第七話 拐われたキヨ

「助けちー、助けちぃ!」

 腕ごと胴を抱え込まれたキヨは、頭と足とを精一杯ばたつかせて抵抗した。髪を振り乱し、上体を揺すり抜け出ようともがくが、青年の腕はびくともしない。

「助けち、華子さま!」

 自力ではろくに歩くこともできない、華子を呼んで何になろう。承知のことながら、キヨはその名を叫ぶ。

「だから、助けてやってるんじゃないか」

 キヨの頭上から、不機嫌そうな声が降ってきた。ハッと、キヨは上を向く。

「詳しい話は後だ。急がないと」

「いやばい! 華子様ンとこにかえさんね」

「静かにしてくれ。ナナオは、うるさいのが嫌いなんだ」 

 青年は空いている方の手の、人差し指と中指を真っ直ぐに立て、唇に押し当てた。

甲高い音が、鬱蒼とした森に響き渡る。

 指笛だ。

 そして一声、大きく叫ぶ。

「ナナオ!」

途端、ザザザと下生えを踏みしだく音。

 ヒンと軽くいななきつつ、真っ黒い姿の良い馬が、ぬぅと現れた。

「よし、いい子だ」

 青年は愛馬を撫でてねぎらうと、キヨを抱えたまま片手に体重を預け、ひらりとその背に飛び乗った。

 あぶみや鞍どころか手綱たずなすら着けていない、完全な裸馬。

「暴れるなよ。落ちたら怪我けがをするからな」

 そしてキヨを膝の上に座らせる。

 ――高い。

 キヨは、思わず青年の胸にしがみ付く。

「そうだな、そうやって捕まっているといい、……ナナオ、進め」

 青年が呼ばわり、軽くくび辺りを叩くと、青毛の馬は歩き始めた。

「森に隠れながらの方が都合がいいけど、二人も乗せて、ナナオの脚に負担が大きい。それに時間が掛かり過ぎるからな。途中で道に出て、走る。できるだけ早く、安全なところに連れて行ってやるよ」

「いや、いやばい、いや! 華子様ンとこに帰しち」

「こら、バカ、暴れるなと言っただろう」

 青年は、キヨを支える腕に力を込める。

「安全なところに着いたら、全部話してやる。とにかく一刻でもここを離れよう」

「いや、いや、いやち言いよろがッ。助けち」

「……だから、助けてるんだ」

 意味の通らぬ言葉の訳を、問い質す術がキヨにはない。少女の嘆きも虚しく、ナナオの規則正しい足並みに、運ばれて行くのであった。 

 

「もう道に出るぞ。ここから先は、地面が柔らかすぎるんだ」

 青年の黒い上着を掴んだまま、キヨは前方に目を遣った。泣き疲れ、叫び疲れて、その口からは嗚咽が漏れるだけだった。

 木々の隙間が大きく口を開けている場所を、青年は示す。その部分に生えた草が、軒並み押し潰されたようになっていた。

 きっと何回も、青年と馬はここを通り抜けたものに違いない。

 ――ふと、ここは青年と馬を最初に見た、あの場所ではないかとキヨは心付く。

「お腹が空いただろう。もう少し我慢――うわッ?」

 突然、青年が頓狂な声を上げた。

 前方を注視していたキヨも、大口を開ける。

 ドグアッという、かつて聞いたことも体感したこともない音と震動。白い大きな何かが、出口たる間隙を塞ぐ。

 ヒヒーン!

 キヨの耳元で、脳天に突き刺さるような、鋭いいななき。

 耳を塞ぐ間などない。ぐぅんと身体が持ち上がった。またも昇降機を思い出し、キヨは固く目を閉じた。

 驚いたナナオが、後ろ足で棒立ちになったのだ。

 ずり落ちそうになるのを、青年の腕がかろうじて留め――いや、その土台たる彼も姿勢を崩し、ぐらり。

 今度こそ、キヨは身体が空中に放り出されるのを感じた。

 一回転。

 次に来るだろう衝撃を、覚悟する。

 だが、

 トン、

 という、軽い振動がきただけだ。

 安堵。顎の力が抜け、ハッと息を吐く。

 恐る恐る目を開けると、視界は真っ黒だった。少し頭を引く。銀色の丸いものが見えた。ついせんの、夜空に浮かぶ満月を、キヨは想った。

 あの青年の上着だと、理解するのに数瞬掛かかる。改めて、彼の片腕にしっかりと抱きかかえられていることに、キヨは気付いた。

「――やあ、相変わらず派手好きだな」

 青年が、口火を切った。

 その声音の冷たいことよ。

「アタシによく似合うでしょ」

 ホホホという馴染みの嬌声に、キヨはガバと振り返る。

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