってしまう。

一匹にでも見つかれば、群れは皆進路を変えて向かってくるだろう。







「―――よし、ここならよく見える。周囲も大丈夫だね」


ちょうど小屋のシャッターが見える場所まで移動した。

今にもかれらは小屋に入り、蹂躙しようとしている。




「まだまだ…奴らが全部、入りきるまで…」


ロスミークは手に、小さいリモコンを握っていた。

電源はON。あとはボタン一つで、さっき置いてきた小さい爆弾が起爆する。



群れの最後尾が見えた。

果たしてあれと正面からやりあって、勝ち目はあっただろうか。ミユイの銃は相性が悪すぎる。かと言って、ロスミークの銃でも弾がもたないだろう。


あの小屋の中がどうなっているかは、想像もしたくない。

さっきまで居た場所が、幾多の節足で満ちているなど。





「…全部、入った!ミユイ、伏せて!」


スイッチを押す。

ピー というビープ音が鳴った。

二人で身を低くして、来るであろう衝撃に備える―――








「うそ、なんで…まさか」

「不発…?」


数秒経っても、爆発は起きない。

爆薬が湿気ていた?それとも故障か、不良品か…


急がないと、せっかく一カ所に集めたのが去ってしまう。

小さくてもいい。火花さえ立てば…


「なんとかして、火花を出さないと…」


もう自分が走って行って、手榴弾でも投げ込もうか。そんな事を考えていた。



「火花…?なら、わたしがっ!」


セーフティを外す音。

 

