調水師と止まない雨の国

雨星あゆ

調水師と旅のはじまり

ゆるやかな風が、崖の上に広がる草原とそこに立ち尽くすわたしを撫でる。その冷たさが空っぽになったわたしの心にも吹き込んでくるようだった。…どうやら今の状況は、自分で思っている以上に精神的に応えているらしい。

「翡翠さま」

振り返ると、凜とした佇まいの女がこちらに歩いてくるところだった。

「…瑠璃。もうわたしのことは呼び捨てでもいいんだよ?」

「いえ、翡翠さまは翡翠さまです。何があろうとも、わたくしの主であることに変わりありません」

真面目なわたしの護衛は、首を横に振った。その動きに合わせて後ろで一つに束ねられた髪がさらさらと揺れる。瑠璃はどこまでもまっすぐだけど、彼女を見ていると時々無性に意地悪したくなる。

「今のわたしは国立ディロウ研究所所長じゃなくて、ただの罪人なのに?」

あえて自虐的にそう言ってみると、瑠璃は途端に慌てだした。

「確かに表向きはそうかもしれませんが…!あれが冤罪であることは、わたくしはもちろん、あなた自身おわかりでしょう!」

「そうだけど…、結局身の潔白を証明できなかったしね」

苦笑と共に発した言葉は、自分で言ったにもかかわらず鋭い刃のようにわたしの心を突き刺した。

――あの一件でわたしは研究を続けられなくなり、都を追い出された。

その事実を改めて考え直すと、とても悔しいし心が痛い。そんなわたしに、瑠璃は寂しそうな目を向けた。ちょっとからかうだけのつもりが、お互いの心の傷をえぐってしまったようだ。

「…ごめんね、こんなこと言ってる場合じゃないのに。早く新しい生活の拠点を見つけないと。それに、ここだとディロウから身を守れないし」

「そうですね…。取りあえず、近くの町を目指しましょうか」

瑠璃も同意してくれたので、わたしは足下に置いていたトランクケースを持ち上げ、早速移動を始めることにした。


――止まない雨、ディロウ。

それはわたしの研究対象であり、この国に住むすべての人を悩ませる災いでもある。一度ディロウが発生すると、その土地はどこからか湧き出てきた大量の水と豪雨に見舞われ、あっという間に水底に沈む。

大抵の場合、それは数時間ほどで収まり、水も引いていくのだが、何度も災害に遭ったり、長時間沈んだりした土地や建物、人は次第に水に浸食されてしまう。

浸食された地域は、最後にはすべて水に変わり、その場所には文明を犠牲にしてできあがった湖が現れる。

こうして今までに幾つもの町が消え、人が失われ、この国は少しずつ衰退していっている。

この滅亡の運命に抗うために存在するのが、「調水師」と呼ばれる人々だ。

彼らはディロウを研究し、人々がそれに対抗するための道具や機械の開発を行っている。たとえば、ディロウの到来を事前に予測して、その強さと共に人々に知らせる道具、それからディロウから身を守ってくれる小さなドーム型の装置…。

それらのおかげで人々は以前よりもディロウに対して柔軟に対応できるようになった。ただ、この災いの原因はまだ分かっておらず、当然根本的に取り除く方法もない。それでもいつかはこの災害をこの国からなくすため、調水師たちは日夜努力をしている。


そして、この仕事はつい最近までわたしが就いていた職でもあった。国が運営する研究所の所長。それがわたしの肩書きだった。だけど、その身分は既に過去のものとなり、今のわたしは調水師でも何でもない。わたしの手に残っているのは罪だけ。他は全部なくなってしまった。まるで雨がすべてを流し去るように。

けれど、嘆いてばかりではいられない。罪のために都をも追放されてしまったわたしは、一秒でも早く新たな生活の拠点を探さなければならなかった。町であればディロウから身を守れる設備が備わっているが、こんなだだっ広い草原ではこの水の災いが起きたらすぐに流されてしまう。町の外であっても、よく使われる街道などには簡易的な避難場所や道具などが用意されていることがあるが、残念ながらここにはそういったものが何もない。

