第23話 かけがえのない死体です。
『お母さまへ
きょうは、おげんきですか? 足のぐあいは、どうですか?
ぼくは、きょうは、おべんきょうをして、おひるをたべて、にわであそんで、おやつをたべました。
きのうは、てつわんきしのクッションをありがとうございました。へやが、てつわんきしでいっぱいになってます。お母さまにも見てほしいです。
ほんとうは、おひるもいっしょにたべたいです。ぼくがあるいて、お母さまに会いにいきたいけど、お父さまがだめと言いました。だから、はやく足がなおるように、おまもりをあげます。中は、ねんどだからたべられないけど、もっていると、げんきになります。
はやくげんきになってください。
お母さまに、たくさん会いたいです。
あしたは、たのしみにしています。
ヘリオスより』
どの手紙にも必ず書かれている、『会いたい』の文字。
目にするたびに溢れる涙を、温かな便箋ごと、こうして胸に抱き締めている。
ぽっこりと膨らんだ、いつもより大きめの封筒の中には、金色の何かが入っていた。それは忘れもしない……お坊っちゃまと初めて逢った時に、カラスが落としていったもの。
『カラスが大事なものを持っていってしまったんです。もし落ちていたら返してください』
……今でもはっきり耳に残る可愛い声。
一生懸命カラスを追いかけて、遠く離れた庭まで来てしまうくらい大事な “お守り” を、私にくれたのだ。
美しい金色の紙から現れたのは、手紙に書かれている通り、白い紙粘土の塊だった。丸とも四角とも言えない小さなそれは、いびつな形のまま固まっている。
……お坊っちゃまが作ったのかしら。
掌で包めば、じわりと温もりが広がる。
何か意味のある物かもしれないし、辺境伯様にご相談してみよう。……辺境伯様……
つきんと痛む胸を押さえる。
侯爵夫妻が領地に帰られてから、辺境伯様とは一度もお会いしないまま、二週間近くが経っていた。
愛妻を演じる役目を終えた私に、用はないのだろう。それどころか、ダンスを踊ることが出来なくなって、呆れていらっしゃるのかもしれない。忙しい中、あんなに練習に付き合ってくださったのに。
だけど毎朝ジュリに、私の足の具合を尋ねられているみたいだし、給仕を通してお坊っちゃまの魔力入りの食事も届けてくださる。
怒っては……いない?
明日は “家族” で夕食を摂る聖なる日。久しぶりに二人に会える嬉しさと、緊張を抱えていた。
お坊っちゃまのお手紙を傍らに置くと、新しい便箋を用意しテーブルに広げた。最近は返事を書くのも苦しくて、便箋の上で長い時間、ペンを彷徨わせている。
小さな心を傷付けないように、でも期待を持たせないように。お別れに向けて、どんな言葉を綴ればいいのかと。
────そんな、長い夜のことだった。
突如響いた遠慮がちなノックの音に、便箋からはっと顔を上げる。
この叩き方は……
駆け出したくなる気持ちを抑え、膝を気遣いながらゆっくりドアへ向かい、呼び掛ける。
「……はい」
「私だ」
心臓が震える。
確信してドアを開ければ、ガウン姿の辺境伯様が、息を切らして立っていた。眠れずに起きていたという先日の夜とは違い、髪もガウンの紐も酷く乱れていて、いかにも寝起きといった様子だ。
今まで休んでいたのに、起きてわざわざ私の部屋まで来たということは……余程緊急の用件だろうと身構える。
「夜分にすまない」
「いいえ……何かあったのですか?」
「ヘリオスが……ヘリオスが大変で」
アイスブルーの瞳は弱々しく、今にも泣き出しそうだ。
「お坊っちゃまが? ……どうかされたのですか!?」
「君に会いたいと……泣き
「そんな……」
「申し訳ないが……ヘリオスを
頭を深く下げる辺境伯様。カタカタと震える長い腕を掴み、私はキッパリと言った。
「すぐにお坊っちゃまの所へ連れて行ってください」
