第24話 泣いてもらえる死体です。

 

「……虐待?」


 一言、そう呟いたキリルは、すぐに調査書を開く。文字を追うごとに、その手はわなわなと震え、ハーヴェイと同じ激しい怒りに顔を歪ませた。

 何とか最後まで目を通すと、それを思いきり机に叩き付ける。荒い息が漏れるばかりで言葉にならない兄の代わりに、ハーヴェイが怒りを抑えた低い声で語り出した。


「セレーネはバラク侯爵が愛人に生ませた私生児だった……ということは、再調査ですぐに分かったのですが。それ以上は、“普通” に調査しても得られないと思い、まずは侯爵家に勤めていた元使用人達に直接接触しました。どいつもこいつも、よくないどころか腐ったオーラを纏っていて……何かを隠していると思い、金を餌に誘導したらあっさり白状しました」


「……ここに書かれていることを?」


「はい。病弱なセレーネに、5歳の時から空気の悪い物置部屋をあてがい、満足な食事も教育も与えず。痩せた身体を下女のようにこき使い、何かあるたびに……何もなくても暴言を吐いたり、激しい体罰を行っていたと。恐ろしいことに、義理の母親と腹違いの姉達からだけではなく、使用人達のストレスのけ口にもなっていたそうです。殴る、蹴る、鞭打ち、こてを押し付ける、寝かせない、食事抜き……常に痣と傷だらけで」


 ぐっと言葉に詰まるハーヴェイ。キリルは怒りに加え、悲痛な表情を浮かべる。


「……父親は? 自分で引き取ったくせに、何も対処しなかったのか? 娘だろう?」


「最初は気にかけていたそうですが、その内見て見ぬフリをするようになったらしいですよ。バラク侯爵は元々田舎の伯爵家の三男で、バラク侯爵家の一人娘である夫人と結婚したことで、侯爵位を授かりましたからね。夫人には頭が上がらないのでしょう。ましてや愛人に生ませた娘ですし」


「関係ないだろう!!」


 机に打ち付けたキリルの両拳には、破裂しそうな程血管が浮かび上がっている。空気をビリビリと引き裂く怒声に、ハーヴェイは震え上がった。

 幼い頃から、自分と比べてあまり感情を表に出さなかった兄。分かりづらいが、その内は非常に温厚で、優し過ぎる程優しい。その兄が、ここまで怒りを露にする様子を初めて目にし、驚いていた。


 キリルの呼吸が整うのを待ってから、ハーヴェイは口を開く。


「長女は既に婿を迎えていて、次女には婚約者がいる。散々虐げてきたくせに、家の為にとセレーネを売ったのでしょう」


「……病も放置されていたのか? それであそこまで酷くなったのか?」


「元使用人の話では、確かに病弱ではあったものの、昔はそこまで酷くはなかったそうです。食事も水も……与えれば摂れたし、許可すれば眠れたと」


 “与えれば”

 “許可すれば”

 今はどちらも叶わぬセレーネがそんな我慢を強いられていたことに、兄弟の胸は怒りを通り越し、激しい痛みに狂い始めた。


「休養も栄養も摂れない……そんな弱った身体を酷使させられたら、病気になるに決まっているだろう。虐待する奴らが、わざわざ金をかけて医師に診せる訳はないだろうし。とすれば……ジュリは元々セレーネ付きの医師だった訳ではなく、侯爵令嬢としての体裁を保つ為に付けられただけではないのか? この結婚の為だけに。考えたくもないが……見えない部分に虐待の跡があって、それを隠す為に他の医師に診せないのだとしたら」


「仰る通り……ジュリはここに嫁ぐ一ヶ月程前に、急遽侯爵邸にやって来て、セレーネ付きになった医師だということが分かりました。現使用人の口を割らせた所、セレーネは一時期寝たきりになる程悪かったそうで。いつ死んでも手間なく埋葬出来るようにと、侯爵夫人の命で常に棺に寝かせられていたとか。それがジュリの治療で劇的に回復し、ここに嫁ぐことが出来たそうです」


「生きている人間を棺に……!? そんなむごいことを」


「普通の感覚ではありませんね」


 ハーヴェイは歯を食い縛りながら続ける。


「ジュリの素性は、バラク侯爵の実家であるミュレイ伯爵家の遠縁ということしか分かりませんでしたが……。間違いなくよいものが視えていますし、彼女なりに、主人セレーネを大切にしていると思われます。まあ、一度他の医師にも診せるべきだとは考えていますが」


 深い息を吐き、キリルは力なく首を振った。


「何故……何故あんな優しいに、そんな非道なことが出来るんだ? 侯爵夫人はともかく、姉達にとっては血の繋がった妹だろう? よくもそんなことが……」


侯爵夫人ははおやから夫を奪い、更に自分達から父親を奪うかもしれない愛人の子と吹き込まれれば、その憎しみは自然とセレーネに向かうでしょう。不運なことに、ただでさえ差別を受けやすい容姿と、役立たずと蔑まれる魔力なしですしね。愛人譲りの美貌に、嫉妬していた可能性も」


「では何故……セレーネは……ヘリオスを愛してくれるんだ? 望まぬ契約結婚で、法律上の息子になっただけの血も繋がらぬヘリオスを。自分は家族から虐げられていたのに、何故他人を慈しむことが出来るんだ? あんな……あんなにも」



