「見下げた信仰。」~10代から20代に書いた詩

天川裕司

「見下げた信仰。」~10代から20代に書いた詩

「章句。」

 あの人は罪人だ、などと人間は決めることはできない。裁くのは神である、と。人間の目に、常時神は見えない。どの国の人も。この地球を創ったお方が神だ、と言う、ぜひ会ってみたい。そして力が欲しい、人を裁く力を。


「見下げた信仰。」

嫌気がさせば、そこで負けだ。この世の中は嫌気がさすような光景が多々ある。だけど、その時に嫌気がさすと、そこで神経はやられる。

いくら面白くて親切な人でも、四六時中横にいられると困るのだ。お金も使いっぱなしで、止めることは世間から離れることに等しく、良き理解者は、この世では望めない。ベートーベンがそのいい例だ。妙なプライド、いや男のプライドは、そういうものだ。女にプライドは存在しない、女は子孫繁栄のために生き残りを選ばなければならない。

この世に生き残るしかないのだ。男を支えるべく神は女を創られた。19年間生きた少年云わく、それはミス・テイクだった。ご覧、世間は欲情の海だ。どんなに善良者でも、泳ぎが得意でなければ、荒波にはのまれてしまう。自然には人間の性質など考えるに値しないのだ。

否応なしに困難は襲ってくる。どういうことだろうか、この欲情の渦は?神がお教えになられたことか、いやまさか。だとすれば、悪魔。悪魔はみごとにこの世に生き残っている。かたちとして見えるのは時として悪の方が多い。字や、看板、裸体や、知識、すべて、日常でも使う。目から入るものはどうしようもない。ここは、天国でも、地獄でもない。

本当にそうなのか、考えればキリがない。だから生きるのだ、そしてふと目を上げた瞬間、欲情の看板が見える。そういう国だったのだ。否応なくその国に入っていった。―――――――――――その考えには、神の存在すら抜けていた。―――――――


「負け知らず。」

 自分が思っていることより多くを言葉が語ればいいと考えていた。いつしか自分の言ったことが生きてくればいいと考えていた。

生まれてからこのかた、私は人の心を知らない。模範を知らないので、こういうものか、ということすら、本来知らない。しかし生きている。私は白い服を着て街を歩いていた。

車から出るはいきガスの煙でさえも汚れる程のせんさいな白だった。私は服を気にしながら歩いていた。そして他人(ひと)とはどういうものに感動しやすいのかずっと考えていた。多分、この先もこのままの自分なら考えるだろう。そういう輩の仲間なのだ。生きものは知っている。

命があって、その命とは人間(ひと)の理解できないものだろう。でも人間は知らない。人間の能力はわかるが、人間の存在の意味を知らない。私は太宰の“人間失格”を読みながら、思った。これだけの字を書くこの人は何者か、と。

長い文、短い文、いろいろ書いてある。私には理解できない。なぜこんなことを思うのか。ただ、見た目で判断しているのだ。

どうしようもなく不安に転がり、その孤独嫌いで私は私のジャレ言に目をつむっていた。腹が減ればご飯を食べるのである。眠たくなったら寝る、昔習った人間のすることをしているのだ。この26年間で、その行動パターンからは逃れられないことがわかった。“わかった”とは言うが、この短い一生でそう言うのだ。本来は言えない。性別があり、私は一つに生まれた。

親がいて、まわりに人がいる。仕組まれた中で、生きる術を選びながら今日まで生きてきた。たいして不自由も感じず、過去に過ぎてゆく少しの喜びと、憎しみと悲しみだけを感じながら。ただ、私は幸か不幸かを見抜くのが下手に見える。あとで不幸だとわかれば、ヘンに格好もつけないのに。流行に染まる街中で、独り身で生きる。そのくり返しは明日へと続き、未来へとつながる。

すべては明日のため、生きるには明日が必要なのだ。時に、罪をかぶっても目をつむるものなのだ。そして悔い改めをする。そしてまたくり返す。くり返しが嫌になる人間はくり返しのパターンから逃れることはできない。そう、そこで慣れるしかないのだ。


「受難。」

ひとつ今の自分を理解できた。結局今を、明日を生きねばならぬ故、全てを書くことができないのだ。書いて悩んでしまえば明日が危なくなり、悩まなければならない。他人を見ては愚痴をこぼす自分が儚くもろい。甘えたように死を選んでしまうのだ。勇気もないクセに。こんな私に世間の悪は容赦なくのしかかってくる。どんどん蓄積されていくのだ。たんなる負の相乗にすぎなく見えるその現状は、真偽関係なく私の体力を消耗させる。言葉と思いは別のフィールドにある。偶然それが一致する場合もあり、しない場合もある。ただこの悩みの発端は欲望である。異性だ。何故異性と一緒になるものなのか。はじめからそうなるのなら余計な芝居はなしにしよう。小学・中学・高校・大学・社会人、全てが思春期と題した芝居だ。結局、人は性につかれているのだ。素直になればいい。神は個人(ひと)に異性の適人を与えているものなのか。男・女の幸福が普通ならば与えている筈。もしいなければその個人の存在は無意味に近く、儚いものとなる。そして、どうしてもこんなことを考える頭をもつ私とは儚い。他人は他人、私ではない。人間とは他人(ひと)を悟れないものだ。悟れはしない。皆、わからない難事をないものとして生きているのだ。いつ破滅してもおかしくない世の中をワザと盲目に生きているのだ。そして確かに、それらを解決できない者はそうして生きなければ生きてゆけない。その難事とは人間が存在した以来、一緒に存在している。


適人以外を好きになるなんて感情は不要だ。

時間と労費のムダにすぎない。

            不条理にも生まれてきて何故悩むのか。(笑)


「ろうやで泥を見た者の言葉。」

 “人はこれだけのものが与えられているというのに、その先の快楽への行動に心のタガがある。思わぬところでちゅうちょしてしまうのだ。そして年をとる。どこかで理想をあきらめるのだ。“真面目でいて何が面白いのだ”と言えば、就職できないらしい。(笑)”


「小説家。」

“彼には、書くことがいっぱいあった。

 小説家の彼にとって、それはうれしいことで、

 気が狂う程であった。しかし、その 

 狂気のせいで、書くべきことを忘れた。..”

 そして、この素の羅列文を編集部へ

 持って行くと、「これでは映画にならない」

 と注意をうけ、ほされてしまったという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「見下げた信仰。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