弐
今日最後の六限目は、
男女に別れて行う授業で、男子は和楽器、女子は巫女舞を習う。1年生は私しかいないので、先生とマンツーマンの授業だ。
私が唯一、まだなんとか追いつけている授業で、なおかつ誰にも迷惑をかけることもないだけあって、神楽の授業はどの科目よりも断然楽しかった。
神楽舞を教えてくれる
のんびりおっとりした口調と性格だけれど割とはっきりものを言う人で、優しい顔をしながら「巫寿さんは不器用ねぇ」と言われた日にはちょっとだけ傷付いた。
けれど初心者の私にとことん付き合ってくれるし、説明は分かりやすい。
授業以外にも、社での立ち振る舞いや礼儀作法なんかも教えてくれて、授業終わりにはいつも巾着いっぱいに入ったお菓子の中からご褒美にひとつ選ばせてくれる。
授業が始まる前と終わったあとに、富宇先生に学校生活での困り事やちょっとした愚痴を聞いてもらう時間はいつも心が休まった。
祖父母とは会ったことがないけれど、おばあちゃんがいたらこんな感じなのかな、なんてふと思う。
いつも通り体操着に着替えた私は早めに神楽の教室へ向かう。
「お願いします」
声をかけながらカラカラと引き戸を開けると、前の授業の片付けをしていたらしい富宇先生が振り返った。
「こんにちは、巫寿さん」
履物を脱いで揃えると、畳張りの教室に上がる。
歩み寄って手元を覗き込めば、富宇先生は神楽鈴を一つ一つ手ぬぐいで磨き上げていた。
いつも片付けを手伝っているので要領はわかる。富宇先生の前に座ってそれを手伝いながら、いつものように学校であったことを話す。
「────それで、慶賀くんが変な事言うから、嘉正くんが教科書で何度も叩いたんです。言葉を慎めって」
くすくす笑いながら先程の光景を思い出す。
「まあまあ。高校生になっても相変わらずヤンチャな事をしているのね」
「お昼休みも、皆でサッカーをしてたら泰紀くんが思いっ切り蹴飛ばしたボールが社殿の屋根に乗ってしまって。そしたら、カンカンに怒った巫女さまが出てきて。皆で慌てて逃げたんですけど、どうやって屋根にサッカーボールが乗ったってわかったんですかね?」
「今の代のまねきの巫女さまは優秀ですからねえ」
その時、始業の鐘が響き、富宇先生は気を取り直すようにパンと手を叩いた。
「さ、お喋りはこの辺にして。片付け、いつも手伝ってくれてありがとうね。授業を始めましょうか」
姿勢を質した富宇先生に習って、私も背筋を伸ばす。そして、畳に手を着いて「お願いします」と頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします」
そう言って微笑むと、先生はよいしょ、と立ち上がる。いつもは座ったまま授業が始まる前から、急に立ち上がった富宇先生に首を傾げる。
「先生ね、ほら、もうこんなおばあちゃんでしょう。だからちゃんとしたお手本を巫寿さんに見せられないのが申し訳ないと思っていて、それで色々考えて、今日は別の人のお手本を見せようと思って」
そう言うと、教室のはしに置いてあったブラウン管テレビを台ごとからからと引っ張ってきた。
そして、あらかじめ用意していたらしいビデオテープ片手に「どうするんだったかしら?」と首を傾げる。
「先生、ここです」
玉じいの家がブラウン管テレビだったので、使い方は知っている。ビデオテープを差し込んでリモコンを操作すると、砂嵐の後、画面に見慣れた景色が映った。
「あれ? ここ、もしかして学校……?」
「そうよ、ここは神楽殿ね。学期末にある奉納祭の記録テープなの」
「奉納祭?」
「その学期で習ったことを、まねきの社の御祭神さまにお見せするのよ。まねきの御祭神さまは学問の神様ですから、学生が学問の進達を報告するとお喜びになるの。一学期は祝詞奏上で残穢を祓ったり形代を競わせたり、二学期は雅楽や神楽舞を披露するの」
へえ、と相槌をうつ。
体育祭や文化祭と同じようなものだろう、と推測する。
テレビを覗き込めば、神楽殿の舞台で巫女装束に桃の頭飾りを付けた女の子が、軽やかな足取りで舞台の上を舞っている。
手に持つ神楽鈴は、その子が動く度にしゃらりと響く。雲間から零れる太陽の光の清らかな音色だった。
「綺麗な人……天女様が降りてきたみたい」
