第3話 秘密の場所

閉店時間になり、マスターが声をかけてくれた。


「……今日、大変だったね」

「……仕方ないですよ。女装して働いてるのは事実ですから」

「矢田さん……」

「それよりも、ご迷惑をおかけしてすいませんでした」

「……」


マスターが味方でいてくれるのは嬉しい。

でも、やっぱり私が迷惑をかけてしまっているから、謝りたかった。


何のことかと言えば、今日もあった、客からのクレームだ。


私に対する客の反応はいまいちだ。

何も言わない客も多いけど、ぎょっとしたような表情でまじまじと見てくる客も、男女問わずいる。

マスターだけがいい意味で少し変わってるだけで、男がこんな格好してること自体に抵抗があることのほうが、たぶん普通なんだろう。


さっきも、「女装して接客してるお前みたいな奴は社会をなめ切ってる!」と言われ、無視して接客していると余計に相手が激昂してきたところをマスターに対処してもらった。


もちろん、いい気分じゃない。


なんでそんなことを、何も知らない赤の他人に、怒鳴られながら言われなくちゃいけないんだろう。


お前らに、私の……僕の、何が分かるんだ。

何も考えずに、ここにこうしているとでも思っているのか。


言いたいことは山ほどあった。


それでも、私は私のまま働けていることが支えになってくれていたから、私は何とか折れずに続けられていた。


「女装って、『お祭り』みたいに、なにかのイベントなら許される空気があるんだよね、きっと。でも、『日常』の中に女装を持ち込むと、それはルール違反だって、大勢の人は感じるみたいで……でもマスターは、そんな私を許してくれてる。だから……だから私は、ここで頑張れると思えて……」


客のいなくなった店内で、マスターは話を聞いてくれながら、私にコーヒーを淹れてくれた。

コトン、とおいてくれたブレンドの香りが、心の中のもやもやを、少しだけ晴らしてくれる気がした。


「……ありがとう……マスター……」

「……僕は君にずっとこの店を続けてほしいよ。小さな店だし、ずっと僕だけで回してきたけど、喫茶店という日常の中に入り込んだ君の姿は、とても綺麗だったんだ。初めて、この人ならここで働いてほしいと思ったんだ」


綺麗だという言葉が、私に向けられたものだと理解するのに、しばらく時間がかかった。

でもそれが分かると、頬が紅潮するのを自覚した。

嬉しさを誤魔化して、茶化すように軽口をたたく。


「……マスターそれって、私に告白してるの?」

「へ?あ、ああ!い、いや!そ、そういう意味では!き、綺麗なのは本当だし、あ、あの……」

「ふふふ……ごめん、からかって。でも……ありがとう。マスターのおかげで、私はここで、初めて私らしく過ごすことができてるよ。家でも学校でも、マスターみたいな人はいなかったから……だから、ここで働けて幸せなんだ」

「矢田さん……ありがとう」

「私の方こそ」


そう。この場所こそ、私が私でいられる、「秘密の場所」なんだ。


――『もう一つの秘密の場所』でも、私らしくいられるけど……あそこは、やっぱり非日常の空間だから……こうして、地続きの現実として私がいられるこの場所ほどじゃ、ない――


マスターが、私の秘密を知ったらどう思うだろう。


暗闇で無数に伸びてくる手にまさぐられる感覚を思い出してしまう。


マスターの照れた笑顔を見ていると、チクリと胸が痛む気がした。

今まで感じたことがない気持ちに、ざわざわしてる気がした。

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