そうだ、まだやれる。散弾は届かなくても、ライフル弾なら。

シャッターの近くに、金属製の棚が見える。


「!…ミユイ、あの棚を狙って!」


言い終わると同時に、まっすぐな銃声が短く3回。

暗い倉庫の中に消えていった弾は甲高い金属音を奏でる。


そして次の瞬間。

あたりは白昼のように明るく照らされて、空気が引き裂かれる爆発音がとどろいた。


「うぁッ―――」


ほぼ同時に熱を持った衝撃波が押し寄せ、体を起こしていたミユイは上体で受けてしまう。


「ミユイっ!」

「ッ、痛…ぁ」


銃を取り落とし、その場で倒れこむ。

幸い転んだだけで、衝撃でけがはしていなかった。


「大丈夫!?」

「ぅ、ん。それより、どう…なった?」


二人は小屋を見やる。

すでにそれは余すところなく炎上し、時折何かが破裂する音も聞こえる。


開いたシャッターから炎がちろちろと揺らめき、その隙間から蟲が這い出ようとしていた。

が、その躰は鋼鉄のシャッターに押しつぶされる。

防火システムがまだ稼働し、正常に動作したようだ。





わずかに収まったように見えた火の手が上がる。

ガソリンと混合した灯油が引火を始めたらしい。

その度に熱風が頬を撫でていき、ひと際大きい火柱が立つ。

小屋の中からは断末魔のような鳴き声がひっきりなしに響いて、最後の最後まで心を抉る。


そして再び爆発音が大気を震わせる。

ロスミークの設置した爆弾が、とうとう引火したようだ。






「―――やった、のかな?」

「…わからない」


それからしばらくして、火の手は徐々に収まってゆく。

空はほとんど暗幕が掛けられて、もうじき周囲の輪郭が闇にとける頃だ。

わずかにくすぶる炎に二人の顔が照らされる。


もう、蠢く音は聞こえない。

耳障りな呻き声も。


いきものが焼ける、形容しがたいあの臭い。

黒い煙が空に還っていく。





「ひとまず、終わったみたいだ」

「そう…だね」


がく、と膝が折れる。


「ミユイ!?」

「ぁ、ごめんね。なんか急に、ちからが…」


達成感か…それとも解放感か。

いろいろな感覚が混ざり合って、力が抜ける。


「大丈夫?立てそう?」

「うん、だいじょう…ッ、痛」

「無理しないで、ほら。よい…しょ」


忘れていた痛みが、じわじわと帰ってくる。

痛い。けれど、まだ生きている。痛みに顔を歪めるけれど、その裏でどこか安堵を覚える。


脇の下から腕を通されて、二人でゆっくりと立ち上がる。


「まだ、生きてる…?」

「大丈夫だよ。ほら、聞こえるでしょ?ボクの心臓」


おもむろにぎゅっと正面から抱きしめられる。

ぴったりと密着した体を伝って、二つの鼓動が互いに拍を刻んでいる。



「きこえる―――とっても、あったかい」


その規則的な音がとても愛おしい。

もっと聞いてたい。このままずっと。

ロスミークの胸に顔をうずめて、耳をあてる。


「んっ…ちょっと、くすぐったいよ」


すりすりと頬ずりするミユイの背をぽんぽん叩く。







「ほら、続きは後で!まずは体洗おう?」

「あっ…」


はっとして離れたミユイ。

べっとり付着した体液がミユイのみならず、ロスミークの胸元も汚していた。


「ごめんね、ロスミーク…」

「いいのいいの!二人で一緒に洗いっこしたら火の節約にもなるし、丁度いいよ」


「それより、まずは部屋に戻ろう。もしかしたら一匹二匹残ってるかもしれないし、部屋に戻るまでは、ね?」


「…うん」



銃を片手に、空いた手を握り合って歩き出す。


冷たい風が髪を撫でた。


「くしゅっ」

「あ~…そういえばミユイ、寒いよね」

「ううん、大丈…くしゅん」


すんっ、と鼻をすする。

そんな強がりをからからと笑った。



「ふふっ。ほら、早く入ろう。 スカートだってスースーしてるでしょ」

「…なっ」


思い出した。そうだ。

かっと顔が熱くなる。

非常事態とは言え、いきなり「下を脱げ」なんて。

もしロスミークでなければ、即座に頭を吹き飛ばしていた。


「どうして、あんなッ…!///」

「あぁ、待ってよ誤解しないで。説明するからセーフティは戻して、ね?」

「んぅ…っ」

「お願いだよ~…銃を突き付けられちゃ、びびって話もできないからさ」


カチ、とセーフティロックが掛けられる。





「で、なんで急にあんな事させたの…?」

「ほら、あいつらって目悪いでしょ。なのにあれだけぴったり追いかけてきたの、すごいと思わない?」

「何が、言いたいの」

「聞いた話、あいつらは嗅覚が鋭いらしいんだ。鼻はないけど、そういう器官があるんだね」



「つまり、ミユイの靴裏とかスカートから床に滴り落ちた、おしっ―――むぐ!」

「~~~ッ!!///」



銃が落ちる音の前に、手が素早くロスミークの口を塞ぐ。

今にも湯気が上がりそうなほどに紅潮した頬。羞恥のあまりあふれそうな涙。



「…ずっと、気づいてたの?」

「だって、扉を破ったらそこに水溜まりがあるんだもん…ボクは悪くないよ」


「それで、あいつらをあそこに留める為には仕方なく…ね?ほら、実際上手くいって本当によかったよ」

「…///」



無言で、力の抜けたこぶしを何度も叩きつける。


「何さ、もう…聞いたのはミユイでしょ」

「知らない…」



「着替えはあるし、部屋に戻ったら暖も取れるよ。実はこっそり灯油くすねてあるからね―――電気がいらないストーブだって見つけたよ」

「お風呂はどうするの?」

「さすがに浸かるのは難しいし、水浴びは寒いからね…

 とりあえずお湯を沸かして、ストーブにあたりながらタオルで体拭こっか」

「…部屋で?」


潤んだ目が、ロスミークを見上げる。


「なーに、今さら恥ずかしがってるの?もう全部見たことあるからいいでしょ」

「それはその、そうだけど…誤解を招きそうだからやめて…」











「ねぇ、ロスミーク」

「ん、な~に」


「………」

「…どうしたの?」


腕に抱きつく。

しっかりと離れないように、腕を絡めて。


「―――やっぱり、なんでもない」

「―――そっかぁ」











小さな二つの影が建物に消えてゆく。

陽は落ちて、南の空だけは雲間に紫色を挿している。


直上の黒い雲に、残された煙が吸い込まれてゆく。

そしてゆっくりと小さな灰

―――ではなく、真っ白なささめ雪がひとつ、ふたつと降って、大地に消えた。



真っ暗な建物。その一室の窓が、ぽぅっと暖かい色に灯る。

そこに二つの影が、ゆらゆらと映し出された。






この狂った世界でも、花は咲く。

 

祈りが天に届かずとも、祈りはあなたに届けばいい。


願いが大地に届かずとも、二人の足跡は残り続ける。



ここは地獄か、それとも楽園か。


たとえ地獄でも、二人が咲けば即ち花園。


まどろみの中でたゆたい、遠い日々を夢に見る。


あたたかな斜光とともに硬い床のシュラフで目を覚ます日々が、今日も始まる。


 

あなたがずっと、隣にいる事を願う日々が。


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