第二話 山の中の洋館

 自動車は、山の中腹にある仰々ぎょうぎょうしい門を潜る。

 田舎の山には不似合いな程、重厚な洋館があった。

 キヨは、ほんの少しだけ気を緩める。まさか、ここが東京なわけはあるまい。元いた村から、せいぜい山三つを越えたくらいだと、子供ながらも把握していた。

 いかめしい造りの大きなドアーが、二人が立つと同時に口を開ける。

「待っておったよ、如月さん」

 ドアーの向こうには、恰幅のいい初老の紳士の姿があった。肉厚の手で、せかせかと中へと差し招く。

 大きな二皮目、ふくよかな頬と腹のその男は、まだ肌には張りがあったが、頭髪は真っ白といってもいい。この洋館に相応しく、濃い灰色の三つ揃いに身を包んでいた。

「あら。お出迎えなんて、まぁ」

 ホホホと、女――如月はキヨの背を押しやった。

「この子がお話していた真名井キヨ子ですわ。マナイは、真名井の滝の――ね。出雲に連なる一族の末裔まつえいなのよ。元々住んでいた地方では、ご先祖が真名井神として神社に祀られていた名家の出で、血統は保証付きですわ」

 ただ、ご維新からこっち、政府から迫害を受けて――可哀想に、今ではこんな有様でと、如月は立て板に水と語る。

 キヨは、自分は真名井キヨ子などという大層な名前を持っていたのかと、他人事ひとごとのように聞いていた。ずっと「キヨ」とだけ呼ばれていたのだ。

 その後の名家云々についても、全く覚えのないことだった。

母一人が守り育てていたのですけど、女手ひとつではもう、ねぇ、ホホホと、甲高い声が響く。如月の白く長い指が、キヨの痩せた肩に食い込んでいる。頼りなげなその指は、見た目に反して力が強い。

 初老の男に品定めをされるような視線を浴びせられ、キヨはとても不快だったが、身体を捻ることすらできなかった。

 



「まぁ、キレイになったわね」

 勧められるままに、キヨは身体を洗った。

 案内された所は、風呂だと示されてもピンとこない場所だったが、如月から簡単に使い方を教わり、事なきを得た。 

 時間が経つに連れ、少しづつ現実味を取り戻してきた心に、驚くことばかりが押し寄せてくる。

 髪を拭う、この白くてふかふかした布もそうだ。キヨは、目の粗い手拭いの感触しか知らなかった。

 新しく身に付けるものの、一切合切が戸惑いを誘う。下穿きはともかく、シュミーズなど、とても肌着には思えない。これは外国のお姫様が着るという、ドレスではないか――そう思ったキヨがそれを素直に口にすると、如月は声を上げて笑った。

「ホホホホホ。お前は本当に可愛いのね。きっと華子様の気に入るわ」

 シュミーズの上に、来る途中から如月が話していたワンピイスというものを着せられた。落ち着いた茶色、滑らかで柔らかな生地。胸には大きな、真っ赤なリボン。

「これがお靴よ。その前に靴下を履きましょうね」

 くるぶしを覆う丈の、白い靴下。足首の周りに、繊細なレースのフリルが縫い付けられている。初めて履くそれと靴は、なんとも足に纏わり付く感じがして、少し気持ちが悪かった。

「ここではね、おうちの中でも靴を履くの。寝るとき以外は脱がないのよ。――さぁ、できた。これで、華子様の前に出てもおかしくないわ」

 如月は、支度の整ったキヨを鏡の前に立たせる。

「――――!」

 キヨは、そこに映るのが自分だということを理解するのに、数秒を要した。

「とってもお似合いよ」

 如月が、また、白く細長い指を、キヨの肩に絡み付けた。


「おお、おお、これはこれは」

 如月の案内で応接間へと通されたキヨを、初老の紳士は両腕を広げて歓待した。

「何とも可愛らしい。華子もきっとお前を気に入るよ」

「良かったわねぇ、キヨ子ちゃん。都路みやこじ様が太鼓判をくだすったわ」

「――――」

 キヨは、無言で下を向く。

 こっそりと、窓の外に目を遣った。妙にはしゃいだ様子の二人の大人に、何となく白けた気持ちになったのだ。

 すでに日は傾いていた。朱色の光がキヨの目を焼く。

 かまどに火をおこす、母の後ろ姿が浮かんで――すぐに――戸を締める、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手に取って代わる。

「……ゃん、キヨ子ちゃん」

「あ、」

 キヨは、ハッと顔を上げる。

「キヨ子ちゃん、華子に紹介しよう。それじゃ、如月さん。また後程。実に良いお子を連れてきてくださった。華子もこれで、また一つ、回復へと向かうことでしょう」

「ええ、ええ、本当に良いお薬になるわ。ね、キヨ子ちゃん」

 如月は、キヨに向かって莞爾とした。

 キヨは会釈をすることすら思い付かず、曖昧に首を傾げてきびすを返し、都路がうながすままに足を運んだ。

 真鍮しんちゅうの、凝った装飾がしてある手摺を掴み、階段を昇る。

「如月さんから聞いただろうが、華子は病気でね。もう随分と長いこと寝たきりなんだよ。君よりも二つお姉さんだが、学校にも行ったことがないんだ。勉強は私が見てやれるが、それじゃ寂しいだろう? だから、年の近い女の子の友達を探していたんだ」

 階段は長く、緩やかに弧を描いていた。隅には埃が溜まり、手摺を伝ったキヨの手は、ザラッとした何かで汚れる。そっと、スカートで払った。

 昇りきると、手摺がそのまま続いたバルコニーと、その先には廊下があった。右側は窓だが、何故か全部の鎧戸が閉められていて、代わりに薄赤い電灯が灯っている。左側には同じ形のドアーが等間隔に並んでいた。

 突き当りには、大きな檻のようなものが見える。

「華子は、親の私が言うのも何なんだが、とてもいい子なんだよ。寝てばかりで辛いはずなのに、私や如月さんに、一つも我儘を言ったことがない。苦しいときでも心配させまいと、無理やり微笑んでみせるような子なんだ。あんないい子が、どうして……」

 母親の有無を問いたかったが、キヨはすんでの所で思いとどまる。

 さっきの階段、そしてこの廊下、真ん中はさて置き、端の方の汚れが酷い。

 ――華子には母親がいない。

 キヨは、それを自分に重ねた。

 さっきの階段、そしてこの廊下。真ん中はともかく、端の方の汚れが酷い。華子さんのお母さんはお掃除が嫌いなのか、とキヨは思っていたのだ。

 屋敷のこの不潔な有様は、使用人の不備をまず疑うべきことなのだが、キヨは使用人というものを知らない。

 だいたい、あるじが自ら戸を開き、客人を招き入れるなど――ありえない。

 一番奥の扉の前で、都路は足を止めた。

 キヨは、横にある檻のようなものが気になったが、訊ける雰囲気ではない。

「キヨ子ちゃん。ここが華子の部屋だ。きっとよろしく頼んだよ」

 そして、華子華子、起きているかいと呼ばわり、ノックを三回。

「お父様、起きていてよ」

 優しい声が、すぐさま返ってくる。

 キヨの、無意識に作った握り拳に力が入った。

 掌に、チクリと痛覚。

 ――爪が、長く伸びていた。

 都路がドアーを開く。

「華子、お友達を連れてきたよ」

 大きく厚みのある手で、都路がキヨの背を押した。ふらつき、キヨは一歩前へ出る。

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