第22話 凍りつく死体です。
さっと全身が冷たくなる。
ちゃんと歩いていた。歩けていた……つもりだったのに。
「左膝でしょう? ……
私はすうと息を吸い、念の為用意しておいた嘘を吐く。
「……病から来るものなので、完治は難しいと。ですが痛みはほとんどありませんし、今夜のダンスには支障ありません」
言い終わる前に、ハーヴェイ様のお顔がみるみる険しくなっていく。
怒って……いる?
今までに見たことのない表情に恐怖を感じていると、彼は素早く笑顔の仮面を被り言った。
「嘘ですね」
グラスからシャンパンを一口流すと、彼はあくまでも軽く……だけど早口で捲し立てた。
「さっきジュリに訊いてきました。病から来るものなので完治は難しい……ここまでは同じです。ですが痛みが相当あり、悪化させない為にも、出来ればもうダンスは踊らない方が良い。最悪歩けなくなると」
ジュリ……どうして? どうしてそんなことを。
打ち合わせと違うわ。
「貴女は絶対に本当のことを言わないだろうと思い、先回りさせていただきました。ご自分のことよりも……この夜会をどう成功させるかしか考えていないのでしょう?」
空色の瞳の底には、激しい怒りと何かに対する怯えが混在している。笑顔の中で渦巻くその色は、いつもより深くて。誠実に向き合わなければいけないと感じた。
「……仰る通りです。何とか今夜を乗り切れないかと、朝からそればかりを考えていました。ただ、動かしにくいだけで痛みはないのです。本当に。そこはジュリが、私の身体の為にと誇張してお伝えしてしまっただけだと思います」
強い視線をじっと向けられるも、私も怯まず見つめ返す。
痛くないのは……嘘じゃないもの。
ハーヴェイ様はグラスをぐいと傾け、中身を一気に呷ると、笑顔のまま厳しい言葉を放つ。
「何か勘違いされているようですが……貴女の痛みなんかどうでもいいんです。ちゃんと笑顔で踊りきれるなら、足の骨が折れようが砕けようがどうなろうと構わない。……大事なのは、侯爵夫妻を歓迎するこの大切な夜会で、辺境伯夫人である貴女が、兄上に恥をかかせないことではないですか?」
ガンと頭を殴られる。
……その通りだ。私の痛みなんてどうでもいい。問題は、欠陥のあるこの足で、ちゃんと踊りきる保証があるかどうかだ。
「……申し訳ありません。正直に申し上げますと、今の状態ではフロイターゼワルツどころか、他のダンスも完璧に踊りきる自信はありません」
甘ったれた考えで、危うく辺境伯様に恥をかかせてしまうところだった……
情けなくなり
「ならば、今から全て私の言う通りにしてください」
ハーヴェイ様はそう囁くと、片腕で私の腰を抱いたまま、ゆっくりと歩き出す。ほとんど持ち上げられている状態で、膝に負担をかけないようにしてくださっているのが分かる。
ソファーや椅子が並ぶ一角まで連れて来られると、柔らかな座面に優しく座らされた。
「ここに居ればダンスに誘われることもありませんし、堂々と座っていられます」
周りでは、ダンスを踊るのが難しい老婦人や、足の不自由な方、若い妊婦さんらが座り談笑していた。
目が合った老婦人……確か元自警団長の奥様が、口に手を当て楽しそうに話し掛けてくる。
「まあ……まあまあ、もしかして」
もしかして? …………あっ!
勘違いされていることに気付き、慌てて訂正しようとするも、ハーヴェイ様がおおらかに答える。
「残念ながら、そちらはまだのようですよ。今夜の為に、兄上とダンスを踊りすぎて足を痛めてしまったのです。練習を楽しみすぎたせいで、せっかくの本番に踊れないとは……思わず笑ってしまいましたよ」
「まあ、そうでしたの」
どちらにしても、ほほほと楽しそうな奥様。
誤解が解けて良かったと、胸を撫で下ろした。
「それにしても、今日の奥様のドレスは素晴らしい。藍染のシルクですか?」
「あらあ! さすがハーヴェイ様ですこと! 実は最近嫁と藍染にハマっておりましてね……」
ハーヴェイ様は笑みを浮かべ、お手本みたいな相槌を打ちながらお話を聴く。やがて奥様が満足されたタイミングで、別の話を切り出した。
「奥様に一つお願いしたいことがあるのですが……」
「あら、何でしょう」
「もうすぐダンスが始まります。私は兄上を呼びに行きたいのですが、それまで義姉上が他の紳士からお誘いを受けないように、見守っていてくださいませんか? ここにこうして座っていても、さっきから彼女を見る視線の多いこと多いこと。……ほら! あそこにも」
ハーヴェイ様に顔を寄せられた奥様は、ほんのり頬を赤らめながら、真剣な顔で頷いた。
「あらあ……本当に。辺境伯夫人のお美しさでしたら、ここに座っているにもかかわらず、ダンスに誘う不届き者がいるかもしれませんわね」
豊満な胸をどんと叩き、奥様は力強い声で言う。
