第八話 如月の正体

「如月さん!」

「助けに来たわ、キヨ子ちゃん」

 如月は、キヨを華子の元へと連れてきたあの日と同じ、青みがかった白い着物を着ていた。

「ふん、車の運転もできたのか」

 突っ込んできたのは、自動車だった。キヨを乗せてきた、あの――。

「運転手は、いつも居るわけじゃないのよ。どうせお馬さんと一緒だろうし、森ン中をずっと行くのは無理だってことは読めたわ。ここらはアタシも詳しいのよ。出てくるなら、まずここだろうってね。挨拶代わりに、驚かせようって思ったんだけど、ちょっとやりすぎたかしら」

「お転婆なんだな」

 青年のその言葉に、如月は、あらイヤだとたもとを振って莞爾とした。

「知ってるか。お転婆ってな、転ぶ婆ァって書くんだよ」

 青年が片頬で笑い返す。

 如月の顔から、拭ったように笑みが消えた。

 青年は続ける。

「――今度こそ。二度と起き上がれないようにしてやる」

「…………」

 如月の、紅で彩られている唇が醜く歪む。

と、初めてキヨを見付けたように、さも痛々しげな表情かおを作る。

「可哀そうに、キヨ子ちゃん。今すぐ助けてあげましょうね」

「馬鹿言うな! 助けるのはこっちの仕事だ」

 青年の空いている方の腕が、サッと空を切る。

 白い輝きが、一直線。

 如月は袂を振り上げる。

 輝きは打たれ、羊歯しだの生い茂る地面に落ちた。

 その正体は、銀色のナイフ。

「――ふん、まだあるぞ」

 如月を睨み付けたまま、青年は上着の裾に手を差し入れる。

「おお、怖い。いったい何本仕込んでるのやら――ねぇ、キヨ子ちゃん、華子様が大変なの。キヨ子ちゃんが攫われたショックで、ご病気が悪くなったの。お可哀そうに、床にかれてうんうん唸っているのよ」

 華子様!

 キヨは、ありありと思い出す。

 目を見開き、悲鳴をあげる華子を。

 薄緑色に浮腫むくんだ顔が、一気に血の気を失う様を。

 ――指切りげんまん。

 傍にいると約束したのに。

 途端、キヨの心に青年への怒りがたぎり、ぜた。

「バカァ!」

 癇癪と共に振り回した拳が、彼の喉の急所に当たる。

「ぐっ」

 黒衣の青年の腕が緩んだ。キヨは思い切って飛び降りる。少し遅れて、青年の手からナイフが滑り落ち、地面に刺さった。

 青年はキヨに対して、全く警戒していなかったこともあり、受け身を取ることもできずにくずおれる。

 逃れ出たキヨは、如月に向かって走った。

「ホホホホホ、愚かな」

 高らかに笑い、如月はキヨを抱きとめる。

「自惚れもほどほどにしないと、身を滅ぼすわよ。仲良しのお馬さんも、さっさと逃げてしまったじゃないの」

 喉を抑え震えている青年を、如月が見下ろす。言葉通り、ナナオの姿はない。キヨは記憶を巡らせる。青年の愛馬が棒立ちになり――それからどうなったかを知らないということに、改めて気付いた。

「……う、う」

 絞り出すような呻きを漏らし、起き上がろうと一度は上体を起こしたが叶わず、青年は地面へと倒れ伏す。一度、二度、大きく痙攣すると、動かなくなった。

「キヨ子ちゃん、お手柄ね。見事に悪者を退治したわ」

 ホホホホホホ!

 如月は袂を振り乱し、仰け反って放笑する。

 キヨは――故意ではなかったとはいえ、この成り行きが恐ろしくなった。

「……如月さん」

「キヨ子ちゃん、いい子だから自動車に乗って待ってて頂戴。私は、ちょっと一仕事するわ」

 キヨは頷き、車へと向かう。

 背後から、如月の乱暴な口舌くぜつが聞こえる。

 何やら柔らかいものを蹴り上げるような、また、それが地面へと落ちる音。

 自動車は酷い有様だった。木に衝突した前面はへこみ、左側のライトが割れている。その木も、根本が盛り上がり、じきに倒れてしまいそうだった。

 華子の元に来たときと同じ、後部座席に腰掛ける。

 暫くののち

 コンコンと、窓硝子を叩く音に顔を上げる。如月だ。

「あら、キヨ子ちゃん、そこは駄目よ。前に、私の隣においでなさい」

 と、助手席を指し示す。

 言われた通り、そちらへと身を移す。

「そう、いい子ね。――キヨ子ちゃん、これからね、車を降りてしまうまで、決して後ろを振り向いては駄目よ。約束できる?」

 如月が、ニィと唇を広げて、キヨへと顔を寄せた。紅が滲み、唇から流れ出た血管のように、生白い生地に細い模様を作っている。その生地を拵えている白粉も、汗でまだらになり、皮膚一面に細かな皺が走っていた。

 いつも……如月のことは優しくて綺麗だと、キヨは信じていた。しかし、それが――何だか、とても大きな間違いのように思えて――。

「ねぇ、ちょっと、キヨ子ちゃん、約束できるの? できないの?」

 如月が、癇性かんしょうな声を上げた。

「は、はい、ごめんなさい、約束します」

 慌てて、キヨは返事をする。

「そう、いい子ね。じゃ、今からね。決して振り返るんじゃないよ。そうだね、頭を下げてじっとしてな」

「はいっ」

 キヨは背を丸め、頭を胸まで下げて、目も閉じた。

 後部座席のドアーを開ける音。

 うん、よいしょ、ちくしょう――続く、ドサッという乱暴な音。

 バン! と、ドアーを叩き付けて閉める音。

 耳も塞いでいればよかった……、キヨは泣きそうになっていた。

 華子様!

 華子様!

 華子様!

 大事な人の名を繰り返し心で唱え、ただそれだけで――頭をいっぱいにしてしまえればと、願った。

 何か、

 何か、

 何か、間違っていた!

 そして――それを正す最後の機会が消えてしまった。

 消してしまったのだ。

 消したのは、他ならぬ自分――なのだと、キヨは愕然となる。

「さぁ、華子様の元へ戻りましょうね」

 如月が、運転席へと収まった。今更の猫撫で声。汗と白粉の混じった、不潔な臭いが車内に充満した。

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