新たな場所で

紫季と名乗るこの青年が調水師であるのなら、このドームについて何か知っているかもしれない。

「ね、このドームはあなたが管理しているの?」

わたしは上を指さした。淡い虹色の光が降り注ぎ、町全体を優しく満たしている。時折小さな影が地面を横切るのは、ドームの外のディロウ生物だろう。

「まあ、そうだな。…あ、その言葉で思い出した。俺がここに来たのは、ドームを調べるためなんだ。さっき、一瞬ではあるがドームの一部にゆがみが生じて。何か知らないか?」

そう言われても、わたしはディロウ用大型ドームなんて今日まで見たことがなかったので、原因など分かるはずがない。

ただ、仮にこの巨大なドームが、一般的なドームと同じ仕様だとしたら…。考えられる可能性はいくつかある。

「…ディロウ生物が衝突したとか?」

「いや。データを見る限り、そういった数値は観測されてないから、関係ないと思う」

先程ディロウの中を歩いてきたとき、なかなかお目にかかれないエイ型の生物もいたし、ひょっとしたらと思ったけれど、どうやら違うらしい。

わたしは再び考えをめぐらせた。

「他に考えられるのは、ドームの中から人や物が出ていった、あるいはその逆……、あ」

自分で言っていて思い出した。そういえばわたしたち、このドームの外から入ってきたんだった。

「翡翠さま、これは…」

瑠璃も同じ結論に至ったようだ。わたしは彼女の方を向いてうなずいた。

「うん。恐らくこれは、わたしたちのせいだね」

紫季の方に向き直ると、彼は不思議そうに首を傾けた。

「…どういう意味だ?」

「わたしたち、さっきここに着いたばかりなの。外で突然ディロウに襲われたから、避難できる場所を探してて。そしたら、このドームを見つけたんだ」

しかし、紫季はまだ困惑しているようだった。

「いや、待ってくれ。それなら、どうやってディロウの中を移動してきたっていうんだ?」

「あー…」

確かに、普通ならディロウの中で自由に行動することなんてできない。何の装備もしていなければディロウの侵食を受けてしまうし、そもそも水の中で呼吸できずに溺れてしまう。それに、ディロウ生物の中には凶暴な個体もいて、襲われる危険性もある。だから、そんな中を移動するなんて通常は不可能なのだ。

わたしは答えに窮した。ここに来るために使った傘はわたしの発明品で、実用化されていない。だが、調水師が少し見れば、これが特殊な傘だということはすぐに分かるだろう。傘の布にはディロウ用の生地を使っているし、骨組みにも特殊な素材を使っている。紫季に見せてしまったら、わたしが調水師ということがバレるかもしれない。

「えっと…」

さりげなく持っていた傘を後ろに隠しつつ、わたしはどう答えようかと考えた。でも、いい答えは何も思い浮かばない。

そんなわたしに、紫季は最初に声をかけてきた時のような、どこか冷たさを帯びた目を向けた。

「やっぱり君は、国立研究所所長の翡翠なのか?」

「っ! それ、は……」

突然の言葉にうまく反応できなかった。あまりにも唐突だが、核心を突いた言葉。それに反論するための準備など何一つしていなかった。

わたしは紫季の問いに肯定も否定もできなかったけど、きっと何も答えられなかったこそが、彼の言葉が事実であることの決定的な証明となってしまっているだろう。

わたしは少し考えた後、こう尋ねた。

「どうして、分かったの?」

「名前については、君の連れが呼んでいた。あと、君は一般人にしてはディロウやその対策に関する知識が豊富だというのも会話から分かる。でも、決定的なのはその傘だ。…そんな道具、今まで見たことない」

紫季はすべて見通しているかのように、わたしの方を見ている。でも、その目が見ているのはわたしではなく、背に隠していた傘の方だ。

「翡翠という名前、ディロウに対する知識と好奇心、何よりも、他の誰にも生み出せない発明品…。この三つがそろえば、誰だって君の正体に気付くだろうな」

わたしはゆっくりと傘を持っていた手を戻した。この状況では、隠していても意味がない。

ただ、一つだけ訂正しなければならないことがある。今のわたしは、所長なんかじゃない。…調水師ですらない。それらの肩書きは、何の意味もなさない。――今までの人生はすべて水泡と化して、もうどこにもない。

「わたしは……」

けれど、紫季がわたしの言葉を遮るようにして告げた。

「誰から聞いたのか知らないけど、君にこのドームの技術について話すことはない」

「……はい?」

予想外の言葉に、再び返答に困った。確かにどういった技を使って大型ドームを作り上げたのか気になるところではあるけど、別に無理矢理聞き出すつもりなんてないし、そのためにここに来たわけでもない。もしかして、何か誤解している…?それを尋ねようとしたが、その前に紫季は身を翻してどこかへと行ってしまった。別れの挨拶さえなかった。

あまりの急展開に呆然としていると、瑠璃がわたしの肩を叩いた。

「翡翠さま、気にすることはありません。これまでもああいう態度の方は何人もいらっしゃいましたが、いちいち反応していたらキリがありませんもの」

「うん。……兄さまも、そうだったね」

わたしは傘をトランクケースにしまいつつ、ぼんやりと考え込んだ。確かに所長だった時のわたしを敵視する人は多かった。そういった人の大半は、わたしが史上最年少でその地位に就いたことに対する嫉妬や恨みといった感情を視線や言葉という形で向けてきたけれど、中には例外もいる。そのうちの一人が、わたしの兄である朔弥さくやだった。

彼もまたわたしに憎しみを向けるうちの一人だったけど、彼の場合、その対象は『研究所の所長である翡翠』ではなく、『翡翠という一人の人間』だった。

そして、それは紫季も同じ気がする。わたしが所長だから嫌い、というよりは、わたしが翡翠だから嫌い、みたいな…。そんな感覚。

「…会ったことは、ないはずだけど」

紫季がわたしを嫌う理由は分からないけど、向こうもわたしと話したくないだろうし、あまり関わらないほうがいいだろう。

「それより、翡翠さま。この後どうしましょうか」

瑠璃が気を遣ってか話題を変えて、わたしの思考は中断した。時計台に目を移すと、時刻は夕方に差し掛かる頃を指していた。更に目を上げると、ドーム越しに水が揺らめいているのが見える。ディロウに伴う雨は既に過ぎ去ったようで、オレンジ色の光が差し込んでおり、ドームは夕日の色に染まっていた。でも、水が完全に引くまでにはまだしばらく時間がかかりそうだ。どちらにせよ、今日はこれ以上別の町に移動することは難しいだろう。

「そうだね…。今日はここで泊まろうか。ついでにこの後どうするかについても相談しない?」

「ええ、もちろんです。では、早速宿泊先を探しに行きましょう」

「うん。いいところが見つかるといいんだけど」

わたしたちはそんなことを話しつつ、町の中心地へと足を踏み入れた。

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