歩けると訴える間もなく、さっと私を抱き上げ、お坊っちゃまのお部屋へ向かう辺境伯様。
さくさくと繰り出される長い足で、私の部屋とは反対側の遠く離れた廊下まで、あっという間に辿り着いた。次第に、耳を塞ぎたくなるような、子供の哀しい
開けられたドアの向こうでは、床にうつ伏せになって激しく身体を震わせるお坊っちゃまと、その背や足を必死に撫でる侍女達の姿があった。
私の姿を見て、彼女達はほっとした表情を浮かべると、「外で控えております」と頭を下げ部屋を出て行った。
お坊っちゃまと辺境伯様と私。三人だけになった部屋。私を不安気に見下ろす辺境伯様に、自信はないけど強く頷いてみせる。
「ヘリオス」
興奮しているのか、小さな耳にはなかなか届かない。何度目かで、やっと青い瞳をこちらへ向けてくれた。
「おっ……あ……さま」
「ヘリオス」
「おかっ……さっ……ま」
漸く私を認識したのか、ガバッと跳ね起きしがみついた。
「おか……さま……お……かっ……さまあ」
いつも温かなお坊っちゃまの身体は、前よりふっくらしているのに、ひんやりと冷たい。子供とは思えぬ力で私のガウンを握り締めると、わああっと哀しみを振り絞る。
いつの間にか傍に座っていた辺境伯様と二人で、震える背中を撫で続けていた。
落ち着いた頃には、私のガウンは大雨で濡れたみたいにぐしょぐしょになっていた。
雨を降らせた小さなお顔を拭っていると、タオルを持つ手をぎゅっと掴まれる。
良かった……さっきより少し温かくなったわ。
ホッとして握り返すと、血の滲む痛々しい唇から、切ない言葉を投げられた。
「お義母様……会いたかった」
「私も、会いたかったわ……すごく」
「お義母様……お義母様は、どこにも行かない? ずっと、僕のお母様でいてくれる?」
今度は私の目から、どっと涙が溢れ出る。
「ずっとは……ずっとはね、分からないの」
「どうして?」
「未来のことは、分からないから。一秒後も、一分後も……明日のことも。だから、ずっとのお約束は誰にも出来ないの。“ずっと” は、本当はどこにもないの」
「……僕はずっとがいい」
「そうね……だけど、ずっとだと困ることもあるのよ。たとえば……お勉強の時間とか」
こくりと頷くお坊っちゃま。その口元には、浅いえくぼが浮かんでいる。
「良いことも悪いことも、未来は全部、お楽しみなのよ。だから、“ずっと” はないの」
お坊っちゃまは少し考え、口を開く。
「ちょっと難しいから、考えておきます。だけど……良いことは、やっぱりずっとの方がいいな」
「そうね……本当にそうね」
真っ直ぐな答えに、私も真っ直ぐに向かう。
「 “ずっと” のお約束は難しくても、“今” のお約束なら出来るわ」
「 “今” ?」
「ええ。“今” 、私はヘリオスのお母様で、ヘリオスの傍にいるでしょう。“今” 、お母様はどこにも行かないわ」
「本当?」
「ええ」
「…… “今” が沢山集まって、“ずっと” になったらいいのに。そうしたら、お義母様はずうっと、僕のお母様なのに」
「ヘリオス……」
込み上げる愛しさのままに、小さな身体を抱き締める。ふわふわの巻き毛に唇を落とし、涙の跡が残る頬を胸に包み、背中をトントンと叩く。
そのまま私の腕の中で眠ってしまったお坊っちゃまを、辺境伯様が抱き上げ、そっとベッドへ寝かせた。
すうすうと穏やかな寝息を確認すると、辺境伯様は寝室の内ドアを静かに開け、唇に指を当てながら私を手招きした。
寝室から続くその部屋には、天井まで届く立派な本棚や、子供用の机が置かれている。きっとお坊っちゃまの勉強部屋だろう。
鉄腕騎士のクッションが綺麗に並べてあるソファーを勧められ、腰を下ろすと、辺境伯様も少し離れて隣に座った。静けさの中、オイルランプの灯りが映し出す影の濃淡を眺めていると、辺境伯様の掠れた声が届く。
