第3話:叫び
塾の校舎を出て、僕は外を走る。後ろから大人たちの声が聞こえたような気がしたが無視した。どうせ戻って説教なんだ。
「どうせ怒られるなら、やりたいことやり切ってから」
僕は走ることによる疲れなど忘れて、後ろから追いかけてくる大人たちからのしがらみを引きはがすように全速力で走る。久々の全力疾走はとても気持ちよく、体の中の錘がすべて外れていくような感覚だった。
風が気持ちいい。周りの街灯の光が夜道の中で輝きをともしている。塾に来たときは夕方だったのに、気づけば塾の外はこんなに夜空が広がっており、夜の世界が支配しているのだと感じた。
ただ塾を終えた後の夜とは違う。社会のレールというしがらみから解放されたこの夜の空気はとても澄んでいて心地よかった。
やがて僕は道を外れて、狭い路地裏を歩く。少し歩くと、そこは路地の広い部分に出た。ひどく居心地のいい場所だと感じた。まるで社会のしがらみなど忘れられ、漂白されていないと感じられたからだ。
近くにグラフィティアート用のスプレーが置いてあった。使ったことのない代物だったが、スプレーを手に取り壁に向かって縦にスプレーを振りかける。
気持ちよくシュッとした音がこだました。目の前にはもう消すことのできないスプレーの色が壁に刻まれていた。もう引き返せない、その感覚は漂白された社会への決別だと感じているのかもしれない。少なくとも今までの自分と今の自分は違うんだと、この瞬間だけは自分ではない何かになれたような気がして、そしてその快感をもっと感じたくて、右手にあるスプレーをさらに振り上げた。徐々にスプレーにも慣れていき、僕は今の感情をこの壁にぶつけてやろうと心の中の心情を壁に綴った。
雄たけびのような声を上げて、僕は心のありのままを壁面に表現した。先ほどの全力疾走で肺が痛い。叫んでのどが痛い。春の夜道とはいえ、全力疾走のせいで全身に汗をかいていて全身が気持ち悪かった。でもそんなことはもうどうでもよかった。
『くたばれ社会』
壁面にひどく汚く書きなぐられた文字は今まで学校や塾の黒板で見たどの文字よりも、醜くも純真なものに映った。
「ふーん」
突如後ろから女性の声が聞こえ、僕はとっさに振り返る。
「あんた、真面目そうなのに案外悪いことしてんだね」
そう僕に声をかけたのは先ほど塾に行く途中で僕とぶつかった少女の姿だった。悪いことをしているのがばれた時の子供のような感覚に陥り僕は次の彼女の言葉に反応できず固唾をのむ。
通報されるのか、脅されるのか、色々な考えが僕の脳裏をよぎった。冷静に考えてみたら、公共のものに対する落書きなんて本来は犯罪のようなものなんじゃないのか。
自分がやってしまったことがまずいことだったんじゃないか、という罪悪感が今になって芽生え始め、目の前に大きく描かれた文字と比べ自分が小さいような感覚に襲われていた。
「あんたさー」
彼女の言葉に僕は下げていた視線を彼女に移す。彼女はにやりとした表情を浮かべ、艶やかな唇から一言ずつ次の言葉を紡ごうと口を開く。スポーティーな見た目をしているが、ちゃんと見てみるとしっかり女の子なんだなということを実感する。
「おい!見つけたぞてめー!」
急に僕の後ろから今度は怒号を飛ばす男子学生たちがいた。今にも襲い掛かってきそうな剣幕で彼女をにらみつけていた。
「お前、くそアマ、あんま舐めた真似してんじゃねーぞ」
「何君たち、まだ怒り足りないの?ほんと気が短いなー」
見栄を張ってなのか、本当に余裕があるからなのか彼女は悠長にそう話す。
大量の不良に絡まれている。
どう考えてもまずい。
謝って許してもらうか。
それか、どうにか逃げて警察まで駆け込むか。
「ぐはっ!」
そんなことを脳内で考えているうちに、彼女が出口をふさいでいた不良を殴る。直観的に喧嘩慣れしている人だ、そう分かった。
「逃げるよ!」
彼女は笑顔で僕にそう叫び、出口に向かって走った。
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