空亡戦
壱
なんとか新学期の2週目を乗りきって週末がやってきた。
と言っても特にすることも無く、朝ごはんを食べたら何をしようかなと歯を磨きながらぼんやり考える。
先週は一週間の疲れもあってか、夕方近くまで眠りこけてしまったから、今週こそは学校の敷地内を探検したい。文殿で文字の勉強もしたいし、憑霊観破ももう少し勉強したい。
何より一番予習と復習をしなければならないのは、月曜日の三限目にある「憑物呪法学基礎」の授業だ。あの授業はいちばん苦手だ。何より科目担当の
授業初日の苦い記憶が蘇る。
奉仕報告祭が終わって第一週目の授業、一限目二限目は教師の自己紹介や授業方針、教科書の確認や雑談で終わり、休み時間も和やかな雰囲気で皆とおしゃべりして過ごしていた。
「次の授業も喋って終わりならいいのになー」
慶賀くんが自分の机の上に乗って足をプラプラさせながらそう言う。
「そうだね。いきなり難しい授業が始まるのかと思って、ちょっとどきどきしてたんだ」
へへ、と肩を竦めて笑う。
「初日は中等部までの復習とかが多いと思うよ。授業する先生も少なそうだね」
嘉正くんがそう言って、ほっと息を吐く。
この調子なら、なんとかやって行けそう。
そう思ったその時、始業を知らせる鐘の一つ目が鳴り響き、それと同時にパン!と大きな音を立てて教室の前扉が弾けるように開いた。
あまりの大きな音にびくりと肩を震わす。楽しげに雑談していた慶賀くんたちも、目を見開いて固まった。
瞬きした次の瞬間、誰も立っていなかったはずの教壇の前に紫袴を身につけた女性が立っている。
髪は肩につくくらいのながさで自分で切ったかのように不揃いで、顔の右半分は長い前髪に隠されていた。髪の隙間から見える肌は驚くほど白く、少し不気味なタレ目が、私たちを見下ろした。
「……何をしている。座れ」
次の瞬間、机の上に腰掛けていた慶賀くんは肩を強く押されたかのように体がのけ反り、「うわあッ!?」と悲鳴をあげる。
そのまま椅子の上へすとんと尻もちを着いた。
「私の授業で私の邪魔をするもの私の時間を無駄にするもの私の発言に反論するものは即教室から叩き出す。教科書七十一頁狐憑きについて
一拍遅れて、自分が指名されていることに気がついた。先生に見下ろされて、身を固くしながら恐る恐る立ち上がる。
「あ、あの……えっと……」
「京極恵生立て」
すっと立ち上がった恵生くん。
「被憑霊者の左右の手を指を輪にして、輪の中に「狐」の字を書きその字に灸を据えます。「狐」の字に「狐」の本体が備わるため、憑霊していれば熱がる素振りを見せます」
淡々と答えた恵生くんは静かに席に座ると教科書に視線を落とす。
「中等部で学んできたであろう基礎をいちいち振り返るような無意味な行動はしない。授業は予習しているものとして進める。今日から五回に分けて狐憑きに対する憑物呪法について教える。先程の文字に灸を据える方法は『浄土権化標目章』に出ているもので────邪魔だ座れ」
黒板に文字を書きながら、低い声でそう言った先生。
俯きがちに席に座った。いつの間にか止めていたらしい息を思い出したかのように吐き出す。
そして張り詰めたような空気の中授業が終わり、あの先生は玉富嬉々という名前の先生であることを知った。
「おいおい、見たかよあの不気味な顔!」
「女の人に失礼だよ」
「え!? あいつ女の人だったのか!?」
仰天する泰紀くんに、私もこっそり心の中で同調する。
「俺、先輩から聞いたんだけど、まじであの人ヤバいらしいよ! 噂じゃ、夜な夜な色んな社を徘徊して藁人形を集めてるとか……」
ひええ、と両腕を抱きしめた慶賀くん。
他にも、嬉々先生は女性だが巫女ではなく神主として奉仕しており、高等部では憑物呪法や呪学系全般を担当していることを教えてくれた。
