第2話:『We have to behave』
「ここテストに出すからなー」
教壇に立ち、担任の教師が黒板をチョークで叩く。黒板とチョークがテンポよくぶつかる音が教室を支配している。
生徒たちはというと、その言葉に耳を傾けながら、目の前のノートに黒板の内容を一心不乱に書きとめている。まるで訓練された軍隊のようだ。
僕は、教室の窓の外に目線を向ける。
外では木の葉が風に揺られ飛び散っている。その後ろには深い根を張りどっしりと構えている大きな樹木が見えた。樹木の立派さに対して、樹木の枝葉の先はか弱く風の強さに圧倒されているように思われた。
視線を教室の方へ戻し、手元にあるノートに言葉を綴る。
『つまんないな』
授業を一通り終え、夕方を迎える。そこは生徒たちが自由に過ごすことができる解放された時間である。
帰りのHRを終えて、手元にあるカバンの中に教科書や筆箱を詰める。高校生活も2年目を迎えた。これといって、1年生の時から何か成長したかと言われればその実感はない。数が増えただけだ。それにもかかわらず、テキストやノートの数が一気に増え、カバンの中身は一気に重くなってしまう。鞄を背負うと鞄の重みが僕にのしかかる。その瞬間ポケットの中にあるスマホが振動したことに気づいた。タイミングが悪いな、そう思いながらスマホを手に取る。
内容を見ると、『今日は塾にしっかり来るように』という担当講師からのメールだった。そのメールを見てげんなりした表情を浮かべる。カバンの重たさをうっとうしく感じながら、教室を後にした。
帰り道、僕は淡々と街並みの中を歩く。僕が住んでいる地域は都会というわけでも田舎というわけでもない。よくある住宅街のような場所だ。
すれ違う人々は皆、つまらなそうにスマートフォンに釘付けになりながら歩を進める。楽しくもないのに、彼らはどういうわけか、目の前の薄い箱に釘付けになっている。狂言的な宗教の集まりに対する、どこか気味の悪い印象と抱く感情は同質のものだと感じる。
そんなことを考え歩きながら、先日の雨でできた水たまりを避けながら歩く。目の前の水たまりに集中していたがゆえに、前は見えなかった。足を進めていると目の前にまた水たまりが見えてくる。僕はそれを飛び越えようと少し大股で足を前に出す。
しかし、そのステップは成功しなかった。目の前の何かにぶつかったからだ。バランスを崩し、後ろに倒れる形で尻餅をついた。不意に何かにぶつかったのに気づく。
びちゃっという音が僕のおしりから聞こえた。せっかくそれまで完璧に避けてきた水たまりに尻もちをついていた。靴ならまだしも制服が汚れてしまうという始末だ。
その目の前の原因に視線を向ける。
女の子だった。キャップを深くかぶり、髪は短く切られており、一瞬男の子っぽさもある中性的な印象だった。スキニージーンズを履いており、スタイルの良さを見せつけるような印象だ。歳はおそらく僕と同じくらいだろう。
そうこう考えている間に、彼女ははっとするように立ち上がり、
「ごめんね」
せわしなく立ち上がり、すぐに去っていった。彼女の足が飛び出した先に水たまりがあり、水たまりに彼女の足が思いっきり入り込む。その水しぶきが僕の顔に直撃する。
「あああーごめん。マジごめん!」
彼女は走りながら、僕の方へ振り返り、手を合わせて、そのまま走り去っていった。
これから塾へ向かう、そんな普通の日常の中で今回の出来事は少しだけ色濃く印象的なものだった。 服が濡れている感覚が気持ち悪いが。
「これから塾なのに」
塾に到着すると、塾の先生が校舎の前で「こんにちはー!」と元気に生徒を出迎えていた。「部活はどうや?」「今日はちゃんとこれたな!」と先生が生徒たちに一言あいさつに加えて何か声をかける、というのが塾の出迎え時の流れだった。
「おー坂村!今日はちゃんとこれたな」
そんな先生は僕が来た時にも他の生徒の時と変わらず、そう声をかけてくる。普段来ていないだけに、『ちゃんとこれた』という事実だけで僕は称賛に値するらしい。思えば先生たちと成績や志望校の話はしたことがないかもしれない。
塾に入って、先生に事情を説明して、制服から体操服に着替えた。塾でも仲のいい人がいないため、僕が急に体操服に着替えたと聞いた時に、不審に思う人も多いようだった。
『間抜けなことしてんなー』
生徒たちの中にはそう言って僕を揶揄する人もいた。
