其之拾玖話 束の間の幸せ
舞美の通う塾は、月曜日から土曜日まで、基本的に日曜の授業は行っていなかった。しかし朝から書籍室とPC室、ランチルームそれと自習室が解放され、塾生は時間内であれば自由に使えるようになっていた。
そして日曜日の今日、朝からこの自習室で神谷涼介に数学を教えてもらう約束をしていた。
その日の朝。舞美は、早起きしてキッチンに立っていた。お弁当を作っていたのである。しかも二人分、そう涼介の分まで用意すると約束していたのである。しかし日頃台所に立つどころか食後の茶碗すら滅多に片づけない舞美に、料理など出来るはずもなく……。自分で全部作ると豪語していたが材料を前にあたふたしている舞美に我慢できず、母親が手伝いに入った。
「舞美! そんな包丁の持ち方したら危ない!」
「舞美! フライパンに油を敷かないと焦げるでしょっ!」
「舞美! そんな割り方したら割れた殻が入る!」
「舞美! ああぁもう! それはお母さんがするからあなたは弁当箱用意して!」
結局ほとんど……いや、すべてのおかずを母親が作ってしまった。舞美が作ったのは、形がちぐはぐなおにぎりだけだった。『絶対私が作ったんじゃないってバレるよね……』舞美が申し訳なさそうに呟くと、母曰く。
「黙っときゃ分かんないわよっ! 分かった所で優しい男の子なら言いやしないし!『言えるもんなら言ってみろ!』って思ってればいいんじゃない?」
だそうだ。
そうこうしているうちに待ち合わせの時間が近づいてきた。リュックの中に弁当を入れる。部活で使っていたリュックだからお弁当二人分位楽々入る大きさだ。そして教科書と筆箱、水筒と確認しながらリュックに入れる。それが終わってもまだ時間が少しあったので洗面所へ行き鏡を見ながら身なりを再度整える事にした。
「後ろ髪がちょっとおかしいかなぁ、中心からずれてる?」
ポニーテールがちょっと、ほんの少しだけ右にずれている感じがした。一旦解いて結び直し『よしっ!』と声を出す。そしてポケットからリップクリームを取り出し鏡を見ながら唇にそっと滑らせる。
すると後ろから母親と弟の恭次郎がニヤニヤしながら顔を半分出して舞美の様子を見ているのが鏡に映っていた。舞美は顔を赤らめながら鏡越しに叫んだ。
「二人とも何見てんの、あっち行って!」
舞美の照れ隠しだ。
そして身なりが整うと玄関へ行き靴を履く。そこでも母親と弟がニヤニヤしながら舞美に近づいてきた。
「へぇぇ……おねぇちゃんどこ行くのぉ、ひょっとしてデートとかぁ」
「ばか! 塾に勉強に行くのよっ! もう! お母さんもいつまでニヤニヤしてるの! 行ってきます!」
と顔を赤くして言い放ち、家を出て駅に向った。歩きながら舞美は考えていた。
(お弁当、食べてくれるかなぁ、美味しいって言ってくれるかなぁ……でも殆どお母さんが作ったんだけどねぇ)
そう考えながら一人ニヤニヤ、はたから見れば完全に危ない人だった。駅に着き改札を入りホームで涼介が乗った電車を待つ。
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッッッ!』
「2番ホーム電車が入ります、白線の後ろまでお下がりください……」
電車の到着を知らせるベルとアナウンスが同時に入り、右側から電車がゆっくりとホームに入ってくる。一両目……二両目……三両目 (あっ! 居た! 涼介!)と彼に向かって手を振る舞美、それに気付いた涼介も手を振り返す。
『プシュー』っとドアが開き、涼介が座る隣に舞美が座った。
「おはよう舞美さん!」
「おはよう涼介君……」
舞美の目を見つめながら優しく挨拶をする涼介。それに対して顔を赤らめ、はにかみながら挨拶をする舞美。涼介の事を意識し始めてからと言うもの、まともに顔が見られなくなった。しかし涼介の前では自分の心の内を絶対に悟られない様に平常心を保った。
塾に着くまでの間、他愛のない会話が続いた。昨日見たドラマの話や好きなアニメの話、舞美にとっていつもこの時が一番幸せに感じる時間だった。そして塾に着き自習室に向かうとそこには、もうすでに数人の生徒が勉強を始めていた。(え〜二人っきりじゃないじゃん! 残念!)とちょっとがっかりする。
「じゃあ始めようか舞美さん。数学だったよね、僕も余り得意じゃないけど、僕が教えて上げられる範囲で良ければ力になるよ! じゃあ教科書の……何処から始めようかなぁ」
そう言いつつ教科書をパラパラと捲る涼介の横顔を見つめる舞美。
この時、舞美は思った……。この幸せな時がずっと……ずっと……続けばいいなぁ……と。
しかし、舞美のその思いは……儚く……崩れ去った。
続く……
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