第十話 絶体絶命
どうしても母の顔を思い出すことができない。
キヨは、村を出てから一度も、母の顔を瞼に浮かべたことはなかった。浮かべることができないのだ。
戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手。
別れを惜しむどころか、手放すのが当然だといわんばかりの口調。
一人になると、それだけが思い出されてならなかった。
華子のことを想い、華子の名を呟くことで、それから逃れようとしていた。
いつしかそれは努力ではなくなり――。
いつしか華子は大切な人になっていた。
「いや、離しち! 離しちください!」
地下室。
窓ひとつない部屋に、悲痛な叫びが響き渡る。キヨだ。
「キヨ子ちゃん、君は華子のことが好きだと言ったじゃないか。華子の為なら何でもすると、言ったじゃないか」
「言いました、でも、」
「でもじゃない! 華子の病気には、子供の
「でも、でも死ぬのはいやです!」
「大丈夫、肝を取るまでは殺さないよ。生肝じゃないと薬にはならないんだからね」
「いやあ!」
キヨは自分を掴んでいる、都路の手を引っ掻いた。つい昨日、華子に切ってもらったばかりの、短い爪。
「あ、ちくしょう!」
哀れ、キヨは都路に突き倒され、冷たい
鼻の奥に刺さるような異臭。キヨは、鼻血が出たのかと思ったが、違った。
どうやら、これは床から臭ってくるようだ。よく見れば、一面に、どす黒い染みが広がっている。
「如月さんが上手くやってくれるから、大丈夫だよ。きっとそんなに痛くないよ。あの人は名手なんだ」
「いやです、やめて、都路様、そぎゃんこつ」
「君は嘘つきなのかッ、ええ?」
キヨの言葉を遮り、都路は足を踏み鳴らす。
「うんにゃ、そぎゃんこつ、なか……。そんなこと、ありません」
健気にもキヨは、この場においても華子への気持ちを諦めることはない。
都路の大きな足が、床に乱れたキヨの髪をガツガツとにじる。鼻先からは、ほんの三寸も離れていない。
キィ。
扉が開き、パタパタという草履の足音。
「すっかりお待たせしたわ」
床の異臭と、汗と白粉の混じった不潔な臭いが交わった。
「如月さん、遅かったじゃないか」
都路は地団太を止める。その口調には、甘えているような含意があった。
如月は乱れた髪を整えるような仕草を見せ、態とらしく襟元を掻き合せる。
「ホホホホ、ちょっとごたごたをね、もう一安心よ……あら、なんで服を脱がせてないのよ」
如月は、床に横たわるキヨを見るなり、都路を
「だって、この子、暴れるんだ。酷いもんだよ、まるで山猿だ」
手の甲に浮かぶ
「暴れるったって、たかが知れてるだろう。なんだい、その図体で。その服は次の子にも使うんだ。汚してもらっちゃ困るんだよ。ほら、いいから早く台に乗せな」
「ごめんよ、ちゃんとやるから、そんなに叱らないでおくれよ」
都路は肩を
「――っ」
キヨの
その台は滑らかな金属でできていた。形は
キヨは不安な思いで、辺りを見回す。
――妙なものがあった。
突起だ。
台と同じ金属製で、半円形をしている。
目線をずらす。
反対側の端にも、同じものが。
首を巡らす。
やはり同じものが。
四方に一つづつ、それがある。
「何してるんだい、足だけ嵌めるんだよ。バンザイさせて脱がせりゃいいんだからさ」
キヨは悟った。
その突起は――
「わ、こら、暴れるな」
「いやあああ!」
キヨの口から、
「黙れ黙れ、は、華子に聞こえてしまう。――ねぇ、如月さん、手伝っておくれよぅ」
「あー、もう、ほんッとうに役立たずだね、お前は」
如月が歩み寄ってきた、そのとき。
フッと、電灯が消えた。
「ああっ?」
都路の間抜けな声が、暗闇に溶ける。
「いちいち情けないね、停電だよ。何だい、こんなときに。……蝋燭があったろう?」
「ここにはないよ。居間の方にしか」
「あー、もう! 気が利かないったら、ありゃあしない」
甲高い悪態と共に、パタパタと草履の足音が遠ざかる。キィと扉の音、空気の動くぶわっとした気配。如月は、そのまま階段を昇っていったようだった。軋みは一回のみ。
どうやら、扉は開け放しのままらしい。
「ああ、弱ったぞ。如月さんを怒らせてしまった。これじゃ、華子が助からないかもしれない」
嘆く都路。衣擦れの音。またも手足をばたつかせているのだろうか。
キヨは、この隙に逃げるべきか逡巡した。
――華子様を、助けたい。
それは本心だった。
生肝を取られるのは、もちろん嫌だ。
痛いに決まっているし、怖いし、何より、自分は死んでしまう。
――きっと、わたしの傍にいてね。
自分の死を華子が望むわけはないと、キヨは承知していた。
だが――生肝を薬として、華子が健康になれるのが本当だとしたら。
友達なら、替えは利く。
薬なら……?
キヨは、小さく頭を振った。
――指切りげんまん。
華子がそれを望むわけはないのだ。
友達を――しかもその命を――犠牲にしてまで生き延びることを、華子は決して良しとはしない。そういう重い話を交わしたことはなくても、キヨには解っていた。
都路は、何やらブツブツと繰り言を呟いている。
逃げるなら、今だ。
尻を浮かせる。
突然、湿った土の匂い。
「――ひっ」
温かく平たいものに口元を覆われ、キヨは息を飲む。
「シッ」
キヨの耳元に、軽い吐息と、
「静かに。――助けに来たぞ」
黒衣の青年の囁き声が。
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