悪意と願い

――国立ディロウ研究所。

都の中央にあるガラス張りの建物は、都市を見下ろすかのようにそびえ立っている。外からその姿を見た者は、建物の全面のガラスに空が映り込み、まるでそれ自体が空にあるかのような錯覚を覚えることだろう。

そんな建物の一室で、一組の男女がグラスを手に話をしていた。

「はぁ、主役になるとパーティーを抜け出すのも大変になるのね」

そう愚痴をこぼしつつも、女は手に持ったグラスをくるくると回した。彼女の今の気持ちを表すように、中の液体がはねるように揺れる。

「仕方がないでしょう。今日は貴方を祝うための日ですから。改めて、研究所所長への就任おめでとうございます、睡蓮」

「ありがとう。それから、あなたも副所長就任おめでとう、朔弥。ようやくあたしたちの念願が叶ったわね」

朔弥は笑って、グラスに口をつけた。彼らの計画は順調に進んでいる。今日くらいは少し気を緩めても問題ないだろう。

「翡翠さまは罪を犯して都を追放された上に資格を剥奪され、彼女に従う者はもういない…。なんて素晴らしいのかしら。…朔弥さまは今、どんな気持ち?」

「そうですね。いなくなって良かった、というのが一番でしょうか」

朔弥はふと翡翠の姿を思い浮かべた。

――幼いときから、実験漬けの日々を送っていた少女。誰かに言われたからやっているのではなく、自分の意思で自分が納得するまでやり続けていた。その姿は狂気的であり、どこか孤独でもあった。

それでも結局自分の一番欲しかったものを手に入れられなかった翡翠は、代わりに研究成果による名声を手に入れて、朔弥の前から姿を消した。当時、彼女にとっては一番つらい状況下であったにもかかわらず、兄である朔弥を頼らなかったということは、それだけ信用されていなかったということなのだろう。…まあ、頼られたところで適切な対応ができたかどうかと言われると、それは別の問題なのだが。

そうした過程を経て、翡翠は史上最年少で研究所の所長の地位に上り詰めることになる。だけど、その頃にはとっくに二人の仲は壊れていて、どうにもならないところまで来ていた。

――いや、朔弥がそうしたと言うべきだろうか。


結局会場に呼び戻されてしまった睡蓮と別れた朔弥は、密かにとある人物のところへ向かっていた。研究所を抜けだし、夜の町を歩く。地下道の方が突然襲ってきたディロウから身を守れて安全なのだが、朔弥は外の方が好きだった。

念のためにと首にぶら下げた小型のディロウ予測装置を見てみたが、特に異常はない。しばらくは問題ないはずだ。

幸いにも外に人影はない。誰にも気付かれずに目的地へと向かえそうだ。

市街にはしばらく朔弥の足音だけが響いていたが、やがて音もなく彼は現れた。

「やあ、副所長殿。久しぶりだから、僕自ら出迎えることにしたよ。どうだい、驚いたかな?」

「…満汐みちしお様。その呼び方は止めて下さい。それと、護衛はどうされたのです?」

「うん?当然、撒いてきたに決まっているじゃないか。今は彼らのことも信用できない状態だからね…」

悪びれる様子もなくそんなことを言う脱走常習犯――もとい、瑚州こしゅう継承者・満汐は、にこにこと笑いながら朔弥の隣に並んだ。

「…あなたの護衛は一応ちゃんとした訓練を受けているはずですが。よく毎回抜け出せますね」

「あー、何回もやり過ぎて慣れただけだよ」

自慢げにそんなことを言っているが、本来はよくない。絶対に悪い。満汐は仮にも次の王なのに、護衛をつけずに外を歩き回りまくっている。警備の面でもそうだが、ディロウという災いの観点からも危険極まりない行為だ。一応この件について彼は何度も怒られているはずなのだが、まったく反省する気がないのが問題である。