ディロウの発生は誰にも予想できない。しのげるような場所に着くまでは警戒を怠らないようにしなければ…。そう考えていた時、隣の瑠璃が何かに気付いた。

「翡翠さま。ペンダントが光っていますよ」

視線を落とすと、透明な正四面体のペンダントが激しく点滅していた。それは、正に今わたしが危惧していた事態が起ころうとしていることを意味している。わたしはため息をついた。

「――ディロウが、ここに来る」

このペンダントもわたしの発明品の一つだ。基本的に、ディロウ予測装置は設置型の物ばかりなのだが、それだと町の間を移動している時に警報が出ても、それを知ることができない。だから、主に町と町を行き来している行商人などのために、こうした持ち運びできる予測装置を開発してみたのだ。

「点滅の激しさからすると、相当な強さですよね…?」

「そうだね…。早く避難しないと」

冷たい風が吹き荒れる中、わたしは崖下を見下ろした。既にポツポツと雨が降り始める中、どこからか湧き出てきた水が地面を覆い隠そうとしている。…まさか、こんなにも早く浸食が進むなんて。

一方、反対方向の崖から見える景色はまだ正常だ。あっちの方向に逃げたらどうにかなるかもしれない。

「瑠璃、確か飛行術を習得してたよね?」

「ええ、ですが、わたくしはせいぜい高度を維持することくらいしか…」

「それでもいい。わたしの発明品で、多少のディロウはどうにかなる。取りあえずディロウがしのげそうな場所を上から探そう」

分かりました、と瑠璃はうなずいて、持っている荷物ごとわたしを横抱きにした。

「え、待って、これで行くの?重くない?ちゃんと飛行できる?」

「これが一番効率的です。それに、これくらい平気ですよ」

そう言って、瑠璃は早速飛行術を使った。あっという間に先ほどまでいた崖が離れていく。だが、ディロウもあり得ないほどの速さで広がってきていた。ディロウが現れた方とは反対側に逃げているはずなのに、既にこちらの方まで水に覆われ始めている。そのうちこの高さまで水が上がってくるだろう。わたしは周囲を見渡しながら、トランクケースの中から一本の折りたたみ傘を取り出した。これも、わたしの発明品の一つだ。

「あとはこれを使う場所さえ見極めれば……、あれ?」

視界の端に何か不思議なものが映ったような気がして、わたしはそちらに目を向けた。それにつられて同じ方を見た瑠璃も驚いたようだった。

「あれは…、ドーム型シェルター?でも…」

水に飲み込まれつつある地上にぽつんと佇む、うっすらと虹色に輝く半透明のドーム。それだけ見ると、その辺にある小型のディロウ用シェルターと同じように見える。けど、明らかに違うのはその大きさだ。普通なら小さな家一軒分くらいを覆うのが精一杯なのに、わたしたちの視界に映るドームは、背の高い時計台を含めて、町全体をまるまる覆えるくらいの大きさだ。

「こんな技術、見たことない…。一体誰が……、いや、そんなこと言ってる場合じゃないか。瑠璃、あの町に降りよう」

「ええ?!しかし、降りるって言っても、どうやって…」

わたしたちが話しているうちに、ドームはディロウにすべて沈んでしまっていた。この状態で降りれば、ドームの中にたどり着く前に流されてしまうだろう。でも、そんな時こそわたしの発明品の出番だ。

「大丈夫、わたしが合図したら飛行術を解除して。きっと上手くいくから」

そう言うと、瑠璃は少し不安そうな表情を浮かべつつもうなずいてくれた。

そうしているうちに、水面が近づいてきた。

「瑠璃、行くよ。……三、二、一!」

飛行術が解除されると同時に、わたしは傘を開く。その状態で、わたしたちはディロウの中へと落ちていった。

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