引裂き曲馬団・詮

黒実 操

引裂き曲馬団・詮

 ――くらい。

 ――とても昏いわ。

 あたしは自分の唇が、だらしなく開いていることを知っていました。けれども、閉じることが出来ません。

 深く眠っているはずなのに、ふと心だけが目覚めてしまうことが、小さい時分からありました。だから今のこれも、きっとそう。…………。

 いいえ、いつもと勝手が違います。

 横になっているのは間違いありません。

 後ろ頭や背中やお尻が、何だか痺れたようになっています。

 ああ、ここはお布団じゃないんだわ。

 ……でも、どうして?

 そうだわ、ここは……何処なのかしら。

 だんだん頭が――頭だけがはっきりしてきました。

 ガタンガタンと規則正しい振動が、身体に伝わってきています。

 それに合わせて、唇が震えます。

 ブルブルと震えているのです。

 ああ、みっともない。

 口を――閉じなきゃ。

 

そういえばあのときも、あたしはみっともなく、ただ、ぽかんと口を開けていたのだったわ。

 

「昨日は可哀想なことをしたね。これは詫びだ。ああ、息子も後から来るさ。お前は先に行きなさい。お前の母親には、わたしから話しておく。さあ早く行きなさい」

 そう言うと、お坊ちゃまのお父様は懐手ふところでを解きました。


 ええ。

 昨日。

 いつもの神社でお坊ちゃまとお話ししてたら、お坊ちゃまの子守に見つかってしまいました。

 お坊ちゃまはあたしと同い年で、もう子守など必要ないはずなのですが、あたしとお坊ちゃまがとが一緒に遊ばないように、お坊ちゃまのお父様が見張りの意味で付けているのです。

 子守は、女だてらにお坊ちゃまの耳を掴むと、痛い痛いと叫ぶお坊ちゃまを引き摺るようにして、行ってしまいました。

 お坊ちゃまてば、子守の姿を見て固まってしまうのだもの。あたしと一緒に走って逃げるとか、もっと何かできそうなものを。

 いいえ。こんなこと考えても詮無いわ。

 あたしは一人でおうちに帰りました。

「あら、おかえりなさい」

 お母様が驚いたような声を上げます。手元には作りかけの造花が一輪。けれども、あたしのことを迎えます。手を止めて、お膝立ちの姿になりました。

 お母様の指先には、紙が巻いてあります。

 ずっと造花を作っているから、手の脂がなくなってて、荒れてひび割れて。造花を血で汚さないように、紙が巻いてあるのです。

「お坊ちゃまと何かあったの?」

 あたしの顔色を読んだのでしょう。お母様が心配そうに訊いてきました。

「ううん。今日は、もういいの」

 あたしは少しきまりが悪く、小さな声で答えます。

 さっさと着替えることにして、お母様に背を向けました。

 お坊ちゃまと会うときは、一張羅の洋服を着ていくのが、あたしの楽しみです。

 とはいっても、これはもうずいぶん昔のもので、今のあたしにはすっかり小さくなってしまっています。

 こんなつんつるてん、本当は恥ずかしい。

 けれども、お坊ちゃまはいつも綺麗なお洋服姿。ごわごわして浅ましい、粗布あらぬのの着物なんて、とても着ては行けないわ。

 ブラウスとスカアトを、ぐずぐずと脱いだあたしは、着物を嫌々着付けます。

 身動きするたび、肌の何処かにごわっと擦れて、忌々しいったらありゃしない。

「ね、そのお洋服、そろそろお洗濯しましょうか」

 お母様が、あたしの機嫌を取るように話しかけてきました。

「ブラウスなんて、ほら、ずいぶん汚れてしまっているわ」

 一張羅なんです。

 ほんとに、これきりしかないんです。

 お坊ちゃまとあんな別れ方をしたんだもの。明日も神社に行かなきゃ。

 お洗濯なんてしてられません。

 それにお洗濯といっても、どうせ裏の井戸でじゃぶじゃぶ洗うだけなんです。石鹸一つも使えやしない。この家には、ないんです。

 あたしはお母様に背を向けたまま、黙ってブラウスを畳みました。

 