塾では60分の集団授業がなされる。黒板の上には「第一志望合格!」と筆調で書かれた勢いのある文字が並んでおり、それに見合うように、目の前の先生は熱血ともいう様子で、英語の授業をしている。
「We have to behave.」
目の前で教壇をとる先生がそう発音した。まるで今流行りのAI音声かのように無機質な声で復唱する。
一通り先生が説明を終えた後、演習問題に入り、静まり返った教室の中は、生徒たちがテキストに問題の答えを書く音、消しゴムでノートを擦った音、それで机が揺れ動く音、ややまだ冷房の重苦しそうな音がする。先生の指示に従い、これから先引かれる『第一志望合格』というレールに乗るため、そして将来は『立派な大人』『頭のいい』『優秀な人間』な『何者』かになるために、心にハチマキを巻いて勉学に勤しんでいる。
「いいかお前ら」
少し時間が余ったのか、先生が英語とはあまり関係ない受験の話を唐突に語り始める。
「お前たちはここに志をもって来ている。志望校に合格し、行きたい大学、そして行きたい会社に行き、自分たちのやりたいことや可能性を広げていくんだ。だがなそれをするためには、やりたいことばかりやっていてはだめだ。好き嫌いも関係ない、目標達成のためにやらなければならないことを狭く深く専念しないといけない時期が来るんだよ」
先生は完全に熱が入ってしまったのか、「俺が若い時はな~」と自身の若い時の話を織り交ぜながら、黒板に色々と文字を書きなぐり、これからの人生訓を語り始めていた。
その度に僕はずっと考えてしまう。この人は死に物狂いで、深く専念するような努力をしてきた、目の前の子どもたちに語る資格のある存在なのかと。
先生のメッセージよりも気になるのは、それを聞いている生徒の反応だ。彼らの反応が僕には気になるのだ。この人たちは本当に心からこのメッセージを受け取って、感銘を受けていたりするのだろうか。いや、そもそも『いい大学に行って、いい会社に入って』などという言葉を幻想や理想だと切り捨てずに、愚直に努力を継続できる人間なのだろうか。
この世界は漂白されすぎている。
汚いことや醜いことには蓋をして、夢だの耳心地のいい言葉を声高に叫ぶ。人々を鼓舞するにはいい道具かもしれないが、本当にそれが社会の全容を説明しているかといえばそんなことは決してないだろう。
僕たちの感情はもっと歪んでいて、矛盾だらけで醜いものだろう。そういった本能的に人間が持っている醜さを包み隠し、忘れさせ、漂白するために、僕たちは画一化された衣を身にまとい、抑止機構として会社や学校などといった他社の監視の目のあるコミュニティに属している、あるいは属すことを強要される。そこでの我慢大会で成り上がり、成長しきった人間の成れの果てが『世渡り上手』『要領がいい』人間なのではないだろうか。
『この社会の大人たちが信用できない』
「だからな、こういうところにまで来てやる気があるように見えない奴はなしょうもない人間として一生過ごしていくんだよ。聞いてるか坂村」
『うるせーな』
しょうもないのはどっちだ。
「おい、坂村聞いてんのか?返事できるか」
決められたレールの上だけを走っている、傷つけることも傷つけられることも恐れているような奴に何が語れるんだよ。
「うるせえんだよ」
「お、坂村何か言ったか」
先生の声色が少しだけ変わったのが分かった。これ以上はやばいと本能的にわかった。
「お前が自己満足に浸って、大人としての仮面を被って語っているだけだろうがよ。胡散くせーこと言ってんじゃねーよ」
心の中の鬱憤を抑えきれず、僕はこう先生に向かって叫んでしまった。やってしまった、と思ったがもう後の祭りだった。
『あーあ』
『あいつバカだろ』
しばし、状況を理解できていない周囲も落ち着きを取り戻し、隣の人間同士でひそひそと話を始める。コミュニティの構成員を排除しようとする組織を守るための排除行為だ。
先生は大きく息を吐いて、優しい笑顔を取り繕う。
「まぁまぁ坂村、落ち着いたか。少し外に出て頭冷やしてきたらいいんじゃないか」
優しく不気味な笑顔の仮面を取りつけ、大人としての毅然とした対応を取り繕う。
「頭冷やす必要なんてねーよ。もうこんなところやってらんねーよ!」
そう吐き捨て、走って教室を出て僕は教室を後にする。
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