その衝撃的な初日の授業以降、嬉々先生は私の中で完全に苦手な人の分類に割り振られた。少し救われたのが、私以外のみんなも嬉々先生に苦手意識を持っていたことだ。
慶賀くんは完全に怖がってしまったらしく、予習や復習も好きではないみたいなのに、月曜日の朝からずっと休み時間になる度に教科書を黙々と読んでいるし、嬉々先生の授業が始まる前は5分前に席に着いて喋らずにじっと授業が始まるのを待つくらいだ。
私も皆も似たようなものだけれど。
コップで口をゆすいで、はあ、と溜息をつく。月曜日のことを思うと色々と気が重かった。
タオルで顔を拭きながら共用スペースを歩いていると、「巫寿ーッ!」と大きな声で名前を呼ばれた。
振り返ると、遠くからの凄い勢いで慶賀くんと泰紀くん、二人に引きずられるようにして来光くんが走ってくるのが見えた。
何事かと目を瞬かせる。
「お、おはよう。どうしたの、皆してそんなに慌てて」
「落ち着いてなんか居られるもんかよ! 禄輪禰宜が俺たちに稽古付けてくれるって!」
うわぁーっと狂喜乱舞しながら走っていった慶賀くん。
「巫寿と早く来いよ! こんな機会逃したら、一生後悔するぞ!」
興奮気味に来光くんにヘッドロックをかける泰紀くんは、そう言い残してまた走り出す。
「僕まだ朝飯食べてる途中なのにーッ」
来光くんの悲痛な叫び声が廊下に響いた。
「巫寿! おはよう」
少し遅れて、嘉正くんも廊下の奥から走ってきた。
思わずくすくすと笑うと足を止めた嘉正くんが不思議そうに首を傾げる。
「おはよう。嘉正くんも?」
「あ、もしかして先越されてる? くそー、慶賀たちもう行ったんだ」
ちょっと悔しそうな顔をした嘉正くんにぷっと吹き出す。
「巫寿も早く朝飯食べて、おいでよ。禄輪禰宜にはまだ会ったことないよね」
「あ、えっと。実は禄輪さんとは知り合いで────」
「えっ、そうなの!? どういう関係!?」
身を乗り出した嘉正くんの目がきらきらと輝く。
どういう関係、なんだろう。
禄輪さんと両親が親友で、小さい頃は遊んでもらったこともあって、私とお兄ちゃんの後見人で……。
「親戚のおじさん……?」
「ほんとに!? すっごい羨ましいんだけど!」
いつも落ち着いた雰囲気の嘉正くんとは大違いで、まるで宝物を見つけた小さな子供のように興奮気味に身を乗り出す。
「そう、かな……?」
「そうだよ! 禄輪禰宜はずっと俺の幼い頃から俺の憧れだったんだ。強くて責任感があってそれなのにユニークな所もあって」
なんだか身内を褒められているような感じがしてくすぐったい。
「禄輪さんってどうしてそんなに有名なの……?」
「12年前の空亡戦で、空亡を自滅に追い込んだ張本人だからだよ」
その言葉に目を見開いた。
それは12年前、お父さんとお母さんを死に追いやった妖だ。
「あの、私その空亡っていう妖と戦った時のこと、あまり知らなくて」
「まあそうだよね。つい先日まではこの世界のこともしらなかったんでしょ? 仕方ないよ」
「だからその時何があったのか知りたい。みんなは何と戦っていたのか」
「……あんまり気分がい話ではないよ」
「うん、わかってる。私の両親は、空亡に殺されたから」
嘉正くんは目を見開いた。
「じゃあ場所、移そうか」
そう言って窓の外を指差したので、一つ頷いて外に出た。
嘉正くんと二人で寮の外に出た。
晴れた空とやさしく吹く風が心地よい。10時を知らせる鐘が遠くで鳴り響く。驚いた鳥たちが、鎮守の森から慌てて飛び立った。
二人並んで、社頭へ続く道を歩く。
「空亡って妖のことは知ってる?」
「禄輪さんが、授力を持つ神職を無差別に食い殺したって……」
「そう。幽世の中で最恐最悪な妖。現世では魂を他の生き物に憑依させてこの現世に紛れ込んでいたんだ」