 夜のご飯は、お菜のない味気ないものでした。

 こんなの、もう慣れたっていい頃合いなのに、あたしは食事のたびに惨めになります。そして自分の卑しさに嫌気がさすのです。

「ごめんなさいね。明日はこの造花をかずがい様にお納めするから。きっとお腹一杯にしてあげる」

「あたし、そんないやしんぼじゃないわ」

 お母様のせっかくの言葉にも、こんな返事しかできません。

 狭い狭い家の中で、たった二人の親子なのに。

 お母様は、そうよね、ごめんなさいと呟くと、後片付けを始めました。

 あたしは、涙を堪えます。

 鎹様というのは、お坊ちゃまのお父様です。鎹一造というお名前です。

 けれどもお坊ちゃまはご名字が違います。理由ははっきりしませんが、もしかしたらあたしと同じで、お父様とお母様は正式なご夫婦ではないのかもしれません。

 これは絶対内緒なのですが、そうだったらいいなと思ってしまいます。…………。

 あたしは――あたしの苗字は宇田といいます。これはお母様のご苗字です。

 今のこの有様で、あたしがこんなことを言うのは笑われてしまうかもしれませんが、お母様のご実家はそれは名のあるお家なのです。

 お母様は、宇田志津子と申します。

 あたしのお父様とは正式な結婚をしていないので、名字はそのまま、実家のものを名乗っています。

 あたしの名字はお母様のものなのですが、これは理由を聞いたことはありません。

 そもそも、正式な結婚をしていなかったことを知ったのは、お父様がお亡くなりになってからなのです。…………。

 ……恐らくお母様の血統のほうが正しいので、あたしのためを思い、宇田の名前を名乗らせてくださっているのだと思います。

 お父様の名字を、あたしは知りません。

 お父様がお亡くなりになってから、訪ねてきた恐ろしいおじさんの誰かが、「ごうど」だか「ごうの」だかと言っていましたが、ちゃんと聞き取れませんでした。

 お母様の出自は、とても偉いお家です。

 お母様がおっしゃるには、宇田家というのは、もともと広い土地をたくさん持っている家柄で、牧場や果樹園を管理しているのだそうです。

 親戚には、西洋から姿の良い美しいお馬さんを連れてきて、貴族の方のご趣味に提供したりしているお家もあるのですって。

 お母様とお父様は、そのお馬さんがいる親戚の家で出会いました。お父様は、そこに出入りしている、お馬の手入れや躾をする使用人だったのです。

 子供のあたしでも分かります。お母様とお父様との交際は、とうてい認めてもらえるものではありません。しかも、お母様にはお家が決めた婚約者がおりました。

 だから二人は駆け落ちをしたのです。

 お母様は身一つで、お家を逃げ出しました。

 お母様とお父様は、正式な結婚はしませんでした。

 そして、あたしが産まれました。

 お父様は前にも増して、懸命に働いていたそうです。

 お母様を立派なお家から盗み出したということで、お父様のお仕事の場はとても狭くなりました。当たり前のことですが、お馬さんがたくさんいる、お母様の親戚の家やその関係全部から、出入りを差し止められてしまったし、自然、あまり良くないところにも、お仕事に行かなければならなくなっていたのです。

 それでもお父様は、あたしとお母様に、まともな暮らしをさせてくれました。

 あの一張羅も、そのときにお父様が買ってくれた物なのです。

 令嬢だったお母様は、種火を守る術さえ知らなくて、白く細い手のあちこちに、切り傷や火膨れを作りながら、本当なら女中にさせるような家事を、その身につけていきました。

 今では、お母様の手には夏でもあかぎれが残り、お指の節が大きく膨れています。お父様と三人で暮らしていた時分には、まだ、ほっそりとしていらしたものを。


 お父様がお亡くなりになってしまったのは、ほんの去年のことでした。まだ一年にもなりません。

 いつもどおり、行ってくるよとお出かけになり、そのまま帰らぬ人となったのです。

 どんなに遅くなっても、お帰りが日付を跨ぐことのなかった、お父様。夜通しお帰りを待っていたお母様が、あたしに朝ご飯を食べさせて、心当たりを探しに出かけようと身支度を整え終わったそのときに、顔見知りのお巡りさんが知らせを持ってきたのです。

 お父様は、家からたいして離れていない、近所の溝川どぶがわで見つかりました。お巡りさんがおっしゃるには、たいそうお酒を飲んでいて、ここに落ち込んでしまったのだろうということでしたが、お母様もあたしも、お父様がそんなにお酒を飲むなんて、とても信じられませんでした。

