第参幕 馬上豊かな馬夫人、亭主を尻に敷く

カフエエを飛び出した少年を、暮色ぼしょくが包む。

 滋比古は、団員達が寝泊まりしている木賃宿へと足を向けた。街外れに近い位置、本来なら滋比古など生涯立ち入ることはない一角。

 一見複雑な道筋だが、川沿いに進めばそうでもない。掘建て小屋同然の、小さな家が重なるように並んでいる。

 親子が割れた窓硝子を気にもせず、蝋燭の下、夕餉を囲んでいる。何が煮えているか判らない濁った鍋からよそう、茶碗一杯のそれだけを掻き込んでいる。はしゃぐ子供ら。大らかに笑う母。それらを満足そうに眺める、父。

 滋比古は、ふと亡き母のことを思い出した。美しくはないが暖かだった、母様。

 母が死んだ日。そう、その当日。美しいが悪い女が、家に入り込んだ。父は、アレを母と呼べと滋比古に言った。

「誰が、あんな踊り子上がり」

 空唾からつばを吐く。ふた月後、義弟が生まれた。

 赤子が生まれることわりなど、とっくに知っていた。母様が死の床についていたとき、そのとき父様は……。滋比古の理性も感情も、混沌に沈む。父も義母も避けて、家からも逃げて、そしてこうなった。

 いや、しっかりしろ。今はこんなことを考えている場合じゃない。滋比古は唇を噛む。

 入り組んだ角を何度も曲がり、教えられた木賃宿に差し掛かると、カッとひづめの音。

「プリンス様がもう来たのかい」

 頭上から女の声。

「誰だ」

 振り仰ぐ滋比古。

「アタシはジェントル曲馬団の馬術芸者、馬夫人うまふじんさ」

 大女だった。青毛の太った馬に横座り、胸下には前結びした帯のような、莫迦げた大きさのリボン。足首まで覆う長いスカアトは、丸く膨らんでいる。

「団長の曲馬に、頼まれたから来てやった。お前、話を聞かせろ」

 滋比古は人差し指を突きつける。馬夫人はそれを無視するように、

「こいつァ、アタシの亭主のロッポンさ。六本脚だからロッポン」

 言いながら、鞍の下に敷いてある地べたを這う飾り布を、ちらと摘まんだ。あぶみの真下に、もう一対の蹄が見えた。

「そんな子供騙しに乗るか。薄暗い中で布越しに。ハリボテだろ」

 馬夫人は布を離し、膨れる。

「亭主に挨拶しとくれよ」

「やだね。馬になぞ」

「いいのかい。そんな口、利いてさ」

「無駄口叩く暇があったら、お千代の死骸がどうだったか教えろ」

「死骸! 死骸だって!」

 馬夫人は益々膨れたが、

「まぁいい」

 と顎を上げた。

「団長の命令だからね。教えるよ。お千代は仰向けに倒れてた。口から血がいっぱい溢れてて、泡も噴いてた」

「笑ってたって訊いた」

「団長が言うなら、そうだろ」

「お前に訊いてるんだ」

「お千代はね、半年前に【家族】になった」

 馬夫人の語気が荒くなる。

「まだ小娘で何も出来ないから、お巻の的をやらせたんだ。目隠ししてるナイフ投げの、的なんかやらされて笑えると思うかい? あの子が笑ってるのなんて、団長が教えてくれるまで、只の一度もアタシは見たことはないよ」

 落ち着こうとしたのか、馬夫人は青毛の首を愛しげに撫でる。

「まだ十二歳。長いおさげが内緒の自慢だったけど、お巻がやっちまってね。ワザとじゃないんだよ。うっかりナイフが反れて、右のおさげを切っちまった。お千代が死んだのは、次の日さ」

 言うと、馬夫人はロッポンに軽く鞭を入れた。後頭部高く一つに結ばれたその髪が翻り、夫の尻尾と同じ動きをする。

「アタシの話はこれだけさ。夫はあいにく無口でね」

「待て、まだ話は」

「終わったよ。アタシは早く帰って休むんだ。もう臨月なんでね」

 これみよがしに腹をさすり、艶然と馬夫人は微笑む。

「……アンタも早く帰ったらどうだい」

「おい、待てってっば」

 手を伸べる滋比古。だが、それには構わず、夫妻は悠々と去っていった。

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