「あら、巫寿さんもよく知っている人よ」
「え?」
目を丸くした私に、富宇先生はくすくすと笑った。
それ以上は何も言わないので、自分で答えを見つけろということらしい。
膝立ちでテレビに近付いて、食い入るようにテレビを見つめる。じっと見つめて、カメラがその女の子の顔に寄った瞬間、思わず「あっ!」と声を上げた。
「富宇先生! もしかして、この女の子ってお母さん……?」
「ふふ、その通り! 巫寿さんと同い年の泉寿さんよ。これは高校一年生の二学期の奉納祭ね。1年生なのに、高等部の代表として神楽殿に立ったのよ~」
私のいちばん古い記憶に、両親の姿はない。物心着いた頃にはもう既にお兄ちゃんと二人暮しだった。
両親の顔はお兄ちゃんにアルバムで見せてもらったことはあるけれど、あくまで写真の中でしか見たことがなかった。
画面越しだけれど写真では無いお母さんの姿は胸が熱くなった。
「お母さん、すごく綺麗……」
「泉寿さんは、100年に1人の逸材と言われたほどの神楽舞の名手だったの。先生も、すぐに教えることなんて無くなっちゃったわ~」
そういえばかむくらの社で禄輪さんから、お父さんはお母さんの神楽舞を舞う姿にベタ惚れだったと言う話を聞いた。
実物を見て納得してしまう。きっとお父さん以外の男の人も、皆お母さんに見惚れていたんだろうな。
「さ、見入ってしまう気持ちは分かるけれど、授業中ですからね。今日は泉寿さんをお手本にして、練習していきましょう」
「はい……!」と力強く頷く。なんだか今日はいつもよりも力がみなぎる気がする。お母さんに応援されている気がした。
「はーい、みんな2週目もお疲れ様でした」
六限目終わりの教室。
「薫先生がホームルームするの珍しいな」
慶賀くんがそう口を挟む。確かに薫先生は帰る前のホームルームは滅多に見かけることがない。
神修で先生をしているけれど本職は神職だから、神職としての別件の仕事が入ってしまえばこちらに来ることが出来ないのだ。なので、いつもは薫先生が使役する妖が伝達内容を書いた手紙を持ってきてくれる。
「この後、本庁の頭のかったい爺たちとくっそ面倒くさい会議があるんだよね」
「へえ~。会議とかいつもサボってる薫先生が、ちゃんと出るんだ」
「慶賀。俺はね、サボってるんじゃなくて休息を取ってるんだよ。昼は慶賀らみたいなヤンチャの相手して、夜は妖の相手をして……若いってだけでこき使われてるんだから、会議のひとつやふたつくらいサボっても良いでしょ?」
結局サボってるんじゃん!とみんなの声が揃う。みんなして酷い、と薫先生はしくしく泣き真似を始めた。
「でも、急に会議なんて、何かあったんですか?」
「ああ、報告があるんだよ。鬼門の結界の件の。まねきの禰宜がやっと帰ってきたからね」
ええ!? とみんなが興奮気味に声を上げる。
何事かと目を瞬かせる。
「禰宜が神修に来てるの!?」
「来てるよ。さっきまねきの社にい────」
薫先生が全部いい切る前に、私と恵生くん以外のみんなは弾けるように立ち上がると教室の扉に向かって走り出す。
「おっと! ちょっと待てい三馬鹿」
薫先生は
空中でムクムクと大きくなったその紙は、来光くん、泰紀くん、慶賀くんを後ろから羽交い締めにして捕まえた。
自分の息を吹きかけると、自由自在に操ることが出来るものだ。
「うわあっ」
「ぎゃっ」
「いででっ」
三人の悲鳴が響く。慶賀くんは少し膨れっ面で「何!?」と薫先生を睨む。
「離せよ薫先生! 俺も禰宜のとこ行きたいー!!」
「行くのはいいけど、まねきの巫女から放課後に罰則を受けるようにって言付け預かってるよ」
「げっ! 俺のあれか!」
泰紀くんがそう言って、昼休みに社の屋根へサッカーボールを乗せてしまったことを思い出す。
「あははっ、心当たりあるんだね。それなら仕方ない」
「僕関係ないんですけど……!」
来光くんがズレたメガネのブリッジを押し上げながらそう抗議する。
「まあまあ、禰宜が帰っちゃわないうちにさっさと終わらしなよ」
「なんでいっつもこうなんだよーッ」
形代がひらりと元の大きさに戻る。くそー!と叫びながら三人が教室を飛び出して行った。
嘉正くんに教えて貰って、放課後は