 けれども、呆然としていたあたしとお母様の元に、もっと信じられない話がやってきたのです。

 お父様が外に大変な不義理をしていたと――有り体に言えば、たくさんお金を借りたまま亡くなってしまっていた、と知らないおじさん達が家に押しかけてきたのです。

 お母様は、お父様に限ってそんなことはありませんと、首を横に振りました。でも証拠の書き付けが残っていて、それを突きつけながら、おじさん達はお母様を責めました。

 お母様は顔色を無くしながらも、おじさん達が持ってきた書き付けの一枚一枚に目を通し、これは理屈が通らない、これはお父様の字ではないと首を横に振り続けました。

 お母様は女学校に通われていたので、普通には難しい書付の内容も、よく理解なさったのです。

 そんなお母様の態度が、女らしくなく映ったのでしょう。おじさん達はお母様に向かって怒鳴ったり、酷いことを言いました。

 その頃、あたしはまだ学校に通っていました。家も、まともなところにありました。

 口汚いおじさん達に会いたくなくて、あたしは暗くなるまで学校に残っていたり、ぶらぶらと遠くまで歩いて行ったりしたものです。

 だからあたしは、あまりよく知らないのですが、おじさん達はお母様だけではなく、ご近所の方々にまで、とても恥ずかしい振る舞いをしていたそうです。

 ついにはお金を払わないのなら、お母様だけではなくあたしにも責任を取らせると、脅しをかけるまでになりました。…………。

 お母様はこんなことになってまで、お金のことで意地を張っていたのではありません。

 お父様のお残しになったお金を全部使っても、おじさん達に支払う額にはとても足りなかったということなのです。

 そして、おじさん達が言うことをそのまま鵜呑みにすることは、お父様の名誉を傷つけることだと、信じてもおりました。

 けれどもおじさん達には、証拠の書き付けがあります。お母様がどんなに頑張っても、時間が無駄に過ぎるだけなのでした。

 お母様は何度か、実家を頼ろうとしたそうですが、それは叶わなかったということです。…………。


 鬼のようなおじさん達でさえ、お母様の実家には何もできなかったということを、全部片がついてからあたしは聞かされました。

 お母様からではありません。

 お坊ちゃまのお父様――鎹一造様が家へやって来たのは、お父様の二回目の月命日でした。

 何故かその日は、毎日朝から恥もなくうるさいおじさん達が、ただの一人も来ていませんでした。あたしとお母様は不思議に思いながらも、お父様のお陰かしらと、久しぶりに美味しく朝ご飯を食べたものです。