「どうして、他の生き物に取り憑くの……? 妖って、そのままの姿でも現世で過ごせるんだよね?」
「『百鬼夜行絵巻』は覚えてる?」
『百鬼夜行絵巻』は室町時代後期の絵巻物だ。妖生態学の授業で使っている教科書の一つで、さまざまな妖が行列を成している姿が描かれている。
初日のガイダンスの授業で絵巻物をざっと見たのを覚えている。
「百鬼夜行絵巻の一番最後に「夜が明け太陽が昇るとともに妖怪が去って行く」という場面があったよね。その太陽は太陽ではなく、本当は妖である空亡の姿なんだ」
絵巻物を思い出す。そこに描かれていた太陽は、闇と黒雲と炎をまとった巨大な球体だった。
妖たちは、それに背を向けて逃げるようにして描かれていた。それは朝日を嫌ってではなく、空亡から逃げていたということだったんだ。
「現世でも幽世でも、空亡がその本当の姿を表せば世界が終わってしまうんだ。一瞬で燃えて、何も無くなってしまう」
ばくん、と大きく鼓動が波打つ。
「その空亡が現れたのは、僕らが生まれるちょうど三年前。今から十八年前に突然現れた」
突然現れた? と聞き返す。
だって、『百鬼夜行絵巻』が描かれたのは室町時代だ。少なくとも、室町時代には存在していたということになる。強い妖ほど長寿なのだと薫先生が言っていた。妖狐や天狗なんかは、五百から千年は生きるものだっているらしい。
だったら空亡だってそれくらいは生きていてもおかしくない。それなのに十八年前に現れたというのは少しおかしい。
「誰もわかっていないんだよ。空亡が今までどこにいたのか、なぜ今現れたのか。神職達が総出で調べても、残っていたのは木々が燃えた焼け野原だけだった」
嘉正くんが言うには、一番初めに空亡が現れたとされるのは、東北地方のとある小さな山の置くらしい。
けれど今その山は厳重に警戒が敷かれて閉ざされている。空亡が現れた瞬間、その山は一瞬で燃え尽き、灰の山になったからだ。
本殿の近くまで歩いてきた。社頭で慶賀くんたちと話をする禄輪さんの姿を見つける。
座ろうか、と促されて拝殿に繋がる階段に並んで腰かける。
「その後すぐに、妖たちが無差別に殺される事件が起きた。けれどこの頃はまだ、みんな空亡が出現したなんて思ってもいなかった。けれどその二年後、ひとつの社が一瞬で滅ぼされたんだ。ふくらの社という社で、まねきの社と同じくらい歴史が長く由緒ある神社だったんだ」
ふくらの社────
参道のすぐ隣に溜池があって、蓮と亀が泳いでいる綺麗な社の挿絵がそばにあった。
「そこに、妖の姿である空亡が現れて一瞬で社は滅ぼされたんだ」
「────待って。初めて現れた時は、山ひとつが消えたんだよね……? どうして今回は、社だけですんだの? それに、なぜ一瞬で滅んでしまったのに、現れたのが空亡だったことが伝わっているの?」
「現れたのが社だったからだよ。その神職は、空亡が現れたその瞬間、表の鳥居も裏の鳥居も閉ざして社を閉じたんだ」
嘉正くんの言葉を理解しようと自習で勉強したことを必死に思い出す。
たしか、どの神社も人間が通るための「表の鳥居」と、妖が通るための「裏の鳥居」のふたつの鳥居がある。日があるうちは表の鳥居から人が、月が登ると裏の鳥居から妖が入れて、違う種族がお互いの鳥居を通ることはできないのだとか。
この世界の社は、普通の神社のように鳥居がなくても塀を乗り越えれば境内に入れるような仕組みではなく、社の中へ入るには鳥居を通るしか方法がない。
「社を閉ざす」と言うことは、裏の鳥居も表の鳥居も封鎖してしまったということだ。つまり、社への入口を塞いでしまうということ。そうすると、中にいたものはもう絶対に幽世にも現世にも出ることは出来ない。
「塞いでしまえば、中の人はどうなるの?」