(護衛を撒けるほどの技術を身につけるとは…。満汐様がよっぽど練習したのか、或いは護衛があまりにも役立たずなのか…)

果たしてどちらが正しいのかと朔弥が考えていると、

「で、新所長殿の調子はどうだい?」

満汐はさっさと話題を変えた。恐らく、朔弥に一人でうろついていることについて追及されたら面倒だとでも思ったのだろう。

「…。睡蓮は翡翠を追い出せたことに満足している様子です。ただ、未だに多少は気にしている様子かと」

「へえ?追い出すだけでは物足りないと?随分わがままなお嬢さんだね」

満汐は呆れたような表情をした。その意見については朔弥も同じ考えなので、うなずいた。

「取りあえず、翡翠が無事に都から追放されて良かったです。あのままでは、睡蓮が翡翠に害を及ぼすのも時間の問題でしたから」

翡翠と睡蓮が物理的に離れたおかげで、しばらくは翡翠の安全は保たれることになるだろう。元々睡蓮が立てていた「翡翠に罪を着せて葬る」という計画に半分乗っかるような形を取ったおかげで、睡蓮にこちらの関与を疑われずに翡翠を都から離れさせることができた。

「彼女に真相を伝えられないまま事を進めてしまったのは申し訳なかったけどね。…というか、朔弥、何故事前に翡翠に話さなかったんだい?」

「…翡翠が知らなくても、計画の進行には何の問題もありませんでしたから」

それは事実ではあったが、満汐が聞きたい答えではなかったし、朔弥もそれが『不正解』であることを分かっているはずだ。満汐は仕方なくヒントを与えることにした。

「違うよ。真面目な君なら、情報漏洩の危険性がない限り、関係者には事前に話を通しておくはずだ。それを怠ったのは…、翡翠が大切だから?それとも恨んでいるから?どちらにせよ、君の感情こそが今回の行動理由に直結している――、違うかい?」

その問いに、朔弥は自らも逃げていた感情に目を向けざるを得なくなる。どうしてなのか、という疑問は朔弥自身もずっと考えていたことだったが、ずっと答えが出ていなかった。

長い間、朔弥も翡翠も互いを避けていた。かつて朔弥は翡翠を許すことはないと直接伝えたことがあるし、翡翠もそれを理解してなるべく顔を合わせないようにと気を遣ってくれていた。

それでも翡翠に危害が加えられるのは本意ではないからと満汐に協力するようになり、この計画にも加わった。睡蓮に協力しているふりをしているのもそのためだ。

確かにこのことを翡翠に伝える機会は何回もあったし、それを睡蓮に気取られないようにするのも簡単だった。

――それが、何もできずに終わってしまったなんて。その理由が、未だに割り切れない思いがあるからか、単なる仕返しのようなものなのか。

翡翠に対して今抱いている感情は何かという問いからずっと目を逸らしていたせいで、答えはすぐ出そうにない。

腹立たしいことに、満汐はそんな朔弥の気持ちをすべて見透かしているようだった。

「その様子だと、自分でも理由が分からないようだね?それなら、この答えは次会う時までの宿題にしておこう」

好奇心旺盛な満汐にしては珍しく、追及の手を途中で引っ込めてくれたので、朔弥はありがたく話題を変えることにした。

「…今回派手に動いてしまったので、しばらくはおとなしく睡蓮に付き従っておきます」

満汐はうなずくと、夜空を振り仰いだ。天高く昇った月には、雲がかかりつつある。ディロウではないが、もうすぐ雨が降り始めるだろう。

「――睡蓮。彼女には何か目的がある。翡翠の存在を気にしているのは、十中八九彼女が自身の計画の邪魔になると考えているからだろう」

その悪意が消えない限り、どんなに都から離れていても、翡翠の安全を完全に保証することはできない。

「睡蓮が本格的に動き出す前にその正体を暴くこと。そして、彼女よりも先に翡翠の居場所を見つけること…。それが僕たちの喫緊の課題だ」

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