子買双紙(こかいぞうし)

黒実 操

第一話 母との別れ



 ――お伽噺とぎばなし




 キヨは記憶を巡らせる。

 いつが最初だっただろう。

 ――夜中に目が覚めたとき、母が隣に寝ていなかったのは。

 ――夜中に目が覚めたとき、母がむせび泣いていたのは。

 ――夜中に目が覚めたとき、母が――母が――。

 キヨの気管が、ひゅっと鳴った。

反射的に喉元にたなごころを向ける。しかしその皮膚に触れることは躊躇ためらわれ、ようよう、その手を下げた。

 見れば、爪が伸びている。

 どうして――こんなに爪が伸びているんだろう。

  



 寒い。

 まだ冬には少し間があるが、山間部のこと、空腹を抱えた幼い子供には辛い気温。キヨは、部屋の片隅で布団に包まり、母親が立ち働く様子をうかがっていた。

 そこに、 

「――さん、おはようございます」

 と、聞き覚えのない声。

 戸を叩きも開けもせず、ただ呼ばわる女。

 キヨには聞き覚えのない声。

 嫌な予感が下りてくる。

 母親が無言で戸を開いた。流れ込む、冷えた空気が頬を打つ。

 立っていたのは、見知らぬ女だ。

 青みがかった白い着物姿は、朝靄あさもやの中で薄く光っているように見えた。

 その女は生まれて初めて目にする程に、豪華ななりをしている。

「キヨは、そこにるとよ」

 母親は万事承知といった様子で、女と連れ立ち、外へ行く。

 キヨはその足音を耳で追い、壁に張り付いた。辺りをはばかるような、ひそひそ声。高くなったり、低くなったり、声の調子は伝わるが、何を話しているかはさっぱりだ。

 だが、 

「それじゃあ、キヨちゃんのことは、アタシに任せて頂戴な」

 その一言だけは、はっきりと聞き取れた。

 当然、母の声ではなかった。 


「キヨちゃん、お前を迎えに来たわ」

 女は、キヨに向かって莞爾にっこりとした。

「うちにはもう、お前を食わするだけのもんは、かつよ」

 母親が顔を背ける。

「……うん」

 キヨは頷き、嘘つき、という言葉を飲み込んだ。

 母は、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手でピシャリと戸を閉める。ガサゴソと、鍵替わりの心張り棒を嵌め込む気配。

 身一つで、キヨは残された。

「さぁさ、行きましょう。ふもとまで歩かなきゃいけないわ。頑張って頂戴ね」

 女がその手をしっかりと握り、歩き出す。子供には辛いような早足。

 村を出るまで、誰とも擦れ違わず、言葉をかけられることもなかった。ただ一人、井戸端から、キヨも見知った年寄りが、歩み行く二人を不審そうに見遣る。

 これぞ青天の霹靂へきれき

 キヨは母親と離れ、慣れ親しんだ村を後にする。見知らぬ女に手を取られ、ひたすら脚を動かしている。

 そこに意思などない。

 涙さえ出ない。悲しさとか憤りとか、この場に相応しい感情が湧いてこない。

 足元がふわふわとしている。まるで雲を踏んでいるかのようだ。

「こんな道じゃ、車は通りゃしないわね。昭和の御世みよも、もう七年だというのに、何てことかしら。草履なんて履いてくるんじゃなかったわ」

 そう愚痴ると、女は紅白粉で飾り立てた顔をキヨに向ける。

 ――綺麗だと、キヨは思った。

 キヨが母親と暮らしていたのは小さな貧しい山村で、そこに至る道も細く険しかった。到底、このような拵えの女が出入りすることなどない場所なのだ。

「お母さんから何も聞いてないのかしら? まぁいいわ。あのね、キヨちゃん、あなたは今日からご奉公に出るのよ。でもね、何にも心配はいらないの。お姫様のような暮らしができるのよ」

お姫様という現実味のない単語。キヨの胸には響かない。

「もちろん、本物のお姫様にはなれないわ。キヨちゃんはね、お姫様のお友達になるのよ。華子様っていうお姫様の、お友達になるの」

 ここでやっと、女の言葉が〈普通〉とは違うことに、キヨは思い当たった。これは〈東京弁〉だ――母と二人だけの、内緒の言葉。

 今はもう昔――かつて母親は、キヨが寝入るまで枕元で童話を語ってくれていた。

母親は、普段は村人と同じように方言を使ったが、キヨと二人のとき――特にお話をしてくれるときだけは、この言葉を使った。

 ……東京弁よ、誰にも内緒。キヨも他の人の前では、この言葉は使わないほうがいいわ――と。

 女の話す言葉は、そのときの言葉と同じものだ。

 キヨは、東京が何処にあるのかさっぱり判らないが、とても遠くにあることだけは知っていた。

「あちらに着いたら、お姫様のお傍にはべるに相応ふさわしい、キレイなお洋服を着せてあげましょうね。洋服よ、洋服。キヨちゃん、着たことないわねぇ? リボン飾りが付いた可愛いワンピイスでしょ、ピカピカのお靴でしょ、フリルの付いた靴下も、フリルって……判る?」

 女の掌が、じっとりと湿り気を帯びてきた。

「もうちょっと、頑張って歩いて頂戴ね。そこからは自動車に乗せてあげるわよ。初めてじゃない? 自動車」

 甲高い、ひらひらとした声音。微かに息が弾んでいる。

「じどうしゃ……」

 キヨは、呆然と鸚鵡おうむ返し。山奥育ちとはいえ、自動車くらいは知っていた。それが自分と母親とを、取り返しのつかない距離まで引き離す乗り物だということも。

 ――まさか、東京に?

 女に問いたかったが、どうしても唇が動かなかった。


 女は言葉通りに、麓の町から車を使った。

 鉄道の駅があるその町でも、女の格好は際立って華やかだ。そんな彼女が、見窄みすぼらしいキヨの、あかじみた手を握り締めている。大勢の、無遠慮に眺め回す者達。

 駅前には数台の自動車が停まっていたが、女は迷うことなく、その内の一台にキヨと共に乗り込んだ。

「出して頂戴」

 運転手にそれだけ言うと、女は座席に身体を預ける。

「疲れたわねぇ。キヨちゃんも疲れたでしょ。眠ってもいいのよ、着いたら起こしてあげるわ」

そして女は、ピタリと黙った。

 流れ行く景色。

 ごたごたとした町並みを抜け、山道へと進む。

 キヨの知らない、道。

 初めての自動車に、浮つく気持ちなど欠片もない。これからどうなるのか、何処へ運ばれているのか、初歩的過ぎる疑問さえ、キヨには何もない。

 母を恋う気持ちも湧かなかった。

 女は外方そっぽを向いてしまったが、キヨの手はしっかりと握り締めたままだ。

 眠気も感じないキヨは、ぼんやりと眼球に景色を映していた――その折。

 黒い影が車窓をぎる。

 道の脇の、木々の隙間に青毛の馬が。

 村にいた農耕馬とは全く違う、細い、姿のいい馬だ。

 その背には、青年。

 薄暗い背景に、ほの白い顔。片頬で笑うような表情。挑戦的な目付き。

 その眼差しが、ス、と動き、キヨの視線を捉えた。

 だが、それも一瞬。

 彼らは後方へと流れ去る。

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