本殿から赤い太鼓橋で繋がつもている建物のひとつで、言霊や妖、社についてのたくさんの書物が納められている。虫食いだらけの古い巻物から最新の書籍まで揃っていて、勉強するにはもってこいの場所だった。
「巫寿さん、こんにちは」
「
文殿の入口の文机で書き物をする細目の男性。放課後文殿へ来るようになって知り合った、
まねきの社の権禰宜で文殿の管理の一切を任されているのだとか。いつも参考になる書物をアドバイスしてくれる。
「このところ毎日勉強しに来ていますね。感心します。ほかの一年生も見習って欲しいものですね」
近くの小窓から外に視線を移した方賢さんは小さくため息を着く。
頭からツノが生えそうな勢いで怒っているまねきの巫女さまと、社頭を掃き掃除させられている慶賀くん達の姿があった。
あはは、と苦笑いで肩をすくめる。
「今日も読み書きの書物を?」
「あ……はい。それと、憑霊観破の基礎を勉強できて、私にも読める文字で書いてある書物ってありますか?」
「憑霊観破ですか。確か、五十二ノ棚にありましたね。棚が高いので僕の
方賢さんは懐から
指示を与えればその通りに動くので、神職の多くが形代を使っている。この文殿にも至る所に方賢さんの形代が居て、掃除をしたり書物を片付けたりしているのを見かけた。
「巫寿さんを案内しなさい」
こくりと頷いた形代が歩き出す。
文殿の一角は小上がりになっており、文机がずらりと並んでいる。本棚の前には机と椅子が設けられていて、自由に勉強したり読書に
方賢さんの式神に案内された棚の前に腰を下ろして、取ってもらった書籍を開ける。
……うん、これなら私にでも読めそう。
ほっと息を吐き、その隣にノートを開いてペンを走らせた。
集中して勉強していると、気がつけば窓から差し込む光が真っ赤に染っているのに気が付いた。もうそろそろ十九時を知らせる鐘がなる頃合いだ。
鐘が鳴るまでもう少し頑張ろう。
そう思ってノートに向き直ったその時、
「巫寿」
どこからか名前を呼ばれて顔を上げる。
辺りを見回して、棚の影に誰かいるのに気がついた。棚に手をかけたその人が顔をのぞかせる。見知った顔に思わず立ち上がった。
「禄輪さん……!」
「おっと」
慌てた様子で当たりを見回した禄輪さんは、唇に人差し指を当てて「しっ」と笑う。
「すまん、巫寿。今逃げている最中なんだ」
「逃げてる……?」
「ちょっと、まあ色々あって。色んなところで追いかけ回されててな」
曖昧にそう言ってはぐらかした禄輪さんは、私に歩み寄るとぽんと私の頭を撫でた。
「禄輪さん、どうして学校に……?」
「最近まで長期の任務で出掛けていたんだが、本来は神修の非常勤教員なんだ。今薫が教えてる授業は本来、私の受け持ちなんだよ」
薫先生の受け持ち、となるとも「詞表現演習」だ。
禄輪さんって、神修の先生だったんだ。
「まだ教員に本復職するのは難しいだろうけど、任務が一区切り着いたからその報告に来たんだ。これからは臨時講師として、神修に顔を出すことになる」
「報告……」
先程聞いたばかりの単語に思わず反応する。
ホームルームの時、薫先生は鬼門の結界について報告をするためにまねきの社の禰宜が来ていると言った。
じゃあ、もしかして。
「禄輪さんが、まねきの社の禰宜……?」
「ああ」
あ、と声を漏らす。
奉仕報告祭の日の夜に、嘉正くんたちと話したことを思い出したからだ。
まねきの社の禰宜は、本来、別の社の神主だった。空亡戦で禰宜の生家の社が潰れてしまったけれど、社の再興をする間もなく、空亡戦で破られた鬼門の修復をするために長い間鬼脈に遣わされていたんだ、と。
その代わりに、まねきの社の禰宜という役職を賜ったのだと。
「ん? もしかして聞いたのか? 私が禰宜になった経緯について」
困ったように眉を下げて笑った禄輪さん。
俯くようにひとつ頷く。
「
「でも」
「他の人の言葉を鵜呑みにしてはいけない。当の本人である私がそう言うんだ」
禄輪さんは、やんわりとそれ以上は言うなと態度で制す。
目を伏せて口をつぐめば、「ありがとう」とまた頭を撫でられた。
「で、どうだ学校生活は。友達はできたか?」
私の席の隣に座った禄輪さんは、頬杖をついて尋ねる。
「困ってることは無いか?」
