第肆幕 三ツ首並んで姦しムスメ
薄暗い電灯の下、滋比古は、掌に走る幾本もの盛り上がった筋を指でなぞる。無意識の仕草だ。焼け火箸の痕。あの女がつけた。
「母様と呼びな」
拒むと掌を焼き、
「この子は火遊びの悪い癖が」
と父親に泣きついた。父は、義母の目の前で滋比古を殴った。
義母は
「私を踊り子上がりと蔑んでやがるが、お前を産んだあの女なんか」
と、何やら忌まわしいことを囁いた。滋比古の中の『母様』という言葉が、その瞬間から二重写しに変わった。『しげひこ』と形作る、厚めの丸い唇こそが『母様』だった。そこに義母の酷薄な赤い唇が割り込んで重なる。
以来『母様』という言葉を引き金に、否応なく二つの唇が網膜に甦る。
滋比古は掌の筋に爪を立てた。痛みが幻を振り払う。
「馬夫人は母様になるのさ」
「なるのさ」
「のさ」
向かって右からヒィ、フゥ、ミィと名乗った首は、同じ顔で同じ声。フゥが若干前のめり。
恐らく、と滋比古は睨む。三ツ児が布の中で身を寄せ合っているのだ。右手はミィ、左手はヒィ。フゥは二人の間に身体を入れているのだろう。
「ご苦労なこった」
「なに?」
「なに?」
「なに?」
「なんでもない。それより馬夫人は本当に妊婦なのか」
「可愛い仔馬が」
「生まれる」
「よ」
「生まれるか、バカ」
ゲラゲラゲラゲラ。
気色ばんだ滋比古を指さし、声を上げて三ツ首がはしゃぐ。
「もういい。お千代の話をしろ!」
滋比古は怒鳴った。ペエスが乱れる。
「お菓子をお食べよ」
「さあどう」
「ぞ」
「そんな不潔なものが食えるか」
その言葉に、また三ツ首は嬌声を上げる。
「不潔じゃないよー」
「猫イラズたっぷりー」
「ぷりー」
「死ぬだろ、それ!」
茶袱台に手を突いて、滋比古は膝立ちになった。
「もういいッ! お千代がどんな様子で死んでたか、それだけ話せ!」
天板を叩いた。
ゲラゲラゲラゲラ。
それが面白かったらしく、三ツ首は大喜び。
「戸棚の脇で、ひっくり返ってたのー」
「虫みたいって言ったら、怒られたー」
「違うよ違う、笑ってたー」
「言われて見れば。ニッコリ笑ってたのー」
「口が耳まで裂けてたのー」
「違うよ違う。笑って死んだってのは情けだよー」
ゲラゲラゲラゲラ。
てんでバラバラ。好き勝手。三つの唇は止まらない。
滋比古は怒鳴りつけたいのを耐えて、頭の中で整理する。明け方、仰向けの格好で、お千代は死んでいた。
夜着を乱し、小さな両手は前をはだけて固まっていた。仰け反った姿勢のせいで、口角から流れ出た血が耳に向かって垂れていた。曲馬が、それを笑顔となぞらえた。
――何故、ここで【笑顔】が出てくるのかが解らない。
薄い胸には、己の爪が付けた引っ掻き傷。赤い赤い溝。
「じゃあ、胸を病んでたってことは?」
「ないよ」
「ないよ」
「ないよ」
「気に入らないのは、お巻が気づくのが遅いんだ。目が見えないのなら。余計に耳はいいだろう」
首を捻る滋比古。
三ツ首は、そんな彼を煽るように喋り続ける。
「早く解かないと、間に合わないよー」
「明日まで明日までー」
「違うよ違う、ずっと一緒だよー」
そしてまた、ゲラゲラゲラゲラ。
「どっちだよ。いや待て。お前たち、いつから興行するんだ?」
滋比古は、三ツ首に向き直る。
「お千代が死んだからって、警察にも届けないみたいだし。興行は、やるんだろう?」
「しないよしないよー」
「ここには家族を増やしに来たのー」
「違うよ違う、減っちゃったー」
「家族って団員のことだろ。今、何人居るんだ」
「団長と馬夫人とロッポンとキャット次郎とキャット三郎とー」
「ツラヌキお巻とスマヰルお千代!」
「違うよ違う、お千代はいないよ。ヒィ! フゥ! ミィ! 三ツ首道化を忘れちゃダメー!」
「……それだけか?」
「そんだけー!」
初めて三ツ首の声が揃った。ゲラゲラゲラゲラ。けたたましい歓声。
滋比古は堪えて続ける。
「ジンタとかはどうするんだ」
「大きな街では、そこで雇うよ」
「小さな村では、みんなでやるよ」
「鍋釜叩いて、手拍子足拍子、
三つの唇がジンタッタージンタッターと歌いだす。二つの掌、茶袱台叩いて、ジンタッタ。
「もういいッ! 実演するな。……落ち着いて考えられないや」
滋比古が嘆く。
「水でも飲んで落ち着いてー」
「湯冷ましだから安心ー」
「子供のくせに酒臭いー」
傍らの薬缶を差し出されたが、
「興行しないなら、じゃあ、なんでこの街に来たんだ?」
「呼ばれたから来たよ」
ヒィが真顔になった。
「馬夫人は産み月で」
フゥが真顔になった。
「可愛い仔馬が生まれるし」
ミィの瞳の奥は笑ったままだった。
「じゃあ、なんで」
滋比古の言葉を、三ツ首は遮る。
「家族を増やすんだよ」
「なのに減っちゃった」
「違うよ違う、また増えるんだって」
「呼ばれたから来ただけ」
「君は死ぬ程、お腹空いたことなんてないでしょ」
「お菓子に猫イラズが入ってても食べちゃうくらい」
「違うよ違う、知らなくて食べたんだよ」
「家族だけどね」
「家族だからね」
「家族だよ」
「お水はいかが」
「お水はいかが」
「お水はいかが」
三つの首がニヤニヤ笑う。生白い右手と左手が、ちぐはぐに動き、眼前に迫る。
ゲラゲラゲラゲラ。
「い、いらないッ」
滋比古は背中から、部屋を転げ出た。爆発する嬌声。パッと電灯が消える。続く廊下は、細く長く、暗い。
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