第漆幕 嘘つき曲馬団

 滋比古は、立てつけの悪い玄関の引き戸を丁寧に閉めて、外に出た。上弦の月。

「滋比古様」

 密やかな声は曲馬。手招きをしている。井戸の蓋に置いてあるカンテラが、その姿を幻燈のように浮かび上がらせていた。その横に、滋比古もカンテラを置く。明るさが倍になる。

「坊っ……いえ滋比古様、お巻はどうでした」

「お巻さんは、大丈夫だ」

 滋比古は胸を張る。

「お千代さんは、本当に笑っていたんだと伝えたよ。お巻さんに甘えて、最期に家族になったんだとボクは信じる。だから」

「なんと慈悲深い」

 曲馬は滋比古の言葉を遮り、両手を広げた。花のような白手袋。

「やはり貴方は、本物の紳士であらせられる。カフエエや先程までの態度は、目眩めくらまし。正しいお血筋のお方ならではの、ご判断」

 言いながら、曲馬は上着の内ポッケットを探り、小さなアルミニュウムの水筒を取り出した。

「カフエエから珈琲を貰ってきたのですが、如何」

「え」

「もうすっかり冷めておりますし、ああ、牛乳もお砂糖も入っておりませんし、滋比古様のお口には合わないかもしれません」

 なんだか、少し、突然すぎるように滋比古には思えた。だが、たくさん喋って喉が渇いていた。

「ボクは、牛乳も砂糖もいらないぞ」

「では、お口に合いますな」

 曲馬が差し出す水筒を、滋比古は受け取った。考えがないままに受け取った。重ねたコクテルが効いていたせいもあり、染み入った。苦い。だけど、曲馬の言い草が癪に触っているので、飲み干した。

「全部飲んだからな」

「それはそれは。お流石でございます」

 ――いったい何時くらいなんだろう。滋比古は月を見上げた。

 言うべきことがあった気がするが、夜も更けてきたせいか冷えが気になってきた。頬や指先ががジンと痺れる。

「滋比古様、ところでひとつ気が付かれてますかな」

 分厚いカイゼル髭を撫でつけながら、曲馬が訊いた。

「なんだ」

 足先まで冷えが来たのか。滋比古の爪先がジンジンと痺れる。

「キャット兄弟のおぉぉ部ェ屋でェ話しししたあァぁ」

 曲馬の声が揺れ出した。耳まで冷えきったかと、滋比古は両手で耳たぶを摘まむ。暖かい。熱い。曲馬の口が動いている。分厚いカイゼル髭を、しきりに撫でつけている。一連の動きがゆっくりとぶれてゆく。目の前がグラグラと揺れる。

 ――ボクは……、寒いんじゃない!

「もおおォぉううぅゥゥオそイよおおォォ」

 曲馬の声が、遠くから近くから何重にも響く。

「サアぁぁミるがいィィいイ」

 月明かりに白く輝く両手がゆっくりと、分厚いカイゼル髭を剥ぎ取った。

 滋比古は、懸命に井戸の蓋に手を付きながら、声と同じく何重にも重なる曲馬の姿を、顔を、露わになった唇を凝視する。一瞬だけ焦点が合った。

「か、母さ」

 舌がもつれ、グラリ。倒れこむ滋比古。意志を失った腕がカンテラを薙ぎ払い、灯りが消える。曲馬が両腕を開く。花のような白手袋。少年の赤い頬は、待ち構えていた二塊の柔い肉に埋もれた。

「失敬な。ずぅっと若いよ。うっふっふ……あっはっはァ!」


 暗転。


 暗闇に、ポッと緋色。左右に分かれ、丸く走り、たちまち炎の輪となる。

 トトトト、タン! 軽快な足音とともにキャット次郎がトンボを切って、躍り出た。トトトト、タン! 三郎が後に続く。ピタリ。見得みえを切るその顔には猫の口。

 ジンタッター。ジンタッター。ジンタッタッタァター。口三味線。三ツ首のヒィ、フゥ、ミィが滑稽な動きで舞台に躍り出た。三つの首が律動に合わせて、ぐるぐると廻る。

 ぐるぐると廻る首の隙間を縫って、銀の刃がすり抜ける。ツラヌキお巻のナイフ投げ。三ツ首の髪の毛一筋、傷付けず、背後の板に小気味よく刺さる。黒い目隠し布には一分いちぶの隙もない。

 くるり。ジンタッタの声に合わせ、優雅にターンを繰り返しつつ登場するは、馬夫人とロッポン。スラリと美しい青毛馬ロッポンは、キリンのようなシルエット。四本の脚で、見事な足さばき。残る二本の前足で、馬夫人の手を取って踊る。

 うっとりと夫を見上げる夫人の横顔。そして、つぅと流し目。滋比古は顔を背ける。

 背けた先に、髭の無い曲馬が立っていて、ゆるりと両腕を広げた。花のような白手袋。「母様」と同じ×で、×××いる。その×が何かを言い出す前に、目を閉じた。判っていた。

 これは夢だ。自分は今、本当は眠っているんだ。身体に伝わる、一定の揺れ。――ボクは眠ったまま、どこかへと運ばれているんだ。

 滋比古の意識は、そこでまた途切れた。


 溶暗。




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