禄輪さんは、ちらりと私が机の上に広げていたノートに視線を落とした。咄嗟にそれを閉じて自分の方へ引き寄せる。
「高等部からは専門性の高い授業が多いからな。これまで勉強してきたことが役に立たなくて、着いていくのも難しいだろう」
自分から言わなくても、禄輪さんにはお見通しだったらしい。喉がぎゅっと閉まって、鼻の奥がつんとする。
「授業、ついていけなくて」
「ああ」
「皆にも、迷惑かけちゃって」
「そうだったのか」
「言霊の力も、使う度に倒れちゃうし」
知らない場所、知らないこと。右も左も分からない世界で、ずっと気を張っていたのかもしれない。
お兄ちゃんに似た大きな手に背を撫でられて、涙がこぼれた。ぽろぽろ零れるそれは、ノートの表紙を濡らしていく。
禄輪さんは私の涙が止まるまで、黙って肩を優しく叩いてくれた。差し出された手ぬぐいで涙を脱ぐって顔を上げる。
「顔立ちや雰囲気は間違いなく泉寿にそっくりだが、勤勉さは間違いなく
「お父さん……?」
「ああ、一恍は努力を惜しまない勤勉な男だった。反対に泉寿は、手に負えないほどのお転婆娘だった」
お母さんがお転婆娘?
今日の授業で見た神楽舞を踊るお母さんの姿からは想像もできない。
「それはそうと、『言霊の力を使うと倒れる』と言ったな。どういうことだ?」
「あの、薫先生が言うには、私は祝詞を奏上する時にアクセル全開の状態で言霊の力を使っているらしいんです」
「なるほど、力の調整か。調整する時のイメージは人それぞれだから、掴むまでは長いだろう」
やっぱりそうなんだ。
はあ、とため息をこぼす。
「巫寿、この学校へ来たことを後悔してるか?」
「え?」
唐突にそう聞かれて、困惑気味に聞き返す。
「巫寿が、上手く力を扱えないのは、まだ受け入れられていないからのように思える」
「で、でも。私が選んでここに来たから」
「そうかもしれないな。でも、また
返す言葉がなかった。
お父さんやお母さん、お兄ちゃんがどんな日々を送っていたのか。私の中にある不思議な力は何なのか。それを知りたくて、自分で神修へ行こうと決めた。
けれどまだ心のどこかで、お兄ちゃんと平和に暮らしていたあの普通の生活を望む自分がいるのも確かだった。
普通に朝起きて普通に学校へ行って。勉強もそこそこできて、テストも割といい点が取れて。帰ってきたらお兄ちゃんが「おかえり」って晩御飯を用意してくれてて。
ほんの数週間前まではそんな生活だったのに、何もかもガラリと変わってしまった。
妖に襲われた時のあの恐怖はいつまでも忘れられなくて、禄輪さんのようにいとも簡単にあんな強い妖を祓えるようになるとは思えない。
授業初日の朝、禄輪さんから手紙を受け取った日から騰蛇と「結び」を作ることを頑なに避けてきた。「結び」の作り方は騰蛇から聞いて、やり方は知っている。
妖でありながら穢れを嫌う唯一で潔白な存在、十二神使という特別な妖の騰蛇。使役するのに特別な方法は必要なく、ただ私が一言「我が元に下れ」と言えばいいらしい。
また後で、そう言ってからもう何日も経っているのに、一度も騰蛇を呼んだことは無いし、結びを作ろうともしなかった。
忙しいからと理由をつけて先延ばしにしていたのは、結局、私がこの世界やこの力を受け入れられていないからだ。
「神修は学ぼうとするのもしないのも自由だ。巫寿は言わば、別の運命に巻き込まれるようにしてここへ来た」
「でも……私が行きたいって言ったんです」
「そうだ。だから、ここで学びを続けたいなら、全力でそれを支えるし、もし自分の道が別のところにあると思うのなら私はそれを応援したい」
どうして。どうして禄輪さんは、いつもここまで良くしてくれるんだろう。
ひとりになったとたん何も出来なくなって、助けて貰ってばかりで迷惑もかけてしまう。そんな赤の他人の私に、どうしてここまでしてくれるんだろう。
「私が神修にいる間は勉強を見てあげよう。こちらの学びも、現世で役に立つこともある。全ての学びは繋がってるんだよ」
「ありがとう、ございます」
私は神修で何をしたいんだろう。本当に知りたいことは何なんだろう。
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