第十二話 退路はいずこ

 いっそ、一人で華子の部屋へ――。

 ほんの十間じゅっけんもない。一駆けで辿り着く。

 キヨが腰を浮かせた、そのとき。

「何人目だ」

 青年が、ぽつりと言った。

 声を張ったわけでもないのに、その問いは響いた。

 キヨは動きを止める。青年を注視した。

「何がさ」

 如月は階下より、青年をめつける。

「言わなきゃ判らないのか。本当に頭が悪いな。この子で何人目かって訊いているんだ」

「あーあ、お薬のこと?」

 調子を取り戻してきたのか、如月は胸を反らす。

「お生憎様あいにくさま。アンタもご存知のとおり、アタマが悪いもんでね。何人かなんて憶えてやしないよ」

 そして、ぞっとするような笑みを添えて続ける。

「いくらになったかは憶えてるけ」

 一閃!

 如月は、皆まで言えずに仰け反った。

「……あ、あ」

 ころりと転がったのは、またも、黒衣の青年の釦だった。

 如月は、よろよろと膝を付く。

 額を覆った指の隙間から、とろとろと赤いものが流れ出る。

「お前の血でも赤いのか」

 青年の声に、ハッと、如月は己の掌を確かめた。

「――ああッ! う、あ、」

 舌をもつれさせ、掌と青年とを何度も交互に見遣る。

「その様子だと、かなり広く裂けたな。――跡が残るぞ」

「顔、かお、かおが、アタシの顔が」

 如月は、恐慌に陥った。白く塗られた顔面は、徐々に赤く塗り替えられていく。

「ナイフじゃなくてよかったな!」

 青年は片頬でわらう。

「ボクは、お前のようなさかしらぶった女が、大ッ嫌いなんだ」

 ――と、

 キヨは視界に違和感を覚える。

 目の端が明るい。

 いつの間に、電灯が点いたのか。

しかし、キヨはそのことよりも、激昂する青年の方に気を取られた。

「教えてやるよ。お前は自分で思っている程、美しくなんかないぞ!」

 青年が、うずくまる如月に追い討ちをかける。

「自惚れもほどほどにしないと、身を滅ぼす――か。あの言葉、そっくりそのままお前に返してやる」 

 カチリという硬質な音がした。青年は気付いた様子はない。

 キヨだけが振り返った。

 都路が何かを構え、仁王立ちをしていた。

あぶなか!」

 キヨは叫ぶ。

 同時に、耳をつんざく音。

 とっさに横っ飛びをした青年の髪が、ザッとばらける。括っていた麻紐が切れ、隠されていたその耳が顕になる。

 キヨは見た。

 いったい、どんな目に遭えばあんな傷ができるのだろう。

 青年の耳には、汽車の切符のような切れ込みがいくつも刻まれ、耳朶みみたぶは半分から下がなかった。

 青年は、廊下の奥に向き直る。

 都路は、先程までの崩れ方が嘘のように、普段通りの威厳を取り戻し、両手でピストルを構えている。

「いつの間に」

 青年が、しんから驚き、問いかける。

 都路は無言で、銃口を擬する。

 カチリという、音。

 青年は、キヨの前に出ようと身体を倒す。

 ――キヨの動きが早かった。

「お、おい、こら、」

 面食らった青年が、慌てて手を伸ばす。

 届かない。

 都路が構えを改め、キヨに直る。

 キヨは止まらない。

 疾駆。

 爆音。

 キヨは都路へと跳びかかり、その太鼓腹目掛けて頭を突っ込んだ。

 どぉんと、派手な振動。

 都路は、見事、大の字に打ち倒された。

「……うぅ」

 ガクリと顎を上げ、目を閉じる。

「こら、おい、」

「――えへ」

 青年に抱き起こされたキヨは、照れ隠しに舌を出す。

「全く……、ほら、見ろ」

「――あ」

 青年が指し示したのは、丁度キヨが踏み切った辺りの床板だった。木製のそこに、銃弾がめり込んでいる。

「危なかったな。――それはそうと、どうしてこいつはここにいるんだ?」

「あ、そうか」

 キヨは手を打った。

「奥に、華子様の昇降機エレベーターがあると」

 青年が、溜め息をついた。

「……そういうことは教えてくれ」

「忘れとった」

 ごめんなさいと、キヨは頭を下げる。

 床の上の都路と目が合った。

「!」

 キヨは、反射的に後退あとずさる。

 状況を察した青年が、キヨを横抱きにした。

 真横にあるドアーノブを回す。開いた。

 青年は素早く逃げ込むと鍵を掛け、キヨを下ろし、窓辺へと向かう。

「何てことだ」

 窓は嵌め殺し。

 ここは、キヨに宛てがわれた部屋だった。

 青年は、外に向かい目を凝らす。

「しかも裏庭か。参ったな、ここからは確認ができない」

 ノブが、ガチャガチャと鳴った。

 キヨは、青年の傍に走る。

 ダンッ、ダンッ。ドアーが揺らいだ。体当たりだ。

 そして、またあのカチリという音。

「伏せろ!」

 青年がキヨの上に覆い被さる。

 轟音。

 青年の腕の隙間から、恐る恐るキヨは入り口を見る。ノブ横に弾孔が開いていた。

「マズい」

 俊敏に起き上がると、青年は椅子を掴んで振り上げ、窓に叩き付ける。

「伏せてろ!」

 硝子が砕けた。同時に、また轟音。

 木片が四散し、大きく穿うがたれた穴から都路の分厚い掌が、にじにじと這い出る。

 キヨは、それを見てしまう。

 笛のような声が、喉から迸った。

 太い指が鍵を探り当てたところで、キヨの身体が浮き上がり、視界が回転した。

 青年が、再びキヨを抱き上げたのだ。

「しっかり捕まってろ、絶対に離すなよ」

 言われたとおり、キヨは、力の限り青年の胸にしがみ付く。

 青年は空いた方の手の、人差し指と中指を真っ直ぐに立て、唇に押し当てた。

ピーという甲高い音が、辺り一面響き渡る。

「ナナオ!」

 破った窓から、青年は絶叫した。

 ナナオ――って、お馬さん、と、キヨは首を巡らせ、外を見る。

 ――チキ、

 金属の擦れる音。

 太い指が、鍵を開けた。

 キヨは青年を仰ぐ。

 青年は、真っ直ぐに、森のある一点を見詰めていた。

 片頬で笑って。挑戦的な眼差しで。

 そして、彼は窓枠の上に片足を掛ける。

 刹那。

 垣根から裏庭へと、黒い大きな影がサッと躍り込んできた。

 ドアーが開く。

 青年が、窓枠を蹴った。

 キヨは青年の肩越しに、銃口をこちらへと向ける都路を認めた。――が、それは上方へと流れ――落ちる――、キヨは目を閉じた。

 ガクンと衝撃。昇降機など比ではない。

 青年は、一旦、ひさしに着地すると、そこから軽く飛び上がり、とんぼを切った。

 再度、衝撃。

 一瞬ののち、軽い、覚えのある振動。

「ナナオ、上出来だ」

 青年の声に、キヨは目を開ける。

二人の身体は、青毛の馬の背にあった。

 立ち止まることなく、ナナオは現れたと同じ森の中へと駆け戻る。

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