第8話 終戦

 選手の影に入って一息つけたのはしばらく経ってからのことだった。だいぶ体力を使った。脹脛にも重さを感じる。

 スタートから10キロが過ぎた頃にはコースは滑走路から市街地へと移っていた。交通整理された国道の一角を走る。頭上にはモノレールが走っていた。足元に視線を落とす。カーブを曲がる所にマンホールが2つ並んでいた。走りに影響はないが雨が降ったら滑りやすそうだ。


 市街地コースに出てから俺はもう自分のペースがわからなくなっていた。給水はどこでしたらよかったのか、もはや思い出せない。酸素の無い水中でもがいている金魚のようだ。苦しい。体に力も入らない。2倍にかけられた重力に抗えず押し潰されながら走っている感覚だ。


 沿道から歓声が聞こえる。だが俺に向けられたものではないだろう。ハッキリとした景色はわからない。白やピンクや茶色のマーブルの渦の中を進んでいた。山津はどこにいるんだろう。ニ丸先輩には抜かれたのだろうか。他の人達は…。


 平和公園の敷地に入った。アップダウンの激しいコース。脹脛に続いて太腿も悲鳴を上げる。深緑のトンネルを楽しむ余裕なはい。確かあと7キロくらいか。少しでもスピードを上げなければいけない。

 しかし体が思うように反応しなかった。折り返し地点で足が滑る。スピードが制御できなかった。

 逆に他の選手にどんどん抜かれていく。何とかついていこうと必死で追いかけたが、もはや流れに乗ることはできなかった。

 

 最後のカーブを左に折れ、あとはゴールまで1キロの緩い下り坂だった。直線に入った。

 青、黄色、緑。それぞれの大学が選手を鼓舞している。激しい檄が飛んだ。


「限界を超えていけ!超えていけ!」

「お前の全部を出せ!曝け出せ!」


 檄に後押しされたのか後ろからハァハァと息づかいが近づく。隣に並んだ時に目線だけ相手に向けた。すると相手も目線だけで俺を見ていた。相手の目が前を見た瞬間、相手が動いた。俺の足はこれ以上動かない。視線だけが追いかけた。


 ゴールライン付近では役員の腕章を付けたどこかの大学のマネージャーらしき人が時計を見ながら叫んでいる。


「4分13秒!、14秒!、15秒!、16秒!、…」


 ゴールラインを通過した俺は、役員に促されそのまま芝生の広場まで進んだ。痙攣し始めた脹脛を押さえ込むように手を膝につく。

 不意に不思議な感覚に包まれる。まるで戦争映画の爆撃を食らったシーンみたいだ。俺以外の誰もが芝生に倒れ込み肩で息をして動けないでいる。なんで俺だけ立っているんだ?一瞬刻が止まった。


 ゴールしたのは確か4分台だったよな。だとしたら俺はほぼ自分の目標タイムでゴールした事になる。しかし、全体で何位なのだろうか。先輩達は?山津は?一体どうだったのだろうか。


「四ツ谷、お疲れ!」


 宮本先輩が俺に歩み寄りタオルを肩にかけてくれた。


「ハァハァ、先輩、俺たちは…」


 まるで俺の声が空気かのように、何も気にせず宮本先輩はコースを見ている。俺もつられて先輩の視線を追う。大柿先輩がゴールラインに向かっていた。


「行こう。歩けるか?」


 先輩が俺の腕を持ち上げる。


「ウス。」


 先輩と共に広場を抜けると、木陰に赤の集団が集っていた。


 公園の敷地内に作られた舞台の上に、学校名と10名の合計タイムが伏せられたボードが用意された。

 大会の役員をしている女子学生がマイクの前に立って、この大会の趣旨を話し始めた。最後に、


「それでは成績を発表いたします!」


 パラパラと拍手が起きる。選手達は気が気では無い。


「予選会、第1位は!…」


ボードの第1位の隠された部分がアナウンスに連動して、スライドし、明らかになっていく。


「10時間45分34秒!…」




「東海農業大学!」


「よっっしゃあー!」


 人一倍大きな声をあげ高橋がガッツポーズをしている。本当に鼻につく。

 その後もタイム順に大学名が読み上げられ、伏せられたボードが捲られていく。その度に会場から大きな歓声が生まれた。静かに一礼する学校。歓喜を爆発させる学校。反応はそれぞれだ。それぞれにそれぞれのドラマがあるのだ。


 今年の予選会は10校が本戦に進む。ボードの隠された10校目の下には赤い線が引いてあった。ここにいる学生の天国と地獄の境目だ。

 俺たちは自分達の予想通り、上位では呼ばれなかった。当落線上の戦いだ。俺は自分の不甲斐なさを知っている。行けなかったらそれは俺のせいだ。


 アナウンスもわかっているのだろう。下位の発表だ。会場の静寂を待って口を開いた。


「それでは、第9位!…」

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