 それも一変。鎹様が現れたときのお母様のお顔。あたしは一生忘れません。

 誰の紹介も受けずに、鎹様はお一人で、あたし達の家へと上がり込んできました。

「やあ志津子」

 懐手をした鎹様は、お母様を呼びつけにすると、ニヤニヤと笑いました。そして隣の部屋から顔を出したあたしのことを、面食らうほどに無遠慮に眺め回してきたのです。

 そのお顔ときたら――あたしはゾッとしました。両の目は異様にギラギラとしていて、なのにその周りは青黒くくすんで、くしゃくしゃとした渋紙のようなのです。

 お坊ちゃまも、大人になったらあんな風になるのかしら。今はとてもお可愛らしいのに。そう思うと、哀しくなってしまいます。

 もちろんそのときは、あたしはお坊ちゃまのことなど存じません。お坊ちゃまと知り合うのは、もう少し先のお話です。

 呼びつけにされたお母様は、激しく憤っていらっしゃいましたが、何とか呼吸を整えようとしていました。狼狽えているあたしを一目見ると、その背筋がしゃんと伸びました。

「こちらは鎹様。お母様の古い知り合いです。しばらくお話をしますから、あちらでお利口にしているのよ」

 いつも通りの、落ち着いた様子を通します。

 はい、お母様と返事をしかけたあたしの声を遮って、

「×××の子にたいした物言いだ、滑稽にも程というものがある」

 鎹様はそうおっしゃると、懐手のまま、仰け反るようにして高笑いをなさいました。

 あたしはお母様から、立ち居振る舞いや言葉使いの躾を受けています。

 今ではこんな身の上、すっかりお荷物になってしまっていますけど、あの頃は……あの頃までは、あたしはこれが自分に相応しいと、心底思っていたのです。

 だから、鎹様の言葉の意味が分かりませんでした。

 お母様の目尻が、きゅっと引き上がりました。それでも声音は静かなままで、さあ行きなさい、とあたしを部屋から押し出して、襖をぴしゃりと閉めました。

「喪も明けないうちから娘も追い出して、昔の男と二人きりか。なあ志津子」

「声を控えてください」

「娘に聞かれて困ることか。自分がどうやって生まれたのか、教えてやってもいい歳だろう」

「声を控えて。黙って」  

 お行儀が悪いと分かっていても、つい、その場に、あたしは立ち尽くしてしまいました。…………。

 その日、あたしは、お父様とお母様がちゃんとした夫婦ではなかったことを、知りました。

 鎹様が、お母様の婚約者だったことも、知りました。

 知らないままでいたかったことも、全部知ることになりました。…………。


 数日の後に、お母様はお父様のお残しになったものを全て手放して、お父様の不義理とやらを償いました。

 もちろん到底足りません。

 そこは鎹様の計らいで、お母様は助けられたのです。

 代わりに、あたしとお母様は、これまでのような暮らしができなくなりました。荒屋に住んで、粗布の着物を着なければならない身の上になりました。

 その上で鎹様は、お母様に生きていくためのお仕事をくださいます。他に寄る辺のないあたしとお母様です。これしか道はなかったのです。

 そして、お坊ちゃまとあたしは、出会いました。

 最初は二階のお部屋にいるお坊ちゃまを、ただお見かけするだけでした。

 しばらくすると、お坊ちゃまもあたしに気付いてくれました。

 目が合うようになってから、あたしは思い切ってお坊ちゃまに手を振りました。お坊ちゃまも振り返してくれました。

 それから、お坊ちゃまがあたしの来る日には、窓辺で待っていてくれるようになって――。

 ある晴れた日。

 お坊ちゃまが二階から、あたしに向かって紙飛行機を飛ばしてくれたのです。…………。

  

 ああ、懐かしい。

 どうして、こんなことを思い出しているのでしょう。

 ガタン、ガタ、ガタガタと、大きく身体が揺れました。その拍子にズズッと、あたしは右側に滑ります。すぐに硬い壁のようなものに、肩が当たりました。

 ガタ、ガタンガタン。次は左に。また、すぐに壁に肩が。

 その感触に、あたしの意識は思い出から引き剥がされました。

 壁のあちら側から、くすくすという女の子達の声。そして何やら指示をしているような、威勢のいい女の人の声がします。叱りつけるようなお婆さんの声も。

 ガタン! 

 身体が放り投げられたように、跳ねました。

 その拍子に、後ろ頭を打ちました。

 痛みに、思わず顔を顰めます。と、気づきました。あたし、目を瞑っていたのだわ。

 ああ、だからこんなに昏いのね。

 思わず一人、苦笑しました。

 瞼を開きます。薄ぼんやりと、辺りが。

 と、頭の上に、細い光の線が差しました。

 これは……。

 考える間もなく光の線は太くなり――ああ、これは箱の蓋。

 あたしは、大きな箱の中にいたのだわ。

 すぐに覗き込んできたのは、小さな子供。あら、二人。大きな吊り目が猫みたい。

 その上から覆いかぶさるように、ピンピンピンと生えてきた、女の子の首が三つ。おんなじ顔の首が三つ。

 少し離れたところから見下ろしてくるのは、長い髪をてっぺんで結んだ女の人。――この人、とっても背が高いのね。

 ぬうっと反対側から現れたのは、お婆さん。黒い目隠しをつけていて、声を殺した引き笑い。

 最後に、あたしの真上から、バアと逆さまに突き出てきたのは――。

「いらっしゃい、お嬢さん。今日から私らは仲良し家族」

 金の巻き毛に金の髭。

「宇田千代子さん、でしたっけねぇ。そのお名前も昨日限り。私らの家族となったことですし、新しいお名前を進ぜましょう」

 花のような白手袋。

「スマヰルお千代。これがあんたのお名前さぁ」


 視界がたちまち、チカチカと――。

 ああ、昏い。

 そうだ、あたしは――。  

 

 あたしは思い出しました。


 お坊ちゃまのお父様が、懐手を解いて差し出してきたのは、曲馬団の券でした。

 ごわついた紙に墨文字で、ジェントル曲馬団と書いてあります。

 お坊ちゃまのお父様は、あたしのことがお嫌いなはず。

「何をしてる、さっさと受け取るのだ。今日が最後の曲馬団だ。急がないと間に合わないぞ。ほら、行きなさい」


 あたしは思い出しました。

 

「お嬢さん、宇田千代子さん。鎹一造様よりお申し付けをいただいておりますよ。さぁ、どうぞこちらへ。おや、走って来られたのですか? 喉が渇いているでしょう。冷たい果汁など、いかが?」

 金の巻き毛を揺らしたこの人は、この曲馬団の団長。ジェントル曲馬その人です。

「ええ、すぐに分かりましたよ。その御髪(おぐし)。長いおさげ。まさしく令嬢の持ち物に相応しい。お嬢さんのことは、いろいろと聞き及んでいるのですよ。惣一さんとは仲良しでいらっしゃる。鎹様のご子息の。――おや、どうしました? 眠いのですか……うっふっふ」

 

 目の前がチカチカとして。

 まるで、小さな紙吹雪が、隙間なく舞っているかのよう。

 そうして視界は昏く、昏く。


 あたしは、二度と、お坊ちゃまに会うことはできないのでしょう。

 恐らくは、お母様とも。…………。


「ジェントル曲馬団へようこそ――いや、おかえり、スマヰルお千代」

 ――うっふっふ。

 あたしの耳元に風。生温かい。

 

 あ。


 いつの間にかあたしは奥歯を噛みしめて、しっかりと唇を閉じていたのです。

 


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