「分からない。今までにそんなことをした神職は誰一人としていなかったから。残されたのは鎮守の森だけで、どれだけの人で探しても、表の鳥居も裏の鳥居も見つからなかった」
嘉正くんが息を吐く。
「その時の神職は社の中にいて、空亡を見た瞬間社を閉ざしたんだって。本庁に霊符を送ったから、そこに現れたのが空亡であること、空亡は人の姿に身をやつしていること、そして空亡を封じるために社を閉じることがこちらに伝わったんだ」
嘉正くんは悲痛な面持ちでそう言った。
その時のふくらの社の神主さんのことを考えた。いきなり現れた目の前の強大な敵。考える余地もなく、逃げる余地もない。
限られた選択肢と突然突きつけられた運命に、どうして自分が犠牲になってまで社を閉ざすことを選べたのか。
「そこからは、敵が空亡である事が分かって本庁も対策本部を作って、沢山の神職が空亡を祓うために戦ったんだ。空亡に就く妖もいて、どんどん戦いは激化した。それで、十二年前」
ばくんと心臓が脈打つ。
私の両親が死んだ十二年前だ。
「禄輪禰宜が空亡の体の二十分の一を祓って、突然空亡が自分の身を八つ裂きにしたんだ。 バラバラになった体は方々へ散ろうとしたけれど、当時の審神者さまが自分の魂にその散った残穢の五分の一を封じ込めた」
審神者、その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような感じがした。
それはとても悲しくて苦しくて、無性に泣きたくなる懐かしい響きだった。
知っているはずなのに知らない。かむくらの社で鎮守の森に入った時と同じ感じがする。
「その後、禄輪禰宜が幽世へ派遣されたのは話したよね。 審神者ひとりと475名の神職が亡くなったて、空亡戦は一旦終息した。────これが空亡戦のおおまかな話かな。僕も産まれる前の事だから、詳細には知らないんだ。大人は話したがらないから、書物に残っている記録でしか知らなくて」
申し訳なさそうにそう言った嘉正くんに静かに首を振る。
475名の死者。あまりにも現実離れした数字に、ぴんとこなかった。けれどそのうちの2人は私のお父さんとお母さんだ。
そう思うとかっと目頭が熱くなって、咄嗟に唇を固く結ぶ。
きっと私のように、両親をなくした子供や家族や大切な人をなくした人は亡くなった人の数以上にいるんだろう。
ああ、でも。そっか。そうなんだ。
お父さんとお母さんは、そんなに強い敵と戦っていたんだね。
今なら両親の気持ちが痛いほど分かる気がする。
病院から帰ってきたあの日、目の前の妖と対峙して殺されそうになった時、怖くてたまらなかった。苦しくて恐ろしくて、手も足も出なくて。もう死ぬんだと絶望した。
でもお父さんとお母さんは空亡と対峙した時、恐怖や絶望に飲み込まれてしまいそうになりながらも、我が身を守るよりも先に私達のことを守ってくれたんだね。
堪えていた涙が睫毛を越えた。はたはたと石階段を落ちる雫が染めていく。
「ごめん、巫寿。話すべきじゃなかった」
「違う、の。教えてくれて、ありがとう。知っておきたかったから」
鼻をすすりながらそう言うと、嘉正くんは眉を下げて困ったように微笑む。
「おーい! 嘉正、巫寿ーッ!」
顔を上げると参道から、慶賀くんたちが大きく手を振っている姿が見えた。禄輪さんと目が合えば、小さく手を挙げてくれた。
「呼んでるね。僕、行ってくる。巫寿は戻る?」
「……うん。そうする。朝ごはん、そういえばまだだったし」
「今朝は焼き鮭だったよ」
それは急がなきゃ、と肩をすくめると、嘉正くんは安心したように目尻を下げた。
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