Ex.4. いつかこんな時が


 「まあ、あのお兄さんですしね。結衣里ちゃん以外の女の人に目なんて向けるわけ────結衣里ちゃん?」


 親友が言葉を途切れさせたところで、ようやく結衣里はハッと我に帰った。


 「え……と、なに? 桐枝ちゃん」

 「いや、なにっていうか…………私、余計なこと言っちゃいました?」

 「う、ううん、別にそういうわけじゃ……」


 あははと笑って誤魔化そうとする結衣里。

 だが、相手は中学の頃から付き合いのある親友。

 その程度の機微は容易に察してしまう。


 あの時、巫女服姿で神事を舞う羽畑さんを見た司は、確かに彼女に見惚れていた。

 変化があったのは一瞬だけで、その後の態度もただのクラスメイトに対するものでしかなかったけれど、司にとって彼女が魅力的に映ったことは確実だった。


 いつも司を見ている結衣里が、見たことのない表情だったのだから。


 「……あはは、意外とお兄ちゃんも、春が近いのかも?」

 「結衣里ちゃん……その、私もちょっと気になっただけで、あのお兄さんがそう簡単になびくはずがないって思ってますし……」

 「うん。分かってる。大丈夫だよ、大丈夫…………」


 努めて平静を装う結衣里の心境を察したのか、桐枝もそれ以上は言及しない。


 「あ、そういえば次の時間は総合学習なんですよね」

 「そ、そうだったぁ。発表とか無かったよね?」

 「たしか今日は普通の授業だったかと────」


 ややぎこちない空気のまま話題を逸らした結衣里たち。


 昼休みが終わり、次の授業が始まってからも、結衣里は胸にモヤモヤしたものを抱えていた。


 「…………はぁ…………」


 結衣里は落ち込んでいた。


 兄がクラスメイトに見惚れていたことに、ではない。

 そのことに気付いた時、想定していた以上にショックを受けている自分がいたことに、結衣里は落胆を隠せなかった。


 結衣里は自分が、兄妹として相応しい以上の想いを司に抱いていることを自覚していた。

 とはいえ結衣里たちは実の兄妹、その想いが正しく遂げられることはないと、結衣里自身も理解している。

 いずれその日が来たら、自らの想いをきっぱりと諦め、兄を応援しようと心に決めていたのだ。


 それなのに。

 ほんの少し、彼の心が誰かの方を向いたと感じた瞬間、それだけでここまで心が乱されるなんて。


 (わたし、妹失格だ……)


 授業を聴きながら、深い深いため息が溢れる。


 「────教会では、人は正しく生きることによって神に認められ、豊かな人生を送れると考えられています」


 今日の総合学習は、教会の教えと宗教の歴史についての授業。

 結衣里たちの学校は、なんとか修道会という教会の一派によって設立された教会系の学校だ。

 必然、道徳教育のような形で自分たちの所属する教会の教えや歴史も学ぶ機会が設けられる。


 「まあ神様なんて本当にいるの? なんて、思う人も多いとは思いますが。でも、もしも本当にいたらと考えたら、悪いことをしようとは思えませんよね。信仰っていうのは、大体はそういうフワッとした捉え方でいいんですよ」


 結衣里たち女学院生の前で教鞭を取るのは、なかなか顔立ちの整った年若い男性教師。

 授業を聴く生徒たちの表情も、どこかほわぁと夢見ごこちだ。


 花も恥じらううら若き乙女たちの園に、なぜ男性である彼がいるのかといえば、それはひとえに彼が教会の神父だから。

 教派にもよるが、神父は基本的に生涯独身なので問題は無い、ということらしい。

 身持ちの固い彼が生徒たちの興味を一身に引き受ける分、他の女子校と比べてもこの学校では異性関係のトラブルが極めて少ないのだとか。


 いずれにせよ、結衣里には一切関係のない話だが。


 「聖典には、そんな人々を誘惑し堕落させる存在として、“悪魔”なんて存在が描かれていたりもします。悪魔は悪徳の化身として、目をつけた良き人を誘惑して道を外れさせ、不幸にさせると伝えられます。例えば近世の西方諸国の美術作品では────」


 歴史学、特に文化史や芸術史についてはこの教師の得意分野らしく、さながら推しを語るオタクの如く弁舌にも熱がこもる。

 オタク語りもイケメンがすれば羨望の的になるのだから、つくづく顔が良いというのは反則である。


 「…………悪魔…………」


 だが、今回ばかりは話の内容が結衣里にとってはタイムリー過ぎた。


 「良き人を誘惑……不幸にさせる…………」


 悪魔は文字通り悪の権化であり、正しき道を外れさせるという解説を聞いた時…………結衣里には、心当たりがあった。

 なにせ今、結衣里自身が“悪魔”の姿になってしまっているのだから。


 実際ここ最近、結衣里は司に対する気持ちが抑えきれなくなることが増えたと感じていた。

 必要以上に甘えてみたり、スカートをめくり上げて挑発したり。

 さらには不安なのを良いことに同じ部屋で寝ることをねだった上に、あまつさえこっそり添い寝までしてしまった。

 あれらは単純にお兄ちゃんに甘えたい思いから来た行動だったものの、どこか「こんなわたしでも、女の子として見てほしい」という仄暗い意図が無かったかと問われれば、否定しきれない。


 しかも、あの朝は…………


 目を覚ますと、いつもとは違う様子のお兄ちゃんの顔がすぐ目の前にあった。

 うっすらと目を開けて眺めていると、彼の目は結衣里の唇をじっと見つめていて、やがて彼の指がまっすぐ結衣里の唇に伸び────


 「〜〜〜〜〜〜っ!!」


 思い出すだけで顔が真っ赤になる。


 あのとき司は、結衣里の唇に触れようとしていた。

 いつもの司なら絶対に考えられない、「お兄ちゃん」から逸脱した行為。


 普段司が結衣里のことを女の子として意識している素振りは感じられない。

 その後我に帰った様子から考えても、司にあんな、らしくないことをさせた原因があるはず。


 (…………わたしが……お兄ちゃんを誘惑してた…………?)


 司が意識してくれたのなら、正直嬉しい。


 だが兄妹で愛し合うことが許されない以上、本気で好かれてしまったら、司は幸せにはなれないのだ。

 なのにそんな関係を望んでしまうのは、結衣里が“悪魔”だからなんじゃないだろうか。


 いや、ひょっとすると結衣里が彼に惹かれてしまっていることすら、ただの悪魔としての本能である可能性だってある。

 良き人である司を罪人つみびとにして、不幸に陥れるために。


 (……そんなのダメ、ゼッタイに)


 結衣里は司のことが本気で好きだ。


 彼は結衣里の命を救ってくれたヒーローであり、どんな時も寄り添ってくれる心の支えであり、世界でたった一人のお兄ちゃん。

 大切な人には幸せになってほしいし、彼を不幸にするくらいなら潔く身を引くくらいの覚悟はできている、はずだ。


 (応援……しなきゃ)


 悪魔云々は置いておくとしても、司にカノジョが出来るなら祝福してあげないといけない。

 いつかは「兄離れ」しないといけなかったのだ。


 「いつか、こんな時が来るって……分かってたから」


 一片ひとひらの未練を振り切るように、小さな声でそう呟いて。

 結衣里は、兄の背中を押すことを決めた。

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