第四話 怪しき黒衣の青年

 案内されたキヨの部屋は、華子の部屋から、この二階で一番遠く離れた階段の脇だった。

 シンとした空気。

 少し肌寒かった。

 慣れない洋装を一人で解いて、寝台の上に用意してあった寝巻に着替える。作りはワンピースと同じだったので、さほど困らずに済んだ。

 身体は疲れていたが、床に就く気にはならなかった。

 今朝方からの出来事が、ぐるぐると頭を巡る。

 朝の光が反射する我が家の天井、紅白粉で飾り立てられた女の顔、賑わう麓の町、汽笛、自動車、洋館、洋装の紳士、つるつる滑る白い風呂場、洋服、嘘のような鏡の中の自分、階段の端に溜まる綿埃――そして華子様。薄緑色の頬の、気の毒なお姫様。

 何故か母の顔だけは現れず、戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、赤く荒れた手だけが繰り返し浮かんだ。

 幻視しつつ、同時に己の伸びた爪を眺める。

 母を乞う気持ちが湧くものだと覚悟していたキヨは、その事実に改めて安堵した。

 窓辺に立ち、華子のことに想いを馳せる。

 何も知らない、何もできない田舎娘であることの自覚くらい、幼いキヨにも、ちゃんとある。それなのに華子は受け入れてくれた。あの笑顔――芝居やキヨへの慰めではないことは、疑いようもない。

キヨの、我知らず握った拳。伸びた爪が、掌に食い込む。

 華子の傍でよい友達、いっそ妹になろうと、キヨはその拳を薄い胸に当てて誓った。


 さすがに冷えてきた。キヨは、カーテンを閉めようと顔を上げる。

 ――何か動いた。

 裏庭に面したこの窓からは、館を囲む森をも見下ろすようになっている。キヨはそれと当たりを付け、庭と森の境目付近に目を凝らす。そこには、大人の胸程の高さの生垣がある。

 その向こうに、黒い馬がいた。

 満月のもと、毛並みを光らせた、美しい馬だ。

 途端、キヨの記憶が弾けた。

 ここに来る途中の森にたたずんでいた――あの馬だ!

 では、青年は。

 キヨは窓を開こうとしたが、それはめ殺しだった。仕方なく硝子がらすに額を押し付け、凝視する。

 馬のかたわらから、ほの白い人間の顔が現れた。

 月光に照らされる、柔らかな輪郭。

 あの、青年だ。

 キヨがそこにいることなど先刻承知といったふうで、片頬で笑いながら、挑戦的な目付きをまともに寄越している。

 キヨはじることなく見返した。

 青年は、間違いなく不審な人物で、本来ならこれは至急都路に告げなければならない事態だ。

 しかし、キヨはそれをしなかった。思い付きもしなかった。

 月下げっか。その馬も青年も朧ろに輝き、まるで――お伽噺のようだったからだ。

 両目はしっかりと開いている、だけど夢の中の出来事だと思う……、キヨは、そんな矛盾した感覚に翻弄されていた。

 青年の髪は長く、耳を隠すようにしてうなじで一つに束ねられていた。夜目にも際立つ、隈取られたように描線のはっきりとした両眼、皮肉そうな口元。身体によく合った漆黒の上着には、銀色の釦。

 黒い毛並みの馬と、黒づくめの青年。

 昼間といい、今といい、キヨとの邂逅かいこうに何らかの意味があることは間違いない。しかしキヨには、心当たりはなかった。

 その意味を考えることも、今はなかった。

 ただ、いたずらに見惚れていただけである。

 しばし見詰め合ったのち、現れたときとは逆をいき、青年はその身を隠し、青毛の馬も闇に溶けて消えた。

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