第肆幕 三ツ首並んで姦しムスメ

 薄暗い電灯の下、滋比古は、掌に走る幾本もの盛り上がった筋を指でなぞる。無意識の仕草だ。焼け火箸の痕。あの女がつけた。

「母様と呼びな」

 拒むと掌を焼き、

「この子は火遊びの悪い癖が」

 と父親に泣きついた。父は、義母の目の前で滋比古を殴った。

 義母はじょうから母と呼ばせたがったのではない。滋比古の胸の内に生きる母を、殺す意味での所業。言われなくとも伝わっていた。小さな掌に隙間が無くなりかけたある日、滋比古は屈した。『母様』と呼んだ。義母の赤い薄い唇が、勝利の形に吊り上がり、

「私を踊り子上がりと蔑んでやがるが、お前を産んだあの女なんか」

 と、何やら忌まわしいことを囁いた。滋比古の中の『母様』という言葉が、その瞬間から二重写しに変わった。『しげひこ』と形作る、厚めの丸い唇こそが『母様』だった。そこに義母の酷薄な赤い唇が割り込んで重なる。

 以来『母様』という言葉を引き金に、否応なく二つの唇が網膜に甦る。

 滋比古は掌の筋に爪を立てた。痛みが幻を振り払う。

「馬夫人は母様になるのさ」

「なるのさ」

「のさ」

 茶袱台ちゃぶだいを挟んで道化の三ツ首がニヤニヤ。年の頃は十六くらいの女の首が三つ、幅広の肩に乗っていた。

 向かって右からヒィ、フゥ、ミィと名乗った首は、同じ顔で同じ声。フゥが若干前のめり。緞帳どんちょうのような赤い布で全身をすっぽりと包んでいて、首っ玉をキュッと巾着のように締めている。手は左右の切れ目から一本づつ出ているが、どうにも動きがちぐはぐだ。

 恐らく、と滋比古は睨む。三ツ児が布の中で身を寄せ合っているのだ。右手はミィ、左手はヒィ。フゥは二人の間に身体を入れているのだろう。

「ご苦労なこった」

「なに?」

「なに?」

「なに?」

「なんでもない。それより馬夫人は本当に妊婦なのか」

「可愛い仔馬が」

「生まれる」

「よ」

「生まれるか、バカ」

 ゲラゲラゲラゲラ。

 気色ばんだ滋比古を指さし、声を上げて三ツ首がはしゃぐ。

「もういい。お千代の話をしろ!」

 滋比古は怒鳴った。ペエスが乱れる。

「お菓子をお食べよ」

「さあどう」

「ぞ」

「そんな不潔なものが食えるか」

 その言葉に、また三ツ首は嬌声を上げる。

「不潔じゃないよー」

「猫イラズたっぷりー」

「ぷりー」

「死ぬだろ、それ!」

 茶袱台に手を突いて、滋比古は膝立ちになった。

「もういいッ! お千代がどんな様子で死んでたか、それだけ話せ!」

 天板を叩いた。

 ゲラゲラゲラゲラ。

 それが面白かったらしく、三ツ首は大喜び。

「戸棚の脇で、ひっくり返ってたのー」

「虫みたいって言ったら、怒られたー」

「違うよ違う、笑ってたー」

「言われて見れば。ニッコリ笑ってたのー」

「口が耳まで裂けてたのー」

「違うよ違う。笑って死んだってのは情けだよー」

 ゲラゲラゲラゲラ。

 てんでバラバラ。好き勝手。三つの唇は止まらない。

 滋比古は怒鳴りつけたいのを耐えて、頭の中で整理する。明け方、仰向けの格好で、お千代は死んでいた。

 夜着を乱し、小さな両手は前をはだけて固まっていた。仰け反った姿勢のせいで、口角から流れ出た血が耳に向かって垂れていた。曲馬が、それを笑顔となぞらえた。

 ――何故、ここで【笑顔】が出てくるのかが解らない。

 薄い胸には、己の爪が付けた引っ掻き傷。赤い赤い溝。

「じゃあ、胸を病んでたってことは?」

「ないよ」

「ないよ」

「ないよ」

「気に入らないのは、お巻が気づくのが遅いんだ。目が見えないのなら。余計に耳はいいだろう」

 首を捻る滋比古。

 三ツ首は、そんな彼を煽るように喋り続ける。

「早く解かないと、間に合わないよー」

「明日まで明日までー」

「違うよ違う、ずっと一緒だよー」

 そしてまた、ゲラゲラゲラゲラ。

「どっちだよ。いや待て。お前たち、いつから興行するんだ?」

 滋比古は、三ツ首に向き直る。

「お千代が死んだからって、警察にも届けないみたいだし。興行は、やるんだろう?」

「しないよしないよー」

「ここには家族を増やしに来たのー」

「違うよ違う、減っちゃったー」

「家族って団員のことだろ。今、何人居るんだ」

「団長と馬夫人とロッポンとキャット次郎とキャット三郎とー」

「ツラヌキお巻とスマヰルお千代!」

「違うよ違う、お千代はいないよ。ヒィ! フゥ! ミィ! 三ツ首道化を忘れちゃダメー!」

「……それだけか?」

「そんだけー!」

 初めて三ツ首の声が揃った。ゲラゲラゲラゲラ。けたたましい歓声。

 滋比古は堪えて続ける。

「ジンタとかはどうするんだ」

「大きな街では、そこで雇うよ」

「小さな村では、みんなでやるよ」

「鍋釜叩いて、手拍子足拍子、口三味線くちじゃみせん!」

 三つの唇がジンタッタージンタッターと歌いだす。二つの掌、茶袱台叩いて、ジンタッタ。

「もういいッ! 実演するな。……落ち着いて考えられないや」

 滋比古が嘆く。

「水でも飲んで落ち着いてー」

「湯冷ましだから安心ー」

「子供のくせに酒臭いー」

 傍らの薬缶を差し出されたが、一瞥いちべつで拒否。問いを続ける。

「興行しないなら、じゃあ、なんでこの街に来たんだ?」

「呼ばれたから来たよ」

 ヒィが真顔になった。

「馬夫人は産み月で」

 フゥが真顔になった。

「可愛い仔馬が生まれるし」

 ミィの瞳の奥は笑ったままだった。

「じゃあ、なんで」

 滋比古の言葉を、三ツ首は遮る。

「家族を増やすんだよ」

「なのに減っちゃった」

「違うよ違う、また増えるんだって」

「呼ばれたから来ただけ」

「君は死ぬ程、お腹空いたことなんてないでしょ」

「お菓子に猫イラズが入ってても食べちゃうくらい」

「違うよ違う、知らなくて食べたんだよ」

「家族だけどね」

「家族だからね」

「家族だよ」

「お水はいかが」

「お水はいかが」

「お水はいかが」

 三つの首がニヤニヤ笑う。生白い右手と左手が、ちぐはぐに動き、眼前に迫る。

 ゲラゲラゲラゲラ。

「い、いらないッ」

 滋比古は背中から、部屋を転げ出た。爆発する嬌声。パッと電灯が消える。続く廊下は、細く長く、暗い。


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