『お坊っちゃまをお叱りにならないでください』

『どうか叩くことは止めていただけませんでしょうか? お食事を抜くことも』

『お坊っちゃまも、お坊っちゃまと過ごす時間も……かけがえのない、大切な “今” です』



 キリルの頬を、つうと涙が伝う。泣いている感覚がないのか、頬から拳へボタボタと落ちるそれを拭うこともせず、虚ろな目で、ただ薄い唇を震わせていた。




「……兄上、セレーネの再婚相手ですが」


 ハーヴェイの言葉に、キリルは涙に濡れた顔を上げる。


「年頃の独身で、金も身分も地位もあり、容姿も悪くない。ヘリオスとも叔母と甥という繋がりが出来ますし……どう考えても、私以上の適任者は見つかりませんでした」


「何を……」

 それ以上言葉にならず、キリルは口を開けたまま固まる。


「これ以上彼女に、辛い思いをさせたくはないでしょう? たとえ病が悪化して……見た目が悪くなったり、歩けなくなったとしても。私は彼女を大切にすると誓いますよ」


「恋人達は……どうするんだ?」


「ああ、セレーネを妻に迎えるなら全部切ります。元々お互い、後腐れのない娯楽と承知で付き合っていましたし」


「……ふざけるな。女性に対してそんな不誠実なお前に、セレーネを幸せに出来るものか」


「さあ、どうでしょう。彼女が幸せになれるかは、私にも分かりません。ですが……私は彼女を “保護” したいのです。女性を “保護” したい……守りたいと思ったのは、彼女が初めてです」


 弟の真摯な眼差しに、キリルはたじろぐ。


「以前彼女に、再婚について話してみたことがあるんです。そうしたら、自分には再婚の意思はなく、実家で一生を過ごしたいと言われました。その時は何故だろうと思いましたが……きっと実家から、役目を終えたら戻るよう脅されているのではないでしょうか。まあ、一時的だろうが一生だろうが、二度とあんな所に帰すつもりはありませんが」


「……当然だ!」


 再び空気を切り裂く怒声。だがハーヴェイは、今度は微塵も震えることなく、冷静に兄に向かう。


「それならば、離縁後は速やかに私に彼女を預けてください。いつでもヘリオスに会えるように、近くに新居を構えて……迎え入れる準備を整えておきますので」


「……駄目だ。お前は、駄目だ」


「何故ですか? 私は、兄上が述べられた条件通り……いや、それ以上の男ではありませんか。そんなに私が信用出来ないのでしたら、兄上が彼女を本当の妻として迎え入れますか? 守って、愛して……私の妻になるよりも、幸せにする自信がありますか?」


「それは……」


 何かに怯え、ぐらぐらと揺らぎ始めるアイスブルーの瞳。ハーヴェイはそれを見て、哀しげにうつむいた。


「無理です。兄上には無理です。彼女は特に……兄上には荷が重過ぎる」



 背を向けドアへと歩き出すも、ハーヴェイはふと足を止める。振り返ると、いつも通りの軽い調子で言った。


「そうそう、セレーネの魔力についても調査したのですが、やはり見た者も感じた者も、誰一人としていませんでした。魔力がないのに、何故 “視えない” のかは結局分かりませんでしたが……その方が、私には楽ですから」



 ◇


 一人になってからもしばらく、キリルはハーヴェイの言葉を頭に反芻はんすうしていた。



『兄上には無理です』



 ハーヴェイの言う通り……自分には無理だろう。足の異変にも気付けなかった自分が、繊細な彼女を守れる訳がない。

 もしまた、アイネのように不幸にしてしまったら……


 目を閉じればいつも、太陽を思わせる姿がそこに浮かぶ。

 眩し過ぎて哀しい、最期の姿が────



 ◇◇◇


『アイネ、さすがに領地を越えるのは止めた方がいい。あの道は、身体への負担が大き過ぎる』


『大丈夫よ。もう安定期に入っているし、病気じゃないもの。ヘリオスの時だってあちこち動き回っていたけれど、何ともなかったのですから』


『だけど……今回は前とは違うかもしれないだろう?』


『自分の身体のことは、自分が一番よく分かっています。両親も呆れるくらいの超健康優良児だってね。厚手のクッションも持って行くし、少しでも異変を感じたら休むから大丈夫』


 それ以上何も言えず、膨らみ始めた彼女の腹部に視線を落としていると、温かな手で頬を撫でられた。


『……キリル様。お願い、行かせてください。今回を逃したら、いつあの気難しい職人と話が出来るか。何年も交渉してきて、やっと私の為に時間を作って会ってくれるというのに』


『……絶対に無理はするな』


『はい、分かっています。マリーと一緒に頑張って、必ず素敵なお土産を持って帰るわ。私達のラトビルス領と、この国の未来の為にね』



 ◇◇◇


 込み上げるものに目を瞬くと、今度は月のような姿がそこに浮かぶ。


 透き通った肌にアイスブルーのドレスを纏い、輝く金色の瞳で自分を見上げるセレーネ。

 フロイターゼワルツを眺めて、切ない金色の雫を流すセレーネ。

 ほんの僅かに左足を庇いながら、何でもない顔で歩くセレーネ。

 …… “ずっと” の約束は出来ないと、哀しく言ったセレーネ。


 どんなに避けても、他のことを考えていても、簡単に胸に押し寄せ溢れてしまう。



 ────分かっている。

 ハーヴェイの方が、自分なんかよりずっと……

 ハーヴェイならば、彼女を託せると分かっているのに。

 頭では理解していても、心が追い付かない。


 弟に渡せぬままの、あの美しい鳥のハンカチを想い、キリルは顔を覆った。


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