第7話 焦燥

 レースが始まった。


 号砲と共に勢い良く走り出した選手の塊は濁流というのに等しく、抗うのは困難だった。とりあえず流れに乗るしかない。全速力で走った。前との距離感が掴めず、秦先輩の踵を3回ほど勢いよく蹴飛ばした。


 周りの選手はすぐに落ち着き、精密機器のように前後左右ミリ単位の隙間を開けて接触せずに走っている。俺は何とかそのスペースに収まろうと焦った。


 上から自分の体にスキャンをかける。


 うん。頭はなんとか冷静だ。心臓は?まだ緊張はあるものの温度を感じるほどの血液を送り出している。うん。手足の指先がまだ暖まっていない。手はともかく足の親指の感覚が戻って来るまでは動くに動けない。

 ふと湯気の立ち昇った高橋の後ろ姿が目に浮かんだ。『勝負は試合前から始まっている』誰かの言葉が思い出される。くそ、遅れをとった。


 滑走路のカーブに差し掛かる頃、左目に先頭集団が見えた。氷の上を滑っているのかと思うほど滑らかなスピードで留学生達が次のカーブに差し掛かっている。

 もうあんな所にいるのか。足先に意識を向ける。足の親指の感覚はもう滑走路のコンクリートを掴んでいた。


 俺はもう少し速いペースで進みたかったが、人混みが前を塞ぐ。162cmの俺の身長では目の前の背中しか見えない。この集団は前とどれくらい離れているんだろう。最短距離を行くためにとインコースを選択したのが失敗だったようだ。フランスのスリ集団の標的にされているみたいに、前も右もガッチリ固められていて身動きがとれない。


 何度目かのカーブを曲がる時、留学生との差が更に開いているのがわかった。留学生の次の集団の中に赤いシャツを2つ見つけた。宮本先輩と山津だ。山津はすでに白い歯を剥き出しにして腕を振っている。必死について行ってるのだ。

 

 遅いだろ。もっと速く走りたい。全然スピードが上げられず足踏み状態だ。俺のペースはもっと速いはずだ。自分のリズムで走れずイライラする。俺はこのままインコースにいても意味が無いと判断して外側に出ようとした。

 しかし隣の選手が道を譲ってくれるわけもない。俺はスピードを落としながら右にズレ、その選手の後ろに割り込んだ。そうやって徐々に集団の外側を目指した。

 

 やっと集団の外側に位置した。これで自由に走れる。俺はスピードを上げた。今までの遅れを取り戻さなくては。その時、


「おい!四ツ谷!」


 集団の中に二丸ふたまる先輩がいた。大丈夫か?と俺に目配せをする。大丈夫ですと俺は小さく頷き、走り続けた。


 左側の選手達がスローモーションで後ろに流れていく。飯田を追い抜いた。俺はどんどん順位を上げていった。今は全体で何位くらいなんだろう。


 バァと大きく息を吐く。気づいたらずっと浅い呼吸で走っていた。そろそろ一息つきたい。1人で走ってみると改めて集団の中にいる風除けの恩恵が身に染みた。選手の切れ目があったら入りたい。


 集団だと思っていた塊は、細く長い帯になっていた。

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