知らない技術と青年調水師
バシャン、という水に落ちる音と、大量の泡が水面へと勢いよく上っていく音。一瞬聴覚がそれらの音で支配された。けれどそれも一瞬の話だ。
「瑠璃、目を開けても大丈夫だよ」
そう声をかけると、瑠璃は恐る恐る目を開けた。
「は、はい…、って、あれ?わたくしたち、ディロウに落ちたはず…」
瑠璃はきょとんとして首をかしげた。いつも冷静で何事にも動じない彼女がそんな仕草をするのは珍しい。わたしは思わず笑ってしまった。
「その通り。でも、これのおかげでわたしたちはディロウの中でも無事でいられる」
わたしはくるくると傘を回してみせた。わたしの発明品の一つであるこの傘は、差している人物とその周囲にいる人をディロウから守ることができる。ディロウの中でも人間が呼吸できるような空間を作ってくれる便利な品だ。しかも、水に流されることなく水中を歩くことができる。これでディロウの中でも簡単に移動することが可能になるのだ。
「そんな物まで発明していたなんて…、知りませんでした」
「うん。これは、暇つぶしに作ったものだから。正式な研究品じゃないよ。結構気に入ってはいるんだけどね」
ふわふわとディロウの中を漂いながら、わたしたちはドームを目指した。時折、淡い青白の光を放つ生物が横切っていく。それらはディロウ生物と呼ばれている不思議な生き物で、ディロウでできた水中にしか存在しない。研究所でも何種類か飼われていたが、ディロウの中で活動するのはとても危険なので、捕獲するのが難しく、非常に希少なものでもあった。
そして、そのうちの一つがわたしの目に留まった。
「あぁ!あれ、エイだ!研究所にはいないから、実地調査で一度しか見たことがなかったんだけど…。すごい!本物だ!」
悠々と泳いでいる様は、まるで翼を広げて空を飛んでいる鳥のようだ。その影が地面に落ち、水の遙か上から降り注ぐ光を遮る。
せっかくだしここでしばらく観察してもいいかもしれない。
「…あの、はしゃいでいるところ申し訳ないのですが、早く行きましょう。傘があるとは言え、ずっとディロウに留まっているのは…」
「う…、ごめん、瑠璃。そろそろドームの中に入ろう」
そういえば瑠璃に抱えられていたままだったことをようやく思い出し、わたしは地面に下ろしてもらった。ドームに向かって歩きながら、わたしたちは言葉を交わした。
「このドーム、ずっと昔からあったのでしょうか」
「どうだろう?近くで観察してみないと分からないけど。でも、これを作った人にはすごく興味がある。きっとすごい才能の持ち主なんだろうね」
国内のあらゆる場所から集まった調水師が研究している都の研究所でも、こんな大規模なドームは作れない。基本的にディロウ用ドームは人が十人入れるくらいの小さなものしかなくて、そういったものは主要な街道などに設置されていることが多い。大型だと不安定になってしまい、形を維持するのが難しくなってしまうのだ。そのため、建物が多く密集している都市であっても、ディロウ対策としてできるのは、建物をディロウに浸食されにくい素材で建てることや、ディロウの発生を予測してその時間帯に外に出ないよう注意を促すことくらいだ。
「こうしたドームであれば、ディロウが襲ってきても外で活動できますし…、生活の不便さが改善しますね」
「そうだね。都内ではもう、地下道を使った移動が主流になっちゃったけど。ずっと窓のない閉塞感のある場所を歩くのは嫌だしね」
この国では、地上で普通に生活するのが難しい。人々の生活を滞らせないようにするために、都に通るほとんどの道は地下にもつくられた。薄暗いから、わたしはあまり好きじゃなかったし、そもそも研究所に引きこもってばかりで利用する機会も少なかったけど。
そんなことを思い出しているうちにわたしたちはドームの前にたどり着いた。虹色のベール越しに中の町並みが見える。
「行こう、瑠璃」
わたしたちはドームの中へと一歩足を踏み出した。一瞬、何かに包みこまれるような感覚を覚えたが、それ以外は何もない。中に引き込まれるように、わたしたちは中へと入った。振り返ってみると、膜越しにディロウ生物が漂っているのが見える。
意外にも何の抵抗もなく、膜を通過することができた。そのことに拍子抜けしつつも、ほっとした。少なくとも、ディロウの危機からは脱することができたのだから。
「やはり、ここで暮らしている方々は、このドームのおかげで災いの中でも普通の生活を送れるようですね…」
瑠璃が見ている方向に目を向けると、ドームの外はディロウだというのに、大通りには人が行き交い、談笑したり買い物したりする様子が確認できた。
「うん。でも、どうやらここにドームができたのは、そんなに昔のことじゃないみたい」
わたしは傘を閉じて、近くの建物の壁に触れてみた。ドームから降り注ぐ淡い光できらきらと輝いている。この煌めきは、都の建物でもよく見られるものだ。
「この建物、建材にディロウ抵抗性のある素材が練り込まれてるみたいだけど、こうした素材はディロウにさらされる度に光沢を放つようになる」
摩耗した建材はやがてディロウの侵食に耐えられなくなってしまうけど、この建物はその一歩手前といったところだろうか。そして、それこそがこの場所もディロウにさらされた過去があることの証明でもある。
都では、この状態の建物はすぐにでも修理することになる。都内では、建物の修理費用の一部に国から補助金が出るので、そこまで高くなることはない。
「この状態のまま放置されているのは、あまり良くないことだけど…、ここではディロウの侵食がないからそこまで問題ないのかも」
そこまで話したとき、突然第三者の声が割り込んできた。
「見事な推理だな。大当たりだ」
驚いて声がした方を見ると、いつの間にかそこに青年が立っていた。膝丈まである白衣に似た服を身にまとっている。一見、研究者のように見える。
「そこまでディロウの対策に詳しいとは。君も調水師か?」
少し冷ややかさと警戒感がにじむ声。その口ぶりからすると、彼がこの町の調水師なのだろうか。
「違うよ、わたしたちはただの旅人」
咄嗟に口をついたのは、半分正解とも不正解とも言える中途半端な言葉だった。確かにわたしは調水師だった。でも、今は違う…。資格を失ったわたしは、何者でもない。自分でも今の身分をどう表すべきなのかよく分からない。
ただ、わたしが罪を犯して研究所を追放されたという話はすぐにでも国中に広まるだろう。今はまだあまり日が経っていないから、さすがに都の外までは伝わっていないはずだけど。
それでも、わたしが罪人であると知られたら。その際に向けられる反応が、表情が、想像するだけでも恐ろしい。…だからきっと、わたしの正体は知られない方がいい。
「…そうか。まあいい。ここは色々な人間が通過する場所だからな」
彼は深く追及するつもりはないようだが、少しわたしたちに対する疑念を残してしまったかもしれない…。
そんなわたしの懸念を知る由もない青年は、親しげな笑みを浮かべて言った。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺は
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