「ハーヴェイ様、どうぞここは私にお任せください。元自警団長の妻であり、現自警団長の母であるこの私が、責任を持って辺境伯夫人の足をお守り致しましょう」
「ありがとうございます。奥様でしたら、安心して義姉上をお任せ出来ます。……では、少しの間失礼致します」
ハーヴェイ様の背が人の群れへ消えて行くと、奥様は自警団さながらの厳しい目を、辺りに光らせ始めた。
しばらく経つと、辺境伯様が肩で息をしながらやって来た。立ち上がろうと腰を浮かせかけるも、肩を押されまた座面へ戻る。
「あら、辺境伯様がいらしてくださったならもう安心ですわね。奥様の足は、この私が無事にお守りしましたよ」
誇らしげに胸を張る奥様に礼を言うと、辺境伯様は私の隣に腰を下ろす。見上げた横顔に表情はないけれど……アイスブルーの瞳は、何かに傷付き苦しんでいるように見えた。
ダンスの開始を告げる鐘の音がホールに響き渡ると、人々はグラスや皿を置き、パートナーと手を取る。ざわめきの後の一呼吸で、楽団の指揮棒が空を切る音が聞こえた気がした。
美しいワルツの調べが
……本当なら、あの中に居たはずなのに。
踊らぬ人々も皆、華やかな波に意識を向ける中、辺境伯様は冷たい腕で私の肩を抱き寄せ、もっと冷たい言葉を囁いた。
「ダンスが終わるまで、このままこうしていてくれないか? ……踊らなくても、仲睦まじく見えるように」
「……はい」
心臓が凍りつき、鼓動を感じなくなる。
「……足のこと、何故言ってくれなかったんだ」
本来ならば、夫である辺境伯様に真っ先にご相談しなければいけないことが、ハーヴェイ様から伝わったのだ。お怒りになるのも無理はない。
「申し訳……」と謝りかける私を、辺境伯様の言葉が遮る。
「いや、違う、違うな。言われなくても気付かなければいけなかったのに。悪いのは私だ」
「……そのような!」
「私はいつもこうなんだ。気付かなければいけないことに気付けない。そのせいで大切なものを……失ってから気付くんだ」
辺境伯様の……大切な……もの。失ってから……
思い浮かんだ人に、心臓がピシピシと音を立てる。
それきり口をつぐむ辺境伯様と、何も訊けない私。ただ肩を抱き合うだけで、心は少しも触れ合えない私達が、仲睦まじくなど見えるのだろうか。
凍える私達を置き去りに、花は曲と共に移り変わり、流れていく。随分長い間そうしていたのに一瞬に思えたのは、鼓動を感じないせいだろうか。やがて、一際叙情的で甘い調べが流れると、ホールの熱気は最高潮に達する。
……フロイターゼワルツ……
ホールの中心には侯爵夫妻と……私達の代わりにハーヴェイ様とコナ先生の師弟ペアが現れ、その微笑ましさと期待感にどっと沸く。
その周りでは、元のパートナーへと戻った花達が、あちこちで熱い視線を交わしながら、曲に乗り大きく揺れ始めた。
踊らなくて良かったのだわ……きっと。
もし私達があの中心に居たら、この熱い波に溶け込めず、氷みたいにぽっかりと浮いてしまっていたでしょう。
あ、あのターン……難しくて何度も練習した。左足を軸にして、何度も何度も……
男性が頬を寄せて、もう一度ターンした後、今度は女性から頬を寄せる。この後は……
鮮やかな視界が、ぼんやりと滲んで色が混ざり合う。
……どうして私は泣いているのかしら。
複雑な色の中でキラキラと揺れる光は、遠くて眩し過ぎて、あの夜の星みたいに見えた。
転んでも、足が折れても、棺まで歩けなくなっても。
本当は……踊りたかったのかもしれない。夜会を成功させる為でも辺境伯夫人としてでも何でもなくて、本当はただ、辺境伯様と踊りたかったのかもしれない。
もう……二度と……
曲が終わり、拍手が沸き起こってもまだ星を眺めていると、冷たいものが目元に触れた。辺境伯様の指が涙を拭ってくれているのだと分かり、遠い星から隣へと視線を移す。まだぼやけていて、その表情はよく見えなかった。
◇◇◇
ダンスは踊れなかったけれど、侯爵夫妻にもお客様の誰にも、愛のない契約結婚だということには気付かれなかったようだ。
『セレーネ様、舗装工事が終わったら、是非カプレスク領へいらしてくださいね。寂しくて寂しくて……まるで娘の里帰りを待つ親の気分ですわ』
数日間の滞在の後、馬車に乗る直前まで別れを惜しみながら、侯爵夫妻は領地へ戻られた。
決して果たされることのない温かな約束に、胸が締め付けられる。もう二度と、お会いすることはないのだと……。早くてあと半年後には、辺境伯様とお坊っちゃまにも、こうしてお別れしなければならない。
ハーヴェイ様は首都の方でご用事があるとのことで、『またすぐに戻ります』とだけ挨拶をして、鳥みたいに軽やかに屋敷を飛び立っていった。
そして私は約束通り……お坊っちゃまと昼食を摂ることを止め、聖なる日以外は部屋から出なくなった。
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