「……どうもありがとう。こんな夜遅くに……本当に申し訳なかった」
再び頭を深く下げられる。
「いえ……そんな……! どうかお顔をお上げください」
僅かに目線だけ上げた辺境伯様は、私の足元を見て言う。
「……足は大丈夫か?」
「はい。何ともありません。……連れて来てくださってありがとうございました」
そう答えると、やっと顔を上げ目を合わせてくれた。哀しいアイスブルーを揺らしながら、薄い唇が弱々しく開かれる。
「最近あの子は、母親を亡くしたばかりの頃のように情緒が不安定になって。侍女の手からはほとんど食事を受け付けなくなり、どんなに注意しても自分で食べてしまう。話し掛けてもぼんやりしたり、夜も寝付けなかったり。今夜は特に酷くて……あの通りだ」
「……申し訳ありません。お坊っちゃまを苦しめてしまったのは私ですね。哀しいお別れを経験されたお坊っちゃまと、あんな風に……逃げるように距離を置くべきではありませんでした。残りの時間で少しずつ、慎重にお別れと向き合うべきでしたのに」
「お別れ……」
アイスブルーがくらりと揺れ、今にもそこから、何かが溢れてしまいそうに見えた。
……奥様のことを思い出されているのかしら。
お坊っちゃまみたいに抱き締めて、震える身体を撫でてあげたい。だけど……私がそんなことをしても、この人の哀しみは、ほんの少しも癒えないだろう。
「もし……もしお許しいただけるのでしたら、また、お坊っちゃまと一緒に昼食を摂らせていただけませんか?」
「……そうしてくれるのか?」
「はい。どこまで理解していただけるかは分かりませんが、責任を持って向き合わせてください」
「それを言うなら私の責任だ。ヘリオスが君を慕っていることは分かっていたが、ここまで大切な……かけがえのない存在になっていたなんて。……気付けなかったんだ」
“かけがえのない”
その響きが胸に温かく沁みる。
壊れかけの死体なのに、まさかそんなことを言ってもらえるなんて……
「私こそ……嬉しくて楽しくて、とても幸せで。お坊っちゃまも、お坊っちゃまと過ごす時間も……かけがえのない、大切な “今” です」
「……ヘリオスだけか?」
「え?」
前髪をくしゃりと握りながら、辺境伯様は気まずそうに目を伏せる。
「いや……何でもない」
不思議な沈黙をしばらくやり過ごした後、あのことを相談しようと口火を切った。
「あの……実は今日お坊っちゃまから、お手紙と一緒にお守りを頂きまして。前にカラスが落としていった、金色の紙に包まれた粘土です。大切なものだと思うので、お返しした方が良いのかと」
「……ああ」
辺境伯様は、顔中に哀しい笑みを浮かべる。
「あれはあの子の母親が、あの子へ最後にあげたおやつなんだ。中身は食べてしまったから、包み紙だけを大切に取っていて。いつしか自分で中に粘土を入れて、お守り代わりにしていたんだよ」
「そのような大切なものを……」
「君のことが大切だから、大切なものを渡したのだろう。迷惑でなければ……どうか、あの子の為に持っていて欲しい」
◇◇◇
それからは、昼になるとキリルが迎えに来て、セレーネを抱いて食堂まで連れて行く。三人で食卓を囲み、以前のように食事を食べさせ合うことで、ヘリオスの心身は次第に落ち着きを取り戻していった。
三人は、“今” の幸せを噛み締めながら、“ずっと” のない未来へ懸命に向き合おうとしていた。
一週間程経ったある晩遅く、屋敷を訪れたハーヴェイは、到着するなり足早に執務室へ向かう。
挨拶もそこそこに、激しい怒りを滲ませながら、兄へ調査書を突き出した。
「セレーネは……実家